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第2話

夜の9時を過ぎ、悠真と景子は藤原家の本邸に戻ってきた。


景子は父親の服の裾をぎゅっと握りしめ、ぐずぐずと車から降りていた。


彼女は今夜、帰りたくなかった。


ママがいるからだ。


でも知絵お姉さんが「ママはわざわざ景子ちゃんとパパに会いに来てくれたんだよ。帰らなかったらママ悲しむよ」と言ってくれた。


パパも「帰らないと、ママは明日きっと私たちと一緒に船に乗るだろう」と言った。


仕方なく頷いた景子だが、まだ心配でふてくされたように聞いた。


「パパ、もしママが明日どうしてもついてきたらどうするの」


「大丈夫、来ないから、絶対に」悠真の声には迷いがなかった。


ここ数年、藤原陽菜は機会を見つけては家族の時間を作ろうとしたが、それなりに空気は読んでいた。


彼が態度を示せば、彼女がわざと彼を不快にさせることはない。


景子の記憶の中では、ママはいつもパパに従う一方だった。


パパが大丈夫と言うなら、きっと大丈夫なのだ。


景子は安心し、足取りも軽くなって跳ねるように玄関に入り、田中さんを探して「お風呂!」と叫んだ。


「はいはい」田中さんは陽菜からの伝言を思い出し、封筒を悠真に手渡した。


「ご主人様、奥様からお預かりしております」


悠真は受け取りながら「彼女は」と聞いた。


「それは……奥様は昼過ぎに荷物をまとめて帰国されました。ご存じなかったのですか」


悠真が階段を上がる足が止まり、振り返った。


「帰った?」


「はい」


藤原陽菜がなぜ突然アメリカに来たのか、悠真には興味も関心もなかった。


彼女が去ったことを知っても、特に気にかけなかった。


景子も少し驚き、胸に小さな寂しさが広がった。


もしママが明日の船に乗ってこないなら、夜にママと一緒に過ごすのも悪くないな、と思った。


それに、貝殻を磨くのは手が痛いから、ママに手伝ってもらおうかと思ってたのに!


夫婦が数ヶ月ぶりに会うはずだったのに、妻は遠路はるばる訪ねてきたにもかかわらず顔を合わせることもなく帰ってしまった。


陽菜が去るときのひどく青ざめた顔を思い出し、田中さんは思わず悠真に伝えた。


「ご主人様、奥様はお帰りになる時、お顔の色がとても悪くて……怒っておられるようでした」


急用で帰国したのだと思っていたが、今になって不自然さに気づいたのだった。


怒る?


陽菜は悠真の前では常に穏やかで大人しかった。


彼女にも怒るという感情があるのか?


悠真は少し新鮮に感じ、特に気にも留めずに軽く笑い、田中さんに適当な返事をして階上へと上がっていった。


部屋に戻り、封筒を開けようとした時、下瀬知絵から電話がかかってきた。


電話を終え、悠真は封筒をぽいっと放り投げ、ドアに向かった。


封筒はベッドの脇の床にひらりと落ちた。


その夜、藤原悠真は帰宅しなかった。


翌日、田中さんが部屋の掃除をしている時、床に落ちた封筒に気づいた。


奥様から託されたあの封筒だ。


ご主人様はもう中身をご覧になったのだろう、と思い、そばの棚にしまっておいた。


......


藤原陽菜は自宅に着くと、真っ先に荷造りを始めた。


6年間の結婚生活で、家には彼女のものがたくさんあった。


しかし彼女が、数着の服と日用品、専門書だけ持っていった。


結婚後、藤原悠真は毎月、彼女と娘のために生活費を2枚のカードに振り込んでいた。


1枚は陽菜用、もう1枚は景子用だった。


しかし陽菜は自分のカードを使っていて、娘のカードには手を付けなかった。


彼女は藤原悠真を愛していた。


街で彼に似合いそうな服や靴、カフスボタンやネクタイを見かけると、つい買ってしまうのだった。


自分自身については、仕事の性質上、日常の出費は多くなく、心は常に夫と娘に向いていた。


いつも二人に最高のものを与えたかった。


だから悠真からの生活費のほとんどは、親子のために使われていた。


そういう事情だったから、カードにはほとんど残高がないはずだった。


しかしこの1年あまり、娘は基本的に悠真とアメリカで過ごしており、彼女が二人に物を買う機会は激減した。


今、カードには3000万円以上が残っていた。


3000万円は悠真にとっては取るに足らないものだが、彼女にとっては巨額だ。


もともと彼女が受け取るべきものだ。


陽菜は気取らず、その金を他の口座に移動させた。


2枚のカードを残し、スーツケースを引きずり、振り返ることなく家を出た。


会社からそう遠くない場所に、彼女は4年前に家を買っていた。


100平方メートルほどで、家出した友人の業績のために購入したものの、ずっと空き部屋のままだった。


今、それが役に立つ時が来た。


定期的に掃除が入っていたので、汚れてはいなかった。

簡単に片付ければすぐに住める状態だ。

長い一日の疲れで、夜10時過ぎには陽菜は風呂に入り、寝床についた。

「ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン――」耳障りな目覚まし時計の音が突然鳴り響き、陽菜は飛び起きた。


意識がはっきりして、今が午前1時で、アメリカにいる悠真と娘の時間帯では朝の7時過ぎだと気づいた。


娘が悠真とアメリカに行ってから、陽菜は通常この時間に娘に電話をかけていた。


仕事で疲れて早く寝てしまうことが多く、電話を逃さないようにこのアラームを設定していたのだ。


最初の頃、娘はアメリカの生活に慣れず、母親をとても恋しがり、頻繁に電話をかけたがっていた。


しかし時間が経つにつれ、電話の向こうの娘の慕情や懐かしさは、次第に適当な返事やいらだちに変わっていった。


このアラームは、とっくに意味を失っていた。


消したくなかっただけだ。


陽菜は自嘲的に笑った。


ためらった末、彼女はアラームを削除し、電話の電源を切って再び眠りについた。


一方、その頃、藤原悠真と藤原景子の朝食は終わりに近づいていた。


悠真は陽菜がほぼ毎日この時間に娘に電話をかけることを知っていたが、いつも家にいるわけではなかったので、特に気にも留めていなかった。


今日電話が来ないことに気づいたが、深く考えず、食べ終わると着替えに階上へ向かった。


景子はママが最近うるさくなり、電話に出るのがますます嫌になってきたと思っていた。


今日は電話が鳴らないので、ママが用事で遅れているのかな、と考えた。


彼女はきょろきょろと目を動かし、鞄をつかむと外へ駆け出した。


田中さんが「景子様、まだ時間はたっぷりありますよ!」と呼びかけたが、景子は聞こえないふりをして嬉しそうに車へ向かった。


珍しくママが時間通りに電話をしてこないのだ。


今逃げ出さない手はない!もし後で電話がかかってきたら、また長話をさせられる。


絶対嫌だ!


......

結婚後、藤原陽菜は藤原株式会社に就職した。


当時は藤原悠真のために入社したのだ。


今は離婚を決めた以上、残る理由はない。


翌朝、会社に着くと、陽菜は退職願を神崎慎に提出した。

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