昭和二十五年五月十日、午後五時。
――ガタン、ガタン……。
耳の奥に響く電車の音で目が覚めた。
瞼をゆっくり開くと、目の前には錆びたトタンと山積みのごみ袋。重たいまぶたを持ち上げるたびに、鈍い痛みが額を突き上げてくる。頬が腫れて、冷たい地面に触れていた腕は、まだ震えていた。
「あれ……ここ、どこ……?」
ぼくの名前は赤羽太郎。タローって呼ばれてた。
あのころ、ぼくはまだ五歳。東京の下町の古い家に、お姉ちゃんと二人で暮らしてた。
お姉ちゃんの名前は、みゆき。
やさしくて、強くて、ぼくにとっては世界の全部だった。
お父さんは警察官だった。
でも、怖い人だった。叱るとき、叩くとき、怒鳴るとき、全部が痛かった。
どうして怒ってるのか、よくわからなかった。ただ、機嫌が悪い日は、何をしてもだめだった。
お母さんは、ぼくが二歳のときに死んだ。
だから、お姉ちゃんとぼくは、ふたりでこっそり泣いて、ふたりで小さな楽しみを見つけて生きていた。
ある日、急に大人たちがざわざわしはじめた。
お父さんが――女子高生に、悪いことをしたって。ニュースにもなって、捕まった。
そのとき、思わず口からこぼれた。
「……やったぁ」
口にしたあと、少しだけ怖くなった。けど、本当の気持ちだった。
これで、もう怒鳴られなくてすむ。
もう叩かれなくてすむ。
けれど――解放は、長くは続かなかった。
二日後、ぼくが朝起きたとき、お姉ちゃんがいなかった。
まだ早い時間だったし、きっと学校に行ったんだ。そう思おうとした。
その日の夜。
残っていた甘いパンをかじりながら、毛布にくるまっていた。
――バリンッ!
何かが割れる音。びっくりして、和室へ駆け込む。
窓ガラスが粉々に砕けて、畳の上に鋭い破片が散らばっていた。
怖くなって、自分の部屋に戻った。
毛布を頭までかぶって、がたがた震えながら、お姉ちゃんが帰ってくるのを待った。
でも、翌朝になっても……お姉ちゃんは、いなかった。
玄関を出て、街を探そうと決めた。
でも、すぐに見つけたのは――壁に書かれた言葉だった。
《変態家族》《犯罪者の血》《消えろ》
手が、冷たくなった。息が詰まる。
逃げるように走り出したそのときだった。
ドン!
人にぶつかった。見ると、不良っぽい高校生だった。
「ご、ごめんなさ――」
言いかけた瞬間、ドゴッ、と顔面に衝撃が走った。
二発、三発。
気がつけば、ごみ捨て場に転がっていた。頭が痛い。顔が、熱い。
「クソが」
捨て台詞を吐いて、不良は去っていった。
気がついたとき、夕方だった。
ぼくはよろよろと立ち上がった。
「お姉ちゃんを……探さなきゃ……」
目が痛い。鼻血が乾いて、顔がつっぱる。
でも、立ち止まったらもう会えない気がして、ぼくは歩きつづけた。
気づけば、人気のない郊外まで来ていた。
古びた倉庫を見つけて、今夜はここで休もうと決めた。
中には何もない。ほこりと風の音だけ。
その奥に――木の扉が立てかけてあった。
何気なく近づいたときだった。
「……あれ」
足元に落ちていた、小さな飾り。
桜の花の髪飾り。お姉ちゃんが、いつも髪につけてたもの。
「お姉ちゃん……?」
まるで誘われるように、ぼくはその扉を開けた。
途端に、光があふれた。
「なに……これ……」
そこにあったのは、ぼくの知ってる東京じゃなかった。
海の街。だけど、異様な静けさと、匂いと、光と。
まるで、夢の中みたいな――どこか、遠い世界だった。
ぼくはそのまま、ふらふらと、扉の向こうへと足を踏み入れてしまった。