「クロエちゃん、水色の宝石が必要なの?」
レオンは首を傾げ、無垢な瞳でそう言った。
「ええ、でも仕方ありませんわ」
「それなら、これを貸してあげるよ」
レオンは小指にはめていた指輪を外し、私の手のひらに乗せる。
「でも、これは殿下の大切な指輪でしょう」
手の中におさまっているレオンの指輪に視線を落とす。
レオンの瞳みたいなアイスブルーに近い水色の宝石がはまった指輪。これはレオンが生まれた時に作られたもので、いつか結婚したいぐらいに好きな人が現れた時に捧げるための指輪――そう、幼い頃にレオンが言っていたような記憶がある。
レオンや私のような立場の人間は、自分の感情だけでは結婚を決められないから、好きと結婚はイコールじゃない。だから、私との婚約が決まった時にも、レオンはこの指輪をくれなかった。
もちろん愛されていないのだから当然ね。
でも、本当は心のどこかでは、もらえるんじゃないかって期待してたの。こんなこと口が裂けても言えないけれど、あの時私、本当は少し傷ついたのよ。
「うん、だけど、減るものでもないし。それにいつか愛するクロエちゃんにあげようと思ってたから。もし気に入ってくれたなら、このままあげるよ」
「あげるよって、そんな簡単に……っ」
何が『愛するクロエちゃん』よ。
愛してなんかいないくせに。
あの時は私に指輪をくれなかったのに、今さらになってもらっても嬉しくないのよ。
感情がぐちゃぐちゃになって、つい溢れそうになった涙をこらえながら、下唇を噛む。
うつむいていたら、レオンが片膝を床につけ、ひざまづいていた。
「ちょっと、何して……っ」
レオンが私の左手を取り、薬指に指輪をはめる。
本当はずっとほしかったのに、今ではもうほしくない指輪。何も言葉が出てこず、私はただじっとレオンから贈られた水色の指輪を見つめる。
「だから、許してあげて?」
レオンはひざまづいたまま、私の左手の指先にちゅっと軽くキスを落とす。
「裏表がなくて、いつでも自分を偽らないクロエちゃんが大好きだよ。でも、婚約者の僕には何を言ってもいいし、僕は気にならないけど、他の人はどう思うか分からないよね」
「……そうね」
「クロエちゃんが誰かに恨まれて、傷つけられたりしないか心配で心配で……。僕が護衛になりたいぐらいだよ」
「ダメよ、王子様が護衛なんて」
「だったら、気をつけてくれる?」
キュルルンとした犬みたいな瞳で見つめられ、心臓がぎゅっとなる。
今のレオンは頭を打っておかしくなってるだけで、本当の彼は私を愛していないし、大切にも思ってない。間違っても、元のレオンはこんなことを言ったりしない。
頭では分かっているのに、こうやってレオンの顔で、声で心配され、愛を囁かれると勘違いしてしまう。まるで本当にレオンに愛されているのではないかと錯覚してしまう。
ダメね、私。こんなことで心が乱されるなんて。
誰にも屈しない悪の公爵令嬢、クロエ・ルルーシュはどこにいってしまったの。
「……分かったわ、気をつける」
毅然とした態度をとるはずだったのに。
結局私の口から出てきたのは、そんな言葉だった。
レオンが私の左手をぎゅっと握り、優しげな笑みを浮かべる。そんな目で見ないでよ……。
「あのー……。それで私の処遇は……」
おそるおそると言った感じで、メイドが話しかけてきた。
……あ、まだいたのね。私としたことが彼女の存在をすっかり忘れていたわ。
レオンの手をやんわり外し、一つ咳払いをする。
「レオン王子殿下の顔を立て、今回だけは不問にするわ。殿下に感謝なさい」
「あ、ありがとうございます、ありがとうございます……!」
メイドは立ち上がり、私とレオンにぺこぺこと頭を下げた。
「クロエちゃんと二人きりになりたいから、少し外してくれる?」
「な、レオン、勝手に何を……!」
「失礼いたしました。ごゆっくりお過ごしください」
もう一度頭を下げ、メイドはそそくさと部屋から出ていく。
ちょっと……、ごゆっくりって何よ。変な気をつかわないでよ。レオンが調子に乗ってゆっくりしていったら、どうしてくれるの。やっぱりあの子を許したのは間違いだったかもしれないわ。
「さっきの子を許してくれてありがとう、クロエちゃん」
下から声をかけられ、そちらに視線を向ける。
そうしたら、レオンが片膝をついた体勢のまま、こちらを見上げていた。
「殿下がお礼を言われることではございませんよね」
「うん、でも、嬉しいんだ」
「なぜ、でしょうか」
「みんなは誤解してるけど、僕だけは本当のクロエちゃんがどんな子なのか知ってるよ。ただちょっと言葉がキツいだけで、クロエちゃんは優しくていい子なんだ」
「何を根拠にそのような……」
「だってさ、さっきの子だって切ろうと思えば、本当はもっと早く切れるはずだった。それなのに、クロエちゃんは何度もあの子を許して、チャンスをあげたんだよね?」
レオンは優しい声で語りかけ、とろけそうなぐらいに甘い笑顔を向けてくる。
レオンは、こんなこと言わない。
レオンは、こんなこと思わない。
レオンは、私を愛してない。
必死に自分に言い聞かせてみても、無駄みたい。
どんどん顔も身体も熱くなり、きっと全身真っ赤になっているだろうことが自分でも分かったから。
「クロエちゃん、照れてるの? 可愛いなぁ」
「な……っ。照れてなど――きゃあっ」
『いません』と続けようとしたら、唐突にレオンに抱き上げられ、悲鳴に変わる。
「レオンっ。いきなり何を……っ」
文句を言ってやろうとしたのに。
レオンは私を横抱きにしたまま、幸せそうな顔をしていて、そんな気も失せてしまう。
「クロエちゃん、愛してるよ」
優しい声で愛を囁き、レオンが顔を近づけてきた。
ちょっと……っ。
「や……レオン……、殿下。お待ちください」
「婚約者にキスしちゃダメなの?」
「そういうわけではございませんが、私たちは……っん」
言葉の途中でレオンに唇を押しつけられ、キスで唇を塞がれる。頭を打ってから、レオンは何度も私にキスをした。だから、知ってしまったの。氷のように冷たい目をしていたレオンの唇があたたかくて、キスがとても優しいこと。
どうにかレオンから逃れようとするけど、抱きあげられている状態なので、どこにも逃げ場なんてなかった。
レオンのキスが嫌なわけじゃない。
むしろ……その逆。
こんなに優しいキスをされたら、レオンを忘れられなくなりそうで少し怖い。
レオンの記憶が戻ったら、いま恋人のように過ごしている甘い時間なんて消えてなくなるのに。冷たいレオンにさえキスしてほしいと思ってしまいそうで、怖いの。
私を愛していないならキスなんてしてほしくないのに、レオンを拒絶できない。だって、私、本当はずっと彼のこと……。
長くキスをされているうちに息が少し苦しくなって、私を抱きしめているレオンの首にすがりつく。
「クロエちゃん、好き。早く結婚したい」
ようやく唇を離したと思ったら、レオンはそんなことを甘く囁いた。
「ねえ。クロエちゃんと結婚したいって、父上に伝えてもいい?」
「二週間前に婚約破棄したばかりなのに同じ相手と結婚したいなんて言い出したら、呆れられますよ。ただでさえ断罪しようとしていた元婚約者のところに通い詰めていて、周りから変な目で見られているのではなくて?」
「他人の目なんて気にならないし、呆れられてもいいよ」
「殿下が気にされなくても、陛下はそうではないでしょうね」
「いいよ。もし父上が許してくれなかったら、クロエちゃんをさらって他の国に逃げるから」
とんでもない言葉が聞こえた気がして、思わずレオンをまじまじと見てしまう。至近距離で見つめたレオンの顔は、真剣そのものだった。
「何言ってるの」
「僕は本気だよ。僕が王子じゃなくなって、何も持たないただの男になっても、ついてきてくれる?」
レオンの水色の瞳に見つめられ、まるで心臓が鷲掴みにされたみたいに苦しくなる。いつも軽蔑しきったような冷たい目で私を見ていたのに、今のレオンの目はこんなにも熱い。
今だけ期間限定の偽物の感情だって分かってても、その言葉を信じてしまいそうになる。
「もしもレオンが本当に私をさらってくれるなら」
気がついたら、私はそう答えていた。
階段で頭を打ったのはレオンだけのはずなのに、私までおかしくなったみたい。
「約束だよ、クロエちゃん」
「……うん」
熱っぽく囁かれ、私はコクリと頷く。
だって、あなたはそうしてくれないでしょう?
指輪でさえ贈ってくれなかったんだもの。
レオンが私のために国を捨てるわけない。
だけど、もし……。
もしもレオンが私をさらってくれるなら、私も素直になって、一人の女としてあなたのそばにいたい。
そんな未来なんてあるはずもないのに、こんなこと思ってしまうなんて。誇り高い悪の令嬢失格ね。