「時間ってさ、ほんとに直線だと思う?」
その声は、まるで耳元で囁かれたかのように近くて、でもどこか遠くから響いてきた。
俺、黒崎悠斗(くろさきゆうと)は、薄暗い路地裏で立ち尽くしていた。
目の前には、さっきまでそこにいなかったはずの少女が立っている。
黒いフード付きのコートに身を包み、顔の半分を隠すようにマスクをしていた。
目だけが見えて、その瞳はまるで夜空を閉じ込めたような深い青だった。
「は? 何だよ、急に」
俺は警戒しながら一歩下がる。こんな夜中に、こんな場所で話しかけてくる奴にロクな奴はいない。
それに、さっきまで誰もいなかったこの路地に、いつの間にか現れたこの少女――どう考えても普通じゃない。
「時間は直線じゃないよ、悠斗。もっと複雑で、もっと脆いものだよ」
少女はくすりと笑って、マスクの下で口元がわずかに動いた。
名前を呼ばれた瞬間、背筋に冷たいものが走る。
なんで俺の名前を知ってる?
「お前、誰だよ? 何の話してんだ?」
俺はポケットに手を突っ込み、スマホを握りしめる。
いざとなれば警察に連絡――いや、こんな状況で警察が役に立つとは思えないけど。
「自己紹介は後でいいよね? だって、ほら、もう始まっちゃってるから」
少女が指をパチンと鳴らす。
その瞬間、世界が歪んだ。
空気がねじれるような感覚。
視界がぐにゃりと曲がり、路地のコンクリートがまるで液体のようになって揺れる。 次の瞬間、俺は見知らぬ場所に立っていた。
いや、待て。見知らぬ場所じゃない。ここは……俺の通う高校の屋上? でも、なんかおかしい。
空が妙に赤くて、遠くのビル群が半分崩れてる。まるで終末映画のセットみたいだ。
「な、なんだこれ!?」
俺は慌てて周りを見回す。
さっきの少女はすぐ横に立っていて、平然とした顔で空を見上げていた。
「ここ、君の『現在』の世界線の一つだよ。……まあ、ちょっと失敗した方の世界だけどね」
少女は肩をすくめて、まるで天気の話でもするような軽い口調で言った。
「世界線? 失敗? 何だよそれ! 説明しろ!」
頭が混乱してくる。時間移動? 並行世界? そんなのラノベやアニメの中だけの話だろ。なのに、目の前の景色はあまりにもリアルで、鼻をつく焦げた匂いまで感じる。
「説明する時間はないよ。だって、ほら、来るから」
少女が指差した先。屋上のフェンスが突然爆ぜ、黒い影が飛び込んできた。
人間じゃない。獣とも違う。全身が黒い霧のようなものでできていて、赤い目だけがギラギラと光っている。
「『クロノハウンド』。時間軸の歪みを喰らう獣。君がここにいるせいで、ちょっと目をつけられちゃったみたい」
少女はそう言うと、腰のホルスターから何かを取り出した。
黒い短剣――いや、刃の部分がまるで時計の針みたいに動いてる?
「逃げろ、悠斗。じゃないと、君の『時間』が全部喰われちゃうよ」
少女が笑いながら短剣を構える。クロノハウンドが低く唸り、俺に向かって飛びかかってきた。
***
目を開けると、俺はまた路地裏にいた。
さっきの屋上の光景は夢だったのか? でも、額に浮かぶ汗と、胸のドキドキは本物だ。少女はまだそこにいて、俺をじっと見つめている。
「ねえ、悠斗。時間って、選べるものだよ。君がどの世界線を生きるか、どの『刻』を刻むか。さあ、選んで?」
少女が手を差し出す。その手のひらには、小さな黒い時計が浮かんでいた。文字盤には数字じゃなく、謎の記号が刻まれている。
「選ぶって……何をだよ?」
俺の声は震えていた。
少女はマスクを外し、初めてその顔を見せた。整った顔立ちに、どこか寂しそうな笑みを浮かべている。
「君の未来を。――そして、私の過去を」
彼女の言葉が、俺の心に突き刺さる。
その瞬間、時計の針が動き出し、俺の時間が再びシフトした。