藤原陽菜がアメリカの空港に降り立った時、既に九時を過ぎていた。
今日は彼女の誕生日だった。
スマートフォンの画面には、同僚や友人からの祝福メッセージが溢れていた。
しかし、藤原悠真とのチャット欄だけが何のメッセージも来なかった。
藤原陽菜の唇に浮かんでいた微笑みが、徐々に薄れていった。
藤原家の本邸に着いたのは十時を過ぎてからだった。
執事の田中さんは彼女を見て、明らかに驚いた様子で「奥様? どうして急に……」
「悠真と景子は」
「ご主人様はまだお戻りになっておりません。お嬢様はご自分のお部屋で遊んでおります」
藤原陽菜は荷物を田中さんに渡し、階段を上がって娘の部屋のドアを開けた。
藤原景子は小さなパジャマを着て、一心不乱に机に向かっていた。
母親が入ってきたことにも気づかないほど夢中だ。
「景子」
振り向いた景子は「ママ!」と嬉しそうに叫んだが、すぐにまた作業に戻った。
陽菜は娘を抱きしめようとしたが、小さな手で押しのけられた。
「ママ、邪魔しないで。忙しいんだから」押し寄せる懐かしさに、陽菜はたくさんの言葉を胸に詰まらせたが、娘の楽しみを邪魔したくなかった。
「貝殻のネックレスを作ってるの」
「うん!」
景子は急に生き生きとした表情になった。
「知絵お姉さんの誕生日が近いから、パパと一緒にプレゼントを作ってるの! この貝殻、全部パパと磨いたんだよ。きれいでしょ?」
陽菜の喉が締め付けられた。
まだ口を開く前に、娘は背中を向けたまま続けた。
「パパ、知絵お姉さんに他のプレゼントも用意してるんだ。明日――」
胸が苦しくなり、陽菜は思わず聞いた。
「景子……ママの誕生日、覚えてる?」
「え? なに?」
景子はちらりと母親を見上げると、すぐにまた貝殻に目を落とした。
「ママ、話しかけないで。順番がわからなくなるよ」
陽菜はゆっくりと抱いていた手を離し、長い間ただ立っていた。
娘は最後まで顔を上げなかった。
唇を噛みしめ、陽菜は無言で部屋を出た。
階下で、田中さんが言った。
「奥様、ご主人様に電話しましたが、今夜は用事があるとのことで、お先にお休みになるよう……」
「わかった」陽菜はそう返すと、娘の言葉を思い出し、ためらいながらも藤原悠真に電話をかけた。
何度も呼び出し音が鳴り、ようやく繋がった悠真の声は冷たかった。
「用事なら明日――」
「悠真、こんな時間に誰?」
下瀬知絵の声がはっきりと聞こえた。
陽菜はスマホを握りしめた。
「何でもない」彼女が何も言わないうちに、電話は切れた。
数ヶ月ぶりの再会を求め、わざわざアメリカまで飛んだのに、夫は帰る気もなく、電話すらまともに聞いてくれない。
ここ数年、彼の態度は一貫してこうだった。
冷たく、距離を置き、面倒そう。
もう慣れているはずなのに。
以前なら、悠真がどこにいるのか、帰ってこれないのか、優しく尋ねただろう。
しかし今日は、疲れていたのか、そんな気力さえ湧かなかった。
翌日、目が覚めると、やはり藤原悠真に電話してみた。
アメリカと日本の時差は約18時間。
今日が彼女の本当の誕生日だった。
この旅の目的は、娘と夫に会いたいという思いの他に、この特別な日に三人でランチをすることだった。
これが今年の誕生日の願いだった。
悠真は出なかった。
しばらくして、ようやく悠真からメッセージが来た。
【何のご用件】
【昼、時間ある? 景子も連れて、三人で食事しない?】
【わかった。場所を決めて知らせろ】
【うん】
その後、何の連絡もなかった。
やはり彼は彼女の誕生日を忘れていた。
予想していたこととはいえ、胸の奥にじんわりと寂しさが広がった。
身支度を済ませ、階下へ降りようとした時、娘と田中さんの会話が聞こえてきた。
「奥様がいらっしゃって、景子様は嬉しくないのですか?」
「パパと知絵の姉さんと明日海に行く約束してたのに、ママが突然来たら、ついてこようとしたら困るじゃん。それにママって意地悪だよ、いつも知絵姉さんに厳しいし――」
「景子様、奥様があなたのママですよ。そんなことを言ったら、奥様が悲しみます」
「わかってる。でもパパも私も知絵姉さんの方が好きなんだもん。なんで知絵姉さんがママじゃダメなの?」
その後田中さんが何と言ったか、陽菜にはもう聞こえなかった。
景子は陽菜が手塩にかけて育てた。
この二年間、父娘の時間が増えるにつれ、娘はますます悠真に懐くようになった。
去年、悠真がアメリカに赴任する時、娘はどうしても一緒に行きたいと言い張った。
陽菜は寂しかったが、娘の悲しむ顔が見たくなくて、仕方なく承諾した。
まさか……
雷に打たれたように、陽菜はその場に固まり、顔から血の気が引いた。
仕事を押してまで駆けつけたのは、娘と少しでも長く過ごしたかったからだ。
しかし今のところ、どうやら余計なお世話だったようだ。
部屋に戻り、持ってきたプレゼントを再びスーツケースに詰め込んだ。
ほどなくして、田中さんから景子を連れて出かけるという連絡があった。
陽菜はベッドの端に座り、心の中が空っぽになった。
すべてを置いてやって来たのに、本当に彼女を必要としている人は誰もいない。
彼女の到来は、まるで笑い話のようだった。
長い時間をかけてようやく外出し、見知ったはずの街を当てもなく歩き回った。
昼近くになり、ようやくランチの約束を思い出した。
朝の会話を考え、娘を迎えに行くべきか迷っていると、悠真からメッセージが届いた。
【昼は用事ができた。食事は中止だ】
陽菜は画面を見つめ、特に驚きも感じなかった。
もう慣れている。
藤原悠真にとって、仕事、友人との約束……
何もかもが妻より優先される。
彼女との約束は、いつでも彼の気分次第でキャンセルされ、彼女の気持ちなど考慮されることはない。
寂しい? 昔はそうだったかもしれない。
今はただ、無感覚だった。
ふと気づくと、車はかつて悠真と何度も訪れたレストランの前に停まっていた。
入ろうとした瞬間、ガラス越しに藤原悠真、下瀬知絵、そして藤原景子の三人の姿が見えた。
知絵は景子と並んで座り、悠真と談笑しながら娘をあやしていた。
景子は楽しそうに足をぶらぶらさせ、知絵とじゃれ合い知絵が一口食べた菓子を口に運んでいた。
悠真は微笑みながら二人に料理を取り分けていたが、その視線は常に対面の知絵に注がれ、まるで彼女以外に見えるものがないかのようだった。
これが彼の言う「用事」だった。
これが命がけで産んだ娘だった。
藤原陽菜は唇を歪め、長い間その光景を見つめていた。
そして最後に、視線を外し、その場を去った。
藤原家の本邸に戻ると、陽菜は離婚届を起草した。
悠真は陽菜の少女時代の全ての憧れだった。
しかし彼の目に陽菜が映ったことは一度もない。
あの事故と藤原家の当主の圧力がなければ、悠真は陽菜と結婚することさえなかった。
昔の陽菜は、ただ頑張ればいつか悠真に見てもらえると信じていた。
現実は彼女に容赦なく冷たい真実を突きつけられた。
もう七年になる。
そろそろ目を覚ます時だ。
離婚届を封筒に入れ、田中さんに手渡し、「悠真に渡してください」と頼んだ後、陽菜はスーツケースを引きずりながら運転手に言った。
「空港へ」