部屋の外から聞こえるカチ、カチという時計の音が、俺の頭の中で反響する。
自分の部屋のはずなのに、窓の外は真っ黒な闇。星も月も、街の明かりすらない。ただの「無」。
リナの言う「無の世界線」ってやつだ。
俺、黒崎悠斗は、ベッドの端に座るリナを睨みつけた。
「なんなんだよ、これ! 無の世界線って何? 俺の家なのに、なんでこんなことに!?」
声が震える。怒りなのか、恐怖なのか、自分でも分からない。
普通の高校生活が、こんなわけわかんない状況に変わるなんて、頭整理しきれねえよ。
リナは俺の剣幕にも動じず、黒い羅針盤を指先で弄びながら答えた。
「落ち着きなよ、悠斗。ここは安全な場所だよ。少なくとも、クロノハウンドからはね。無の世界線は、時間も空間も『固定』されてない場所。クロノシフターにとっては、ちょっとした休息ポイントみたいなもん」
休息ポイントって……まるでRPGのセーブポイントみたいに言うなよ。
「安全って言うけどさ、俺、いつまでこんなのに付き合わなきゃいけないんだ? お前、さっき俺が『選ばれた』とか『特別』とか言っただろ。どういう意味だよ?」
俺は一歩踏み出して、リナに詰め寄る。彼女の青い瞳が、じっと俺を見つめ返す。その目は、どこか遠くを見てるみたいで、ちょっとだけ――悲しそうだった。
「悠斗、君の『時間』はね、普通の人間のものじゃない。クロノハウンドが君を執拗に追う理由は、君の時間が『鍵』だから」
「鍵?」
「そう。時間と世界線を繋ぐ、特別な鍵。クロノシフターでも、ほんの一握りしか持ってない力。君はそれを持ってる――まだ自分で気づいてないだけで」
リナの言葉に、頭がぐちゃぐちゃになる。鍵? 俺が? ただの高校生なのに?
「そんなわけ――」
言いかけた瞬間、部屋の壁が揺れた。いや、揺れたんじゃない。壁が、まるで水面みたいに波打って、そこから黒い霧が滲み出してきた。またあのクロノハウンドだ!
「嘘だろ!? 安全って言ったじゃん!」
「うそっ、こんな早く!? 無の世界線にまで追ってくるなんて……悠斗、君の鍵、ほんとにヤバいみたい!」
リナが立ち上がり、時計の針のような短剣を構える。黒い霧が凝縮し、赤い目の化け物が姿を現す。今回は一匹じゃない。三匹だ。しかも、さっきよりデカい。
「逃げるよ、悠斗! 羅針盤、持って!」
リナが叫びながら、俺に黒い羅針盤を投げてくる。またかよ! 俺は慌てて受け取り、熱を帯びる羅針盤を握りしめる。
「またイメージしろってか!? どこ行けばいいんだよ!」
「どこでもいい! 君の心が求める場所! 早く!」
クロノハウンドの一匹が咆哮し、俺に向かって飛びかかってくる。赤い目が、まるで俺の全てを吸い込むみたいに輝いてる。
(どこでもいい……どこか、助けてくれる場所!)
俺は目を閉じ、必死にイメージする。頭に浮かんだのは、なぜか学校の図書室。あそこなら、静かで、なんか落ち着く気がした。
羅針盤の針がカチカチと動き、視界が一瞬暗転する。
目を開けると、目の前に本棚が並んでいた。
見慣れた学校の図書室。木の匂いと、紙のページの感触が漂ってくる。でも、なんかおかしい。棚の本が、全部真っ白だ。タイトルも文字も、何も書いてない。
「ここ、図書室……だよな?」
「うん、でも、君のイメージした世界線だね。C-17からまたシフトしたみたい。……ちょっと、変な場所選ぶね、悠斗」
リナが苦笑いしながら、図書室の窓を見やる。外は、さっきの無の世界線とは違う、薄い霧に覆われた景色。まるで世界がまだ「完成」してないみたいだ。
「変な場所って……俺、ただ図書室って思っただけだぞ!」
「それが君の鍵の力。無意識に、時間と世界の隙間を縫う場所を選んでる。普通のシフターじゃこんな不安定な世界線には飛べないよ」
リナが感心したように言うけど、俺にはさっぱりだ。
その時、図書室のドアがガタンと音を立てた。
「まさか、またクロノハウンド!?」
「いや、違う。これは……人間?」
リナが短剣を構えながら囁く。ドアがゆっくり開き、暗闇の中から現れたのは、意外な人物だった。
「黒崎くん!? なんでここに!?」
クラスメイトの佐藤美咲(さとうみさき)。
地味だけど真面目で、図書委員やってるあの子だ。メガネの奥の目が、驚きで丸くなってる。
「佐藤!? お前、なんで!?」
「そ、それ、私のセリフ! ここ、図書室だけど……なんか変で、さっきから誰もいないし、急に黒崎くんが現れて……!」
美咲が慌ててまくし立てる。リナが眉をひそめて、俺と美咲を交互に見る。
「悠斗、この子、君の知り合い? なんでこの世界線にいるの? まさか……もう一人の鍵?」
「は? 鍵って何!? 佐藤が!?」
頭が混乱する。美咲が鍵? いや、そもそもなんで美咲がここにいるんだよ!?
その時、図書室の窓がバリンと割れ、黒い霧が流れ込んできた。クロノハウンドだ。今度は五匹。
「くそっ、しつこいな!」
リナが短剣を振り上げる。美咲が悲鳴を上げ、俺の腕にしがみついてくる。
「悠斗、羅針盤! 今度は私がシフトする! 君は彼女を守って!」
リナが羅針盤を掲げ、記号をなぞる。図書室が揺れ、時間がまた動き出す。
「待て、リナ! どこ行くんだ!?」
「君の鍵の秘密、探ってくる! 絶対生きててよ、悠斗!」
リナの声が遠ざかり、視界が白く染まる。
次の瞬間、俺と美咲は、見たこともない巨大な時計塔の前に立っていた。