目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第7話 夜を駆ける姫

 砂塵が巻き上がる夜の大地を、冷たい風が掠めていく。月光に照らされた獣王国の都ガルドベイルは、いつもよりも荒涼とした影を落としていた。


 都市を包む静寂は、まるで巨大な獣が息を潜めているかのようで、その不気味さにルナの心臓は激しく波打つ。そんな真夜中、一人の少女が疾風のごとく城壁の外へと逃げ出していた。


 白銀の髪を揺らし、深緑の絹衣を引き裂きながら、ルナ・フェンリル・ガルドリオンは必死に駆ける。咽喉の奥で掠れるように呟いた。


「……走れ、走れ……この足、止まるな……!」


 吐く息は白く瞬き、胸の奥には抑えきれぬ熱が渦巻いている。それは、自由への渇望と、理不尽な運命への激しい怒り。短刀の柄を握り締めた小さな手には、まるで誇りが灯るようだった。


 獣王国の第二姫、猛獣を率いる王〈ルクス・ガルドリオン〉と、“白き月の剣姫”と讃えられた母〈フェンリル・ガルドリオン〉の正統な血を引く彼女が、なぜこんな夜更けに婚礼衣装を蹴散らして逃げねばならないのか。

 その答えは、わずか数時間前の出来事にあった。不本意な政略婚の宣告。自由を愛するルナにとって、それは魂を縛り付ける鎖に他ならなかった。


「ふざけとる……なんで、わたしが……勝手に“婚約”なんて……!」


 ルナの声には、怒りだけではない、微かな焦燥も混じっていた。このままでは、彼女の未来は誰かの思惑通りに塗り替えられてしまう。


 彼女を追うのは、王国軍団長の息子にしてルナの婚約者、ゴルザークが差し向けた傭兵型ゴブリンの群れ。彼らはゴルザークの魔力によって生み出された、忠実な追跡者たちだ。鈍重な甲冑の金属音が、背後からせり寄る足音となって森に反響する。


「うちは、自由に生きたかとよ!」


 獣人としての本能を呼び覚まし、ルナは木の枝を蹴って一跳びし、また次の木へ飛び移る。猫のようなしなやかな身のこなしで、刹那、金属の刃が月を裂いた。


「何日でも逃げると!やられんばいっ!」


 薄暗がりの中、一体、また一体とゴブリンが散り、黒ずくめの影は脆く倒れる。ルナの短刀は、獣人の俊敏さと剣姫の血筋による本能的な勘によって、正確にゴブリンの急所を捉えていた。しかし数はいくらでも押し寄せる。森の地形が、逃げ場を狭めていく。


「くっ……もう少しでこの森の外れに抜けるってのに……!」


 焦燥が足を鈍らせたその刹那、いつの間にか回り込み、岩陰から飛び出した一体が不意打ちをかける。


「ぎゃ!」


 短刀を払った反動でバランスを崩し、ルナは重く地面に転がった。鋭い痛みが膝を走り、ルナは歯を食いしばる。追っ手との距離が、あっという間に縮まるのを感じた。擦り傷で脈打つ不安を、彼女は短く呟いた。


「……ここまでかと、思わんといてよね……!」


 そう言い切って立ち上がろうとした次の瞬間、彼女の胸にほのかな温かな手応えが走った。


 ぽっかりと空いた森の一角。ログハウスと小さな畑のそばに、ひとりの男が立っていた。煙とジャガイモの香りが混じる奇妙な出で立ち、ボサボサの髪に無精髭、野良着のまま、ふらりと現れた。


「猫耳きたぁぁぁ、ラノベ好きのみんな、猫耳だよ、もふもふが俺の目の前に来たんだよ。そして……めっちゃかわいい。」


 彼の呟きに、ルナの体は一瞬戸惑うも、自然と向こう側へと滑り込んだ。まるで透明な壁に吸い寄せられるように、彼女の体を“何か”が包み込み、体を通った。後から追ってきたゴブリンは、訳も解らず跳ね返されて地面に転がる。


「ぎゃふっ!?」


 何度も何度も入れ替わり立ち替わりゴブリンが結界に突進してくる。透明な膜に阻まれ、彼らは文字通り手も足も出ない。いつしか突破できないことがわかると森の中へ消えて行った。


 彼女は大きな瞳をさらに見開き、突然現れた男と、彼が放つ不可解な力に、驚きと安堵が同時に押し寄せる。初めて感じる安全な空間に戸惑いながらも、震える声で呟いた。


「にゃ……? なんこれ、入ってこんと」


「ふふ、俺のチート、ナメんなよ。」男は得意げに呟いている。


「……あ、あの、あんた……なん者ね? なんかバリア張った後たーばってん。」


 ルナの瞳がじっと男を見つめる。警戒しながらも、彼の不思議な能力への興味が勝る。びっくりしたようで咄嗟に笑顔になった。


「俺? 通りすがりのジャガイモ農家さ。」


「は……? なんそれ変態? ジャガイモ農家がなんでバリア張れると?」


「変態じゃない! ただのチート持ちの農家だよ!」

 リュウは胸を張り、得意げに笑った。その屈託のない笑顔に、ルナの緊張が少しだけ解ける。


 ルナはしばらくぽかんとした顔で俺を見つめたあと、小さく鼻で笑った。


「ふーん……ジャガイモ農家のくせに、助かったばい。ありがとね私、ルナ。猫獣人ばい。」


「そうか、ルナか。俺は龍介、茶川龍介。」


 こうして、逃げる姫と、物書きの男の出会いが訪れた。それは、世界の理から外れた二つの魂が、偶然にも引き寄せられた瞬間だった。物語の始まりを告げる、静かな句読点のようなひととき。だが、それは確かに、彼女の運命を大きく変える瞬間でもあった。


 そして現在、ログハウスの前では焚き火のはぜる音だけが、深い森の静寂を切り裂いていた。


 縁側に腰掛けたルナ・フェンリル・ガルドリオンは、今はルナとだけ名乗り、燃え落ちる薪をぼんやりと見つめている。白銀の髪が揺れるたび、火の粉がひらりと舞い上がった。


「ルナ。お前……逃げてきたんだな」


 隣でノートを閉じ、ペンを休めたリュウの声に、ルナは小さく息を吐いた。その声は優しく、ルナの張り詰めていた心の糸を少しだけ緩ませる。


「うん……逃げたと。第二姫って肩書きより、自分で選んだ人生が欲しかったと」


 焚き火の光が彼女の横顔を浮かび上がらせる。その瞳には誇りと寂しさが入り混じっていた。過去の重圧と、未来への希望が複雑に絡み合う。


「政略婚だろ? 親が勝手に決めたやつ」


 リュウはクスリと笑い、ルナを見返す。彼の瞳は、ルナの心をまっすぐに見通しているようだった。森の匂いとジャガイモの香ばしさが混ざる中、彼の言葉はどこか温かい。


「うち……婚約者って、軍団長の息子やったとよ。ゴルザーク・ガルフレア。獣王軍一の武勇派、筋肉だけは王国一。頭の中までマッチョ脳やけど」


 ルナがぽつりと告げる。リュウは目を丸くした。ゴルザークの人物像が、ルナの口から語られることで、具体的なイメージを植え付ける。


「お、おう……なんかもう、相性最悪だな。むしろ、殴り合うならわかり合えるかもしれんな」


 ルナがくすりと笑うと、森林の夜風がしっとりと首元を撫でた。その笑顔は、張り詰めた糸を解くように温かかった。リュウの言葉は、ルナの心を軽くし、彼女の表情には久々の安堵が浮かんだ。


 だが森の空気は一瞬で変わる。遠くから、風を裂くような笛の音、獣人にしか聞き取れない、犬笛のような特殊な周波が忍び寄ってくる。


 その音にルナの猫耳が、鋭く立った。警戒心をあらわにし、獲物を狙う獣のようにピンと張る。


「……来た。うちを探しよる、王家の追跡部隊、“獣王の目”たちが」


 やがて森を抜けて俺のささやかな安息の領地に、王家直属の影の軍団が辿り着いたのだ。その中心で、一際大きく漆黒の獣装を纏い、薙ぎ払うような威圧感を放つ男が姿を現す。その姿は、夜の闇に溶け込み、まるで巨大な影の獣が立ち上がったかのようだった。


「ルナ・フェンリル・ガルドリオン様。お迎えに参りました」


 全身を包む重厚な鎧の間から、鋭く冷たい瞳がルナを見下ろす。その声色には人族を震え上がらせる迫力がある。まるで凍てつく氷塊のような冷たさ。そして目を合わせると背筋に凍るような圧力が走った。


「ゴルザーク……!」


 ルナの声に揺れが混じる。かつての婚約者、そして自身の未来を縛ろうとする男。彼の登場は、ルナに再び自由を奪われる恐怖を呼び起こした。婚約者ゴルザーク・ガルフレア、その人である。


「よくもこんな辺境まで逃げ延びたものだ。姫の婚約者として、これを看過するわけにはいかん」


 ゴルザークは低く唸り、甲冑の袖越しに手を差し伸べる。


「婚約? そんなもん、わたしは一言も承諾しとらん!」


 ルナが短刀を抜き放ち、一歩、前へ踏み出した。月明かりに刃先が淡く光る。その瞳には、かつてないほどの決意が宿っていた。


「だが、王命だ。お前が何を言おうと、法のもとでは我が妻となる定め」


 その言葉に、ルナは振り下ろすように短刀を構えた。


「定め……そんなの、わたしが書き換えたるばい!!」


 鋭い叫びとともに、金属がこすれる音が森に響く。ルナの叫びは、彼女自身の内なる叫びでもあった。その刃先を前に、ゴルザークが驚きで瞳を見開いた。


「おいおい、まさか正面からあいつらに喧嘩を仕掛ける気か!?」


 リュウが慌てて二人ルナとゴルザークの間に走り寄る。彼の脳裏には、ルナが傷つく未来がよぎった。だが、ルナの覚悟は揺るがない。


「うちは……リュウと暮らしとると。畑も、風呂も、布団も、ぜーんぶ気に入っとると!」ルナは、リュウとのささやかな暮らしこそが、自分が本当に求めていた自由なのだと、改めて認識していた。


 火の粉が舞う中、ルナは胸を張って叫んだ。


「今さらっと入浴事情まで婚約者にバレたんだけど、絶対に勘違いされるやつ……」


 リュウの困惑したツッコミに、ルナはむくれながらも笑顔を見せる。


「バラす価値あるくらい、あんたと一緒におる方が、うちは幸せたい!!」


「うん、俺も構わないんだけどね……」


 俺はルナの言葉に隠しきれないほど顔が緩んでしまう。リュウの顔に浮かんだのは、困惑と同時に、確かにそこにある温かい感情だった。


 ルナの一言が、森の深い闇を切り裂いた。ゴルザークの顔色も見る見るうちに赤みを帯びていた。彼の顔に浮かぶのは、怒りよりも、むしろ困惑と驚きだった。


「……ならば、その“想い”を、力で示してみろ。ルナ姫よ」


 ゴルザークがゆっくりと構えを取る。甲冑の間から覗く鋭い眼光に、周囲の空気が凍りついた。彼もまた、ルナの言葉の真剣さを理解し、応えようとしていた。


 だが争いを好まないリュウは、ペンを静かに握り締め――

「だったら俺が、物語を一筆、加えてやるよ」


 ノートにインクが走り、文字が光を帯びる。その光は、まるで魔法のように、周囲の闇を照らし出す。リュウのペンによる文章は、単なる物語ではない。彼が書いた言葉を現実にする、チート能力だった。


《ルナ姫は、自らの意志で剣を取り、運命に抗う力を得た。もはや誰のものでもなく、自分の意思で行動できる》


 その瞬間、ルナの短刀が蒼い炎を纏い、指先まで熱く輝いた。それは、リュウの言葉が彼女の覚悟に呼応し、秘められた力を引き出した証だった。


「うちの物語、うちが選ぶばい!!」


 森に轟く叫びとともに、二つの意志が激突する。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?