肌寒い風が、古都ベルンハルトの大理石の街並みに吹き抜けている。暦の上ではまだ秋だというのに、朝晩は冬の入り口を思わせる冷え込みだ。そんな朝、王都の中心部にそびえる壮麗な王宮の正門が、いつになく厳かな雰囲気を漂わせている。
王国において公爵家は数あれど、とりわけ名門と呼ばれるのがロザリンデ公爵家であり、そこに生まれた令嬢こそがエリザベス・ロザリンデだった。彼女には聖女としての奇跡的な力があると認められて久しい。まだ幼い頃にその才能を発現し、病に苦しむ人々を癒やしたことから、王都全体から尊崇を集めていた。
にもかかわらず、今朝早く、エリザベスには唐突な王宮への呼び出しが届いていた。王家の用事は多々あるとはいえ、なぜか胸騒ぎがする。何か嫌な予感が消えないのだ。だが、エリザベスはそれを表情に出すことなく、与えられた馬車で王宮へ向かっていた。
彼女は十七歳。長い金糸の髪をふわりと結い上げ、透き通るような青い瞳が印象的な美貌を持つ。その姿はまるで聖母像から抜け出してきたかのように儚げで、しかも気品がある。
彼女の父はロザリンデ公爵――ギルフォード・ロザリンデ。王国でも最高位の一族であり、その影響力は広大だ。母ソフィアもまた、良家の出身。エリザベスは愛情をたっぷりと注がれて育ち、公爵令嬢としての教育も完璧に身につけていた。さらに神々から与えられた「聖女の力」を持つ稀有な存在として、これまで何度も国を救ったと言っていい。
その功績を重んじ、王家はエリザベスを「第一王子レオポルド・フォン・ガルディア」の婚約者に迎えることを正式に決めていた。レオポルドは二十二歳。容姿端麗にして、王位継承権をほぼ確実に手中に収めている人物だ。もともと幼い頃からの顔見知りであり、エリザベス自身も彼を慕っていた。
しかしながら、この一年ほどは、レオポルドとの接触が減っていた。何かと理由をつけて面会を避けられているような気がする。だが、エリザベスはそれを深く追求しなかった。王太子となれば公務は山積みで、会う機会が減るのも当然だと自分に言い聞かせてきたのだ。
ところが、その違和感が今朝になって最高潮に達し、彼女の胸をざわつかせている。
王宮へ着くと、大理石の階段を上りながら、エリザベスは少し震えた唇を引き結んだ。朝方の冷え込みだけが原因ではない。王宮の空気そのものがどこか張りつめていて、衛兵たちの態度もよそよそしく感じられる。いつもなら顔なじみの近衛兵が笑みを向けてくれるのに、今日は目をそらして礼をするだけだ。
通されたのは玉座の間――国王アレクサンドル三世が政務を執り行う神聖なる場所。その日、国王の姿はなかった。代わりに、第一王子レオポルドが王位代行を務めているのだ。大広間の中央に立つ彼の隣には、見知らぬ少女がいる。
エリザベスは微かに首を傾げた。年の頃は十六、七歳だろうか。質素なドレスに身を包み、少し怯えたようにしかしどこか毅然とした面差しで立っている。その少女の姿に覚えはない。
玉座の間の周囲には、貴族たちが何列にも並んでいる。ロザリンデ公爵家の家臣や、顔なじみのはずの貴族もいるのに、彼らは一様に硬い面持ちだ。
重苦しい沈黙が漂う中、レオポルドがエリザベスを見下ろす。その目には、かつて向けられていた優しさが感じられない。冷たいまなざしが、エリザベスの心に棘のように突き刺さる。
「ロザリンデ公爵令嬢、エリザベス・ロザリンデよ」
深く礼をした彼女に対し、王太子――レオポルドは高圧的に命じた。
「面を上げろ。貴様に問うことがある」
驚きと共に顔を上げたエリザベスの目に飛び込んできたのは、険しいレオポルドの表情。そして隣に立つ少女が、エリザベスを睨んでいるようにも見える。
「……はい、殿下。私はここにおります」
エリザベスの返答は普段通りに落ち着いているが、その内心はざわめいていた。周囲には耳慣れぬ囁き声が飛び交い、「偽聖女」「真の聖女」といった断片的な言葉が漏れ聞こえてくる。
レオポルドはそれを確認するように頷くと、玉座の脇に立っていた侍従に目配せをした。侍従は壇上に近づき、声を張り上げる。
「これより王命により、『聖女』として国に仕えるエリザベス・ロザリンデ殿に対する重大な疑惑について、糾弾を行います!」
重大な疑惑。糾弾。言葉の重みがエリザベスの胸をえぐる。彼女は小さく息をのんだ。いつもなら、ここで国王が話し始めるのだろうが、国王アレクサンドル三世の姿はない。その代行としてレオポルドが、まるで敵を見るような冷徹な表情をしている。
「疑惑、とは一体……?」
震える声を抑えてエリザベスが口を開くと、レオポルドの隣の少女が一歩前に出た。
「私はミレイユ・バルディス。神の導きを受けて、この国を救うために現れた真の聖女です」
少女はそう名乗ると、周囲を見回しながら続ける。
「エリザベス様は、今までこの国の聖女として名を馳せてこられました。しかし……実はその力は完全なる偽物だと、神の啓示によって私は知りました。エリザベス様が行ってきた奇跡の数々は、すべて何らかの手段による詐欺行為、あるいは他者から奪った力によるものだと……」
その言葉に、大広間がざわつく。エリザベスは表情を失った。
これまで自分が行ってきたのは確かに「癒しの奇跡」であり、そう評されてきた。幼い頃に病に伏した子どもを救ったことを皮切りに、疫病が流行した村で人々を癒やし、多くの命を救ってきた。それは王国の公的記録にも残っているはずだ。
それらを「詐欺行為」だと言うのは、どう考えても荒唐無稽だ。どうやって他者から力を奪うのかも見当がつかない。そもそも聖女の力は神から与えられるものだと言われているが、エリザベス自身はそれを正確に解明することはできなかった。ただ、祈りを捧げると自然に力が湧いてきて、人々を癒せる。それだけのはずだ。
「……そんな、馬鹿なことが……」
エリザベスが愕然とつぶやくと、今度はレオポルドが声を張り上げる。
「ミレイユの言葉を疑うのか? 彼女が真の聖女であり、お前が偽者だという証拠は、既に我々は掴んでいる」
その言葉を聞くなり、エリザベスはレオポルドの顔をまじまじと見つめた。彼は自分の婚約者であり、幼馴染でもある。いつだってお互いを支え合い、将来は国の発展のために共に尽くすのだと信じていた。だが、今ここにいるレオポルドは、まるで見ず知らずの犯罪者を見るような目でエリザベスを見ている。
「……殿下。なぜ、そんな言葉をそのまま信じてしまわれるのですか? 私はずっと……」
「黙れ!」
レオポルドの一喝が、広間に響き渡る。あまりの剣幕に、エリザベスは息を飲んだ。普段は穏やかなはずのレオポルドが、こんなにも激昂した表情を見せるなんて。
「お前は、王家を欺き、国民を欺き、挙句の果てには神をも冒涜したのだぞ。お前のような悪しき者を、この国に置いておくわけにはいかん。今すぐ――いや、即刻、王国から追放する!」
「追放……ですって……!?」
エリザベスの視界が一瞬揺らぐ。追放というのは、王家や貴族社会を支えてきた彼女にとって想像も及ばない罰だった。王家に準じる公爵令嬢として生まれ育っただけでなく、聖女として国益に多大な貢献をしてきたはずなのに。
「そんな……あまりにも理不尽です……! 私は、これまで国を救うために力を使って――」
「もうよい。口先だけなら何とでも言える」
レオポルドは冷え切った声で言い捨てると、傍らのミレイユに目を向けた。ミレイユは大袈裟な様子で眉をひそめ、涙を浮かべている。
まるで嘆き悲しんでいるようだが、エリザベスにはその演技があまりにも不自然に見えた。しかし、周囲の貴族たちは――少なくとも多くの者は――彼女の言動を鵜呑みにしているように思える。
「どうかお許しください、殿下。私は……嘘ではありません。私には神の声が聞こえるのです。その声が、『エリザベスは偽りの聖女』だと……。本当に、心苦しくはありますが……」
その涙声に貴族たちが同情の色を示すのを、エリザベスはただ愕然と見つめるしかなかった。
なぜ誰も、エリザベスを弁護してくれないのか。今まで救ってきた人々からの感謝の声は、いったいどこへ行ってしまったのか。ここは王宮の玉座の間だ。きらびやかな装飾品に満ちあふれ、権威と権力が集う神聖な場所のはず。だが、この一場はあまりにも醜悪な陰謀と、無知からくる妄信に支配されているようにしか見えない。
2. 過去の栄誉と現在の疑惑
思い出されるのは、かつての王都を襲った疫病だ。あのときまだ十歳にも満たなかったエリザベスは、周囲の大人たちに止められながらも汚れた河川沿いの村へ足を運んだ。そこで倒れ込む病人たちを目の当たりにし、いても立ってもいられず、必死に祈りを捧げたのだ。
すると、体の奥底から温かい光が満ちてきて、病人の体を一人ひとり抱きかかえるように包んでいった。後にその場に立ち会った神官たちの証言によれば、あれこそが聖女の奇跡であると。誰もがそう確信していた。
確かに、その力をどう説明すればいいのか、エリザベス自身も明確に理解してはいない。けれど、これまでの結果が何よりの証拠であったはずだ。それを今さら「偽り」だと言われても、到底納得できるはずがない。
だが、レオポルドは完全にミレイユの言葉を信じ込んでいるように見える。いや、信じ込んでいるというより、まるで何かに取り憑かれたかのように、エリザベスを切り捨てることに固執しているようだ。
エリザベスはこの一年間の違和感を思い出す。レオポルドは、公務が忙しいといっては面会を拒んだり、書簡の返事も淡白だったり――それまでとは明らかに違う態度を取っていた。彼の周囲の人間たちも、いつしかエリザベスに近づこうとしなくなった。
まさか、既にその頃からミレイユの影があったのだろうか。彼女がいつから王宮に入り込み、どのようにして「真の聖女」と認められたのかはわからない。しかしその謎を今ここで問うことに意味はないと、エリザベスは悟る。
「――ロザリンデ公爵令嬢、エリザベス・ロザリンデは、王家に対する背信行為、および国民を欺いた罪で、直ちに王都を追放される」
レオポルドが王太子の権限をもって言い渡す。
玉座の間にいる貴族の中には、密かに眉をひそめる者もいる。しかし、公然と異議を唱える者はいない。公爵であるエリザベスの父――ギルフォードはどこにいるのか。エリザベスの視線は周囲を探したが、今この場には彼はいない。
もしかすると、王家の策略によって別の場所に拘束されているか、あるいは何らかの名目で席を外させられているのかもしれない。そうでなければ、ギルフォードが娘の窮地を見過ごすはずがないのだ。
だが、現実問題として、ここにはいない。その事実がエリザベスを絶望へと追いやる。
「待って……殿下、せめて父上と母上に会わせてください。私が何か罪を犯したというのなら……私は潔白を証明するために、どのような検証でも受けます!」
必死の訴えにも、レオポルドは耳を貸さない。むしろ冷笑を浮かべる。
「検証? お前は巧妙に証拠を隠し通すだろう。お前に時間を与えれば与えるほど、真の聖女であるミレイユに害が及ぶかもしれない。今がその好機だ。お前はこの国から出て行け。もう二度と王都に足を踏み入れることは許さん」
切り捨てられる言葉。これまでエリザベスが信じてきた、幼馴染としての絆も、婚約者としての未来も、すべてが一瞬にして崩れ去っていく。
王宮に仕える侍女がエリザベスのもとへ歩み寄り、涙を浮かべながら小声で「お逃げください」とつぶやいた。
誰も味方をしてくれないのかもしれない。エリザベスは諦念にも似た感情に浸されながら、もう一度だけ、レオポルドを真正面から見据えた。
「――わかりました。私は、この国を出ます。ですが……レオポルド様」
一呼吸置いて、エリザベスは続ける。
「あなたが信じる真の聖女とやらが、本当に国のためになるのかどうか……どうか、その目で確かめてください。私は……私が偽物ではないことを、神に誓って証明してみせます」
レオポルドはそれを鼻で笑った。
「ふん、お前がこの先どこで野垂れ死のうと、もはや私には関係のないことだ。もう婚約の件も破棄だ。今ここにいる皆の前で宣言してやる――お前との婚約は、完全に白紙に戻す!」
「……っ」
婚約破棄。それは大きな屈辱であり、ロザリンデ家にとっても到底黙っていられないはずの事態である。だが、父も母もこの場にはいない。いない以上、エリザベス一人ではいかんともしがたい。
ミレイユの瞳が小さく輝いたように見えた。彼女はレオポルドの腕にそっと触れ、猫なで声で囁く。
「殿下、きっと神はお喜びになるでしょう。これで私たちは、正しい道を進めますわ」
その声音には、安堵と勝ち誇ったような色が混ざっていた。エリザベスの胸には強い嫌悪感が沸き上がる。だが、ここで何を言っても無駄だ。もう誰もエリザベスの言葉を信じてはくれない。
それどころか、貴族たちが示す態度は、冷ややかか、あるいは無関心。まるで「エリザベスはもう終わった存在」という扱いだ。
「追放は直ちに執行する。荷物をまとめる時間も与えない。衛兵、こいつを宮殿から追い出せ!」
レオポルドの号令に応じて、衛兵がエリザベスに近づいてくる。彼らは目を伏せている。まるで申し訳ないと思っているかのようだが、職務は遂行しなければならないという立場なのだろう。
「……わかりました。私が出て行けばよいのですね」
エリザベスは衛兵が腕を掴むより先に、自ら振り返って歩き出した。背筋を伸ばし、涼やかな瞳をしている。
玉座の間を去る直前、最後に一度だけ振り向く。レオポルドとミレイユの傍らには、王家の重臣たちが集まり、新たな聖女の登場に期待を膨らませている。
その光景は、エリザベスの記憶に深く刻まれた。かつての仲間であり、家族同然のように信頼していた人々に囲まれながら、自分を見放したレオポルドの姿が、何よりも胸に痛い。
(――私は、国に必要とされなかったのだろうか。それとも、私が信じてきたものはすべて嘘だったのだろうか)
そう考えると、胸が苦しくなる。だが、今は泣いている場合ではない。気高くあろうとする自分の誇りを、こんな場で失うわけにはいかない。
エリザベスは毅然とした足取りで玉座の間を去った。
3. 雨の中の嘆き
王宮から追放され、門の外へ出ると、灰色の雲が立ち込めていた。先ほどまでは晴れ間があったというのに、今は重たい雨雲が今にも泣き出しそうだ。
「荷物をまとめる時間も与えない」とは言われたが、衛兵もそこまで非情ではなかったのか、最低限の身の回り品は届けさせるという。エリザベスは自分の部屋の侍女と信頼できる友人が瞬時にまとめた小さな鞄を受け取った。おそらく慌てて準備したのだろう、換えの衣服や旅用の靴などが雑然と詰め込まれている。
馬車は出してくれないらしい。徒歩で王都を出ろということだ。しかも、雨が降り出した。ぽつり、ぽつりと大粒の雨が石畳を濡らしていく。
衛兵たちは門の近くで黙って見送っている。彼らの中には、エリザベスが聖女として救ったことのある者もいるはずだ。それでも職務には逆らえない。
エリザベスはふと足を止めて、振り返りそうになった。しかし、そこにあるのは冷え切った石造りの壁と、閉ざされた巨大な門だけ。もう、この国――自分が生まれ、育った場所――を支えてきたはずの「聖女」としての立場は、すべて奪われてしまった。
雨が本格的に降り始める。髪とドレスはあっという間にずぶ濡れになり、鞄の中へ染み込もうとする水を何とか手で押さえ込む。
いつもなら侍女や従者が傘を差し出してくれただろう。だが、今は一人きり。雨は冷たく、秋の終わりの風が肌を刺すように吹き抜ける。
(……ここはもう、私のいる場所じゃない)
そう思いながら歩き始めると、こみ上げてくる喪失感に足が震えそうになる。親友の公爵令嬢たちや、支えてくれた神官たち、衛兵たち。誰一人として、あの玉座の間で声を上げてはくれなかった。もちろん、父や母だって黙ってはいないだろうが、今は連絡すら取れない。
追放というのは、基本的には「王都から退去しなければならない」ことを意味する。だが、どこへ行けばいいのか。ロザリンデ公爵家の領地へ戻ることも考えたが、そこへ戻っても国の命令に反することになる。そもそも、公爵家の人間が自宅にいるだけで「背信」と見なされ、危害が及ぶ可能性だってある。父や母に迷惑をかけたくはない。
(私は……きっと、もう戻れない)
無意識に涙が頬を伝う。だが、雨粒にすぐかき消されてしまうから、誰にも分からない。自分自身でさえも、その熱さを感じとることができない。
ここまであっさりと全てを奪われるとは思わなかった。あまりにも唐突で、あまりにも残酷だ。偽聖女と糾弾された理由も説明が曖昧なまま。あの少女――ミレイユ・バルディスが何者なのかも分からない。
しかし、どれだけ疑問を並べても、今はどうにもならない。レオポルドがあそこまで強い口調で糾弾する以上、彼の背後には何らかの政治的思惑があるか、あるいは本当にミレイユを信じ切っているのだろう。
雨はますます強くなるばかりだ。石畳に溜まった雨水を踏むたびに、冷たさが足元に広がる。公爵令嬢として育った彼女が、一人でこんな悪天候の中をさまようなど、これまでの人生では想像もしなかった苦境である。
(でも……私は負けない。私は確かに、人々を救ってきた。あれが嘘なんかじゃない。私が偽物であるはずがない……!)
誰もが自分を信じてくれなくなっても、自分だけは自分を信じてやらなければならない。
歩き進めるうちに、城下町を抜け、見慣れたいくつもの商店街や屋敷街が遠ざかっていく。通りかかる人々も、雨に振り込められて足早に行き交うばかりで、エリザベスにかまう者はいない。
せめて雨宿りでもしたいところだが、もし街中にとどまれば、王宮からの追手が来るかもしれない。追放とは即ち「国がエリザベスを拒絶した」こと。下手に目立つ行動は許されないだろう。
やがて王都の外れにある大きな城門が見えてきた。そこを越えれば、もう国境ではないにしろ、比較的自由に移動できる区域だ。
(行く宛なんて……どこにもない。けれど、歩き続けるしかない)
エリザベスは、一歩ずつ城門に近づいていく。見張りの兵士がいるが、エリザベスを引き留めることはしなかった。王都から出て行く、という目的は、まさに命令に従う行動だからだ。彼らはちらりと哀れむような視線を向けたが、何も言わない。
城門をくぐった瞬間、いっそう強い風が吹き付け、身体が一気に冷える。すでにエリザベスのドレスはずぶ濡れで、重く、動きづらい。髪も雨水を滴らせ、頬に貼り付いている。
そうして、エリザベス・ロザリンデは一人きりで王都を後にした。誰一人として見送る者はいない。かつての仲間はみな、王宮に残ったまま。追放――それは、彼女の存在そのものを否定する宣告だった。
4. 光を求めて
濡れそぼった身体を震わせながら、城門から伸びる街道を歩き出す。どれほど行けば次の町に着くのか、正確には把握していないが、まずは少しでも遠くへ行きたい。
王都ベルンハルトの周辺には、いくつもの領地が隣接している。公爵家や侯爵家が所有する広大な田園地帯と村が点在し、その先には緩やかな丘陵が広がる。そのさらに先には、隣国シュヴァルツ王国との国境近くに大河が流れており、貿易の要衝が存在する。
今は雨で視界が悪いが、晴れていれば美しい田園風景が見渡せる。エリザベスは何度か馬車で通ったことがあるが、徒歩で歩くのは初めてだ。まるでまったく別の世界に来たように感じる。
歩を進めるうちに、雨はますます勢いを増し、夕刻を迎える頃には嵐のような状態となった。
道中に人影はほとんどなく、時折すれ違う馬車も急ぎ足で走り去っていく。もちろん、こんな雨の中、平民たちも屋外に出たがるはずがない。
エリザベスは何とか身を隠す場所を探していたが、大きな樹や崖の陰くらいしか見当たらない。仕方なく、道端にあった古い祠(ほこら)のような建物へ足を運んだ。
その祠は、岩で作られた簡素な屋根と柱だけのもので、中は雨風をしのぐほどの空間もない。けれど、屋根の端の下に身を寄せれば、多少は雨を避けられる。
身体が冷え切っている。何より、空腹と疲労が襲ってきた。王都を追放されてから、まともに口にしていない。侍女が慌てて持たせてくれた鞄の中を探ると、固くなったパンが一切れだけあった。
それを口にしながら、エリザベスは痛感する。公爵令嬢として何不自由なく暮らしてきた自分が、こうして厳しい境遇に追い込まれるなど、夢にも思わなかった。
ただし、嘆いていても事態は好転しない。エリザベスはこのままでは風邪をひくだけでは済まないかもしれないと、危機感を抱く。せめて体温を保つために身体を摩擦するが、ドレスは水を吸って重く、体温は奪われる一方だ。
(どうにか、この雨がおさまるまで我慢して……その後で、どこかの村で宿を探そう。あるいは、小さい教会でもあれば、そこで雨宿りくらいはできるかもしれない)
そう考えていると、突然、大きな雷鳴が轟いた。稲光が辺りを裂くように閃き、続いて激しい雨音がさらに増す。夜の帳(とばり)が降りてくる頃には、まるで台風のような嵐になっていた。
雷鳴に驚き、強く身を縮こませたエリザベスは、その衝撃で身体が震え始める。冷たい風と雨だけでも消耗が激しいのに、雷は恐怖をさらにかき立てる。
孤独がこんなにも心細いものだとは――。公爵令嬢として育った彼女は、常に周囲に人がいて、温かな部屋があって、夜にはふかふかのベッドがあった。
今やそれらすべてが失われ、安住の地すら見つからない。まさに「追放」という言葉が現実として突き刺さる。
(それでも、嘆くだけではいけない。私にはまだ、この聖女としての力があるはず。私を必要としてくれる人が、どこかにいるはず……)
そう自分に言い聞かせる。身体を温めるために、少しでも祈りを捧げようかとも思った。だが、雨の音と雷鳴で頭がうまく回らない。それに、もし奇跡を起こせるとしても、今の自分には余力がほとんどないように思えた。
ふと、視線を上げると、祠の奥に古びた石造りの神像があることに気づいた。風雨にさらされて苔(こけ)が生えているが、おそらくこの地方で昔から崇拝されている小さな神の像だろう。
「……神よ、どうか私に道を示してください。私は……私は、偽物などではないはずです。私がしてきたことは、嘘でも欺きでもありません。私は……」
言葉に詰まり、エリザベスは唇を噛んだ。
すると、まるで答えるように、稲光がまた一度、夜空を引き裂く。それと同時に、ゴロゴロという雷鳴が轟き渡る。まるで彼女の祈りの叫びが、天に届かないかのようだ。
いつしかエリザベスの瞳には涙が溜まっていたが、それも雨水に混じって頬を流れ落ちるだけだ。声を上げて泣くことすらままならない。
5. 希望への一歩
それでも時間は過ぎていく。雨は深夜になってから、ようやく弱まってきた。激しい雷雨が嘘のようにしんと静まり返ると、寒さが一段と増しているのがわかる。
古い祠の下でうずくまっていたエリザベスは、ついに体温をあまり感じなくなり、意識も朧げになりかけていた。だが、ふと気を緩めて眠り込んでしまったら、そのまま目を覚まさなくなるかもしれない。そう思うと、必死に目を見開き、自分を叱咤した。
(このままでは危険だ……。せめて、人の住む場所まで行かなければ)
夜道を一人で移動するのは危険だとわかっているが、ここに留まっても危険であることには変わりない。教会や村落を見つけて助けを乞うしかない。
意を決して祠から出ると、雨はまだ細く降り続いていたが、さっきの豪雨に比べれば大したことはない。月は雲に隠れてほとんど見えないが、街道はそこまで複雑ではない。
エリザベスは何とか鞄を肩にかけ直し、足を引きずるように歩き始めた。ドレスの裾が汚れ、水を含んで重たい。靴の中はぐしょぐしょで、足の皮膚がふやけているようにすら感じる。
それでも立ち止まってはいけない。前へ進むことだけが、生き延びる手段だ。
しばらく歩くと、森の入り口のような場所に差しかかった。背の高い樹々がうっそうと茂っており、夜の暗がりにさらに濃い影を落としている。
街道を外れて森の中へ入るのは危険極まりないが、このまま街道沿いを行けば、どこかで村に辿り着く可能性がある。それに、森の中には小さな礼拝堂や小屋があるかもしれない……。
少し迷ったが、街道沿いをそのまま歩いていくことにした。見通しは悪いが、道沿いに行けば、いずれ人里に出られるだろう。
ふと、心細さが限界に達しそうなとき、エリザベスの脳裏に父と母の笑顔が浮かんだ。小さな頃からいつもエリザベスの力を信じ、愛してくれた両親だ。彼らは今、どうしているのか。自分が追放されたという報せを聞いているのか。
ギルフォード公爵なら、必死に抗議しているに違いない。だが、王太子が直接宣言した婚約破棄と追放を覆すのは容易ではないだろう。公爵家と言えど、王家には逆らえない部分がある。政治的な駆け引きがあるにせよ、王太子の怒りを買えば大きな代償を払わねばならない。
(ごめんなさい、父上、母上……。こんな形で、家の名誉を傷つけることになるなんて。でも、私は偽物じゃない。いつかきっと真実が明かされて、私はこの濡れ衣を晴らしてみせます)
そう誓って、夜道を歩き続ける。どれほど歩いたのか、もはや時間の感覚が曖昧だ。身体はとっくに限界に近く、何度も転びそうになる。雨音がやや落ち着いてきたのが救いだが、雲が厚くて月明かりもほとんどない。とにかく、足元だけを気にしながら一歩ずつ進む。
やがて、遠くにかすかな光が見えた。何かの建物の灯りのように思える。もしかすると、夜でも人がいる施設――例えば宿屋や商隊の停留所かもしれない。
希望に胸を弾ませ、エリザベスはか細い足取りでその光を目指した。近づくにつれ、その光の正体はどうやら街道沿いにある小さな茶屋か、簡易の宿のようだとわかる。小屋の入口にはランタンがぶら下がっていて、雨を避ける簡素な屋根と土間がある。
だが、残念ながら戸は固く閉ざされている。夜の遅い時間に戸を叩くのは憚られたが、助けを求めるにはこれしかない。エリザベスは意を決して、ノックする。
「……すみません、どなたか……いらっしゃいませんか?」
返事はない。もう一度、戸を叩く。すると、中からゆっくりと足音が近づいてくるのが聞こえた。やがて戸が開き、ランタンを手にした壮年の男が顔を覗かせた。
「こんな夜更けに誰だ? ……お嬢さん? こんな雨の中、何をしている?」
男は困惑の表情を見せる。薄暗がりの中だが、エリザベスのドレスや容姿を見て、ただの村娘ではないことに気づいたようだった。
エリザベスは力ない声で懸命に訴える。
「すみません……嵐に遭い、道に迷ってしまいました。少しだけで構いません……雨宿りをさせていただけないでしょうか……」
男は渋い顔をしながらも、エリザベスの困窮ぶりを見て、どうしようか迷っている様子だ。こんな豪雨の夜道をさまよっている女性を追い返すほど、非情にはなれないのだろう。
「……わかった。こっちへ入れ」
そうして、何とか彼の善意によって小屋の中へ招かれた。そこは簡素な作りで、床に藁が敷かれ、壁際には寝台のようなものがある。いくつかの荷物や道具が散らばっているが、雨風をしのぐには十分だった。
男はランタンを置くと、濡れたドレスのエリザベスを見て、呆れた口調で言う。
「まったく……着替えでもあればいいんだが、生憎と俺が持ってるのは男物の粗末な服ばかりだ。あと、すぐに出て行ってもらうことになるが、それでもいいか?」
こんな状況で贅沢は言っていられない。エリザベスは深くお辞儀をして、必死に礼を述べた。
「ありがとうございます。私は……追放者です。訳あって、身分を失いまして……宿もなくて……本当に感謝します」
追放者。男はその言葉に目を見開いたが、これ以上は聞かないようだ。面倒な事情には首を突っ込まないほうが安全だと経験から知っているのだろう。
やがて彼は、古い毛布と男物のシャツを差し出した。
「これでも着て暖を取れ。焚き火を起こせればいいが、ここにはあんまり薪がないんだ。濡れた服のままじゃ風邪どころか死にかねない。俺は奥の部屋にいるから、支度が済んだら声をかけてくれ。……朝には出て行ってくれよ」
「……はい。本当に助かりました」
男は何か言いたげだったが、結局は黙って奥のスペースへ消えていった。
エリザベスは与えられた毛布とシャツを手に取り、奥まった暗がりでドレスを脱ぐ。濡れた布が肌に張り付いてなかなか脱げないが、何とか脱ぎ捨ててから、シャツに袖を通した。サイズは大きいが、濡れたドレスよりは遥かに暖かい。
濡れた髪をタオルで拭くものの、タオル代わりになりそうなものは見当たらない。仕方なくシャツの端や毛布で少しでも水分を吸い取る。
ようやく一息つくと、猛烈な眠気が襲ってきた。冷え切った体を毛布で包み込み、そのまま固い床の上に座り込む。
(やっと……少しだけ、休める)
そう思った途端、瞼が重くなる。今日一日――というか、ほんの数時間の間に、あまりにも大きな出来事が怒涛のように襲いかかってきた。婚約破棄と追放。愛する国や家族からの切り離し。嵐の夜道を一人でさまようという絶望感。
しかし、今だけはその苦しみを忘れさせてくれとばかりに、睡魔がエリザベスを包み込んだ。
(父上……母上……ごめんなさい……私……)
最後にそう呟き、意識は闇へと落ちていく。
――こうしてエリザベス・ロザリンデは、王国を追放され、第一王子レオポルドとの婚約を破棄され、一人きりで嵐の夜を生き延びた。
まだ見ぬ隣国へと続く旅路。その先で、彼女は新たな運命に出会うことになるのだが、それは彼女自身もまったく予想していなかった。
今はただ、眠りの中で、失ったものの大きさを夢の奥にしまい込むだけ。冷たい現実から逃れるように、エリザベスは深い眠りに落ちていった。