目の前で、黒い時計の針がカチリと音を立てた。
世界がまた歪む。さっきの路地裏の薄暗さも、赤い空の屋上の焦げた匂いも消えて、今度は一面の白い空間に立っていた。床も壁も天井も、全部が真っ白で、どこまでが地面なのかさえ分からない。
まるで無限に広がるキャンバスの中に放り込まれたみたいだ。
「ようこそ、『刻の狭間』へ」
少女の声が響く。振り返ると、彼女はすぐ後ろに立っていた。マスクは外れたままで、長い黒髪が白い空間に映える。年齢は俺と同い年くらい、16か17歳ってところか。でも、さっき見た寂しそうな笑みは消えて、今はどこか冷たい表情を浮かべている。
「刻の狭間? 何だよ、ここ」
俺は周りを見回しながら尋ねる。心臓がまだバクバクしてる。さっきのクロノハウンドとかいう化け物の赤い目が、頭から離れない。
「時間と時間の隙間。どの世界線にも属さない、中立の空間。ここなら、クロノハウンドも追ってこれないよ」
少女はそう言うと、腰のホルスターからあの時計の針みたいな短剣を取り出し、くるくると指先で回した。
「で、お前、名前は? さっきから俺の名前知ってるみたいだけど、いい加減教えてくれよ」
俺は少し苛立ちながら言う。時間だの、世界線だの、わけわかんないことばっかで頭がパンクしそうだった。
「私? 私はリナ。『クロノシフター』の一人。ま、簡単に言えば、時間と世界線を渡る者ってとこかな」
リナと名乗った少女は、軽くウインクしてくる。でも、その目は全然笑ってない。
「クロノシフター? それ、さっきの時計みたいなやつと関係あるのか?」
俺はリナの手元に浮かぶ黒い時計を指差す。さっきからその時計、妙に気になって仕方なかった。文字盤の記号が、じっと見てると頭の中でぐるぐる回ってるような感覚になる。
「鋭いね、悠斗。これは『刻の羅針盤』。クロノシフターが時間と世界線を操るための道具。まあ、君にはまだ早いかな」
リナはそう言って、羅針盤をポケットにしまった。なんか、めっちゃ上から目線だな、こいつ。
「早いとか遅いとかじゃなくて! 俺、なんでこんなことに巻き込まれてんだよ! 普通の高校生だったのに、急に化け物に襲われたり、変な空間に連れてこられたり!」
俺は思わず声を荒げる。確かに、俺の人生は平凡だった。親父は単身赴任でほとんど家にいないし、母さんはパートで忙しい。学校でも目立つタイプじゃない。ただゲームとラノベで時間を潰す、どこにでもいる高校二年だった。それが、こんなわけわかんない状況に放り込まれるなんて!
リナは一瞬、黙って俺を見つめた。
「……君が選ばれたから、だよ」
その言葉に、俺の心臓がまた跳ねた。
「選ばれた? 誰に? 何のために?」
「それは――」
リナが口を開きかけた瞬間、白い空間に亀裂が走った。
ガラスが割れるような鋭い音。空間の端から、黒い霧がじわじわと染み出してくる。あのクロノハウンドの気配だ。
「ちっ、こんな早く見つかるとは。やっぱり君、普通じゃないね」
リナが舌打ちして、短剣を構える。白い空間が揺れ始め、足元がぐらつく。
「待て、普通じゃないって何!? 俺、ただの――」
「話してる暇ないよ! 動く!」
リナが俺の手を掴み、羅針盤を握る。彼女の指が羅針盤の記号をなぞると、空間が再び歪んだ。
次に目を開けたとき、俺たちは森の中にいた。
湿った土の匂いと、木々のざわめき。空は薄暗く、まるで夕暮れ時みたいだ。でも、さっきの白い空間から一瞬でここに移動したってことは、また別の世界線ってやつなのか?
「ここは……?」
「世界線C-17。まあ、君の『元の世界』からちょっとだけズレたところ。クロノハウンドから逃げるにはちょうどいいかな」
リナは周囲を警戒しながら言う。でも、その声には少し焦りが混じっていた。
「ちょっとズレたって……お前、もっとちゃんと説明しろよ!」
俺が文句を言いかけた瞬間、背後でガサッと音がした。振り向くと、木々の間からあの黒い霧の化け物――クロノハウンドが姿を現す。さっきより数が多く、赤い目が五つも六つも光ってる。
「嘘だろ!? またあいつら!?」
「だから言ったじゃん、君、普通じゃないって。クロノハウンドがこんなしつこく追ってくるなんて、君の『時間』が何か特別なんだよ」
リナが短剣を握り直し、俺の前に立つ。
「悠斗、羅針盤持てる?」
「は? 俺が?」
「うん。君にもシフトの素質があるはず。試してみなよ」
リナがポケットから黒い羅針盤を取り出し、俺に放ってくる。反射的に受け取ると、羅針盤が急に熱を帯び、俺の手の中で振動し始めた。
「どうすりゃいいんだよ、これ!」
「心の中で、行きたい場所をイメージして! 時間でも、世界でも、どこでもいい!」
リナが叫ぶ。クロノハウンドが一斉に飛びかかってくる。
俺は目を閉じ、必死に何か――どこかを思い浮かべる。
(どこでもいい……家、戻りたい。母さんのカレー食って、ベッドで寝たい!)
羅針盤の針がカチカチと動き出し、俺の意識が一瞬暗転した。
目を開けると、俺は自分の部屋にいた。
見慣れたベッド、机の上に散らかった参考書、壁に貼ったアニメのポスター。間違いなく俺の部屋だ。
でも、なんか変だ。窓の外が……真っ暗。星一つない、ただの黒い闇が広がってる。
「やっちゃったね、悠斗」
リナの声。振り返ると、彼女は俺のベッドに座って、呆れたように笑ってた。
「君、シフトの初回で『無の世界線』に飛んじゃうなんて、ほんと規格外だよ」
「無の世界線!? 何それ!?」
「時間も空間も存在しない、空白の世界。……まあ、クロノハウンドも来れないから、しばらくは安全かな」
リナはそう言って、羅針盤を俺から取り戻す。
「でも、悠斗。そろそろ覚悟決めなよ。君の『時間』は、もう普通には戻れないよ」
その言葉に、俺の背筋が凍った。
部屋の外から、かすかに――カチ、カチ、と時計の針が動く音が聞こえてきた。