先ほどまでの怒号や壮絶な攻防が嘘のような静けさの中、剣崎君の一刀を浴びた化け猫はそれきり動かない。瓦礫混じりの畳の部屋に横たわっていた。その動かなくなった大きな猫を、黙って見下ろす僕たち。
「小雪殿……」
小太郎さんが、ずるりと膝をついて倒れた体へ駆け寄った。その声は震えていた。
「すまない、だが……」
「よいのです……仕方ありません」
僕の言葉に、小太郎さんがかすれた声で答える。
(終わったのか?)
心の中で自問する── しかし、どこか釈然としなかった。これが本霊? 普通、本霊はもっと禍々し妖気に包まれて……
── !?
次の瞬間、化け猫の体から黒い粒子のようなものが立ち上り始める
(これは?……妖気!)
煙のように立ち上るそれは、そのまま霧散していくかと思われた……だが、突然意志を持ったかのように蠢き始めた。流れるように黒い霧は床を這い、部屋の隅に転がる黒塗りの箱へと吸い寄せられていく── 化け猫が暴れた際に棚から落ち、蓋がわずかに開いたその箱。
やがてカタカタと箱が震え出し、中から現れたのは
ガシャリ──
やがて、無機質な音とともに動き出した黒い影。よく見れば黒い
そして黒く
──スラリ
漆黒の剣を抜くと、空を切るかのように一振りした。
瞬間、景色が一変する。
現われたのは十畳ほどの板張りの部屋、周囲を囲む太い柱に白壁、さらに重厚な梁。板の間の先に欄干、その向こうには灰色にくすんだ空が広がっている。これがここ本来の姿── 城の最上階、天守閣だった。
(……本霊っ! こいつだ、間違いない!)
瘴気を纏った様な黒武者を前に確信する。刀を構え直した剣崎君の表情にも緊張が走る。
「……主殿」
小太郎さんが低くつぶやいた。
──!
「間違いござらん。この匂い! 主殿だ」
(やっぱりそういうことか……)
「主殿! 小太郎です!」
小太郎さんが声を上げ、黒武者へ駆け寄った。だが──黒武者が乱暴に右腕を振るう。吹き飛ばされ、壁に激突して気を失う小太郎さん。
「野郎っ!」
剣崎君がすかさず刀を振りかぶり、切り込んでいく。
── カキン!
漆黒の剣が、その一刀を易々と弾く。
続けざま二度三度と切り込んでいく。だが、剣崎君の刃が派手に火花を散らすも、いずれの打ち込みも軽くあしらわれているように見えた。
真っ向から刀を合わせ切り結ぶ剣崎君だったが、力で押され覆いかぶさるような体勢になる。苦悶の表情を浮かべる。
「くうっ……」
その時、黒武者が刃をわずかにずらす。力の支点を外された剣崎君は体勢を崩し、その顔面めがけて黒武者の肘が鋭く飛んだ。
「ぐあっ!」
態勢を大きく崩した剣崎君へ、すがさず黒武者が刃を振りかぶる。
その時、忍び寄った白騰蛇が、後ろから黒武者の体に絡みついた。
黒武者は素早く脇差を抜き、白い大蛇の体に突き刺す。鮮血が白い体に流れ落ちる。血を流しながらも、白騰蛇はさらに締め付けていく。
だが、傷を受けた白蛇のダメージが僕にも伝わり、霊気カウンターが下がっていく。このままだと、すぐに40パーセントを切るだろう。恐らく剣崎君の霊気も同様のはず。
(強い……いや、強すぎる)
鼻血を流す剣崎君に駆け寄る。
「一度、戻ろう。今の二人では厳しい……」
だが
「ダメだ」
怒ったような顔で拒絶する剣崎君。
「なぜ?」
唇を噛み、僕を睨みなら言った。
「言われたんだ」
「?」
「俺の討伐率が低いって……」
「えっ?」
「このままじゃ給料を上げるどころか、仕事を続けることも難しいかもってな」
「誰に?」
「課長だよ」
「課長が? ……そんなことを?」
言葉に詰まる僕。
「戻るなら先に戻れ!」
「バカを言うな……」
その時──
「シャーッ!」
悲鳴をあげる白い大蛇。見ると黒武者が蛇の顔面に脇差を突き刺していた。血まみれの白蛇が苦しげに身をよじらせる。やがて力尽き、黒武者への拘束が解ける。次の瞬間、低い唸り声と共に刀を振った黒武者によって、白騰蛇の霊体が裂ける。全身が霧となって消えていった。
「くそがっ!」
走り込んだ剣崎君、そのまま跳躍し、頭上から勢いを乗せた剣を振り下ろす。だが、黒武者はまるでそれを予期していたかのように身を翻し、ひらりと躱した。
空を斬った剣崎君は勢いあまって、体勢を崩す。その隙を逃さず、黒武者が体を寄せると、脛当で固めた脚で剣崎君の腹をとらえた。
「うぐっえ!」
鈍い衝撃音と共に、剣崎君の身体が宙を舞う。そのまま体は、欄干を越えて外へ──
「剣崎!」
瓦屋根を転がる音。すぐに黒武者も追いかけるように外へ消える。
慌てて欄干まで走り外を見ると、瓦屋根の上で対峙する二人の姿があった。だが、肩で息をする剣崎君は、立っているのがやっとの様子。手にした剣も、刃こぼれし、亀裂が入っているように見える。
(無茶だ……力の差がありすぎる)
そして僕の霊力カウンターは30%を切っていた。現実世界に戻ることを最優先に行動しなければいけない時。このカウンターが10%を切れば、戻れなくなるかもしれないのだ──この状況で式神を出すのはあまりに無謀……
瓦屋根に辛うじて立つ剣崎君へ向かって黒武者が走る。構えを固める剣崎君。両者の剣が交わった次の瞬間、周囲に鈍い金属音が響いた。
ギャシャーン──
剣崎君の刀が砕け散った。折れた刃がキラキラと空を舞い、霧散していく。
そして、柄だけを手にした剣崎君へ、黒武者は腰を落として存分の構えから剣を切り上げた。
「ぐがぁ……」
大きく後ろへ吹っ飛ぶ剣崎君。そのまま瓦屋根から消えた。
(まずい! あの高さから落ちたら……)
思わず身を乗り出すと、手が見えた。剣崎君の片手だけが、瓦屋根の縁につかまっている。
だが、その手に向かって、黒武者がゆっくり近づいていく。
「くそっ!」
迷っている暇は無かった。
「紙魔顕現──」
僕が呪を唱える間にも、黒武者は刀を逆手に持ち、頭上へ振り上げた。そのまま剣崎君の手を目掛けて跳躍──
大きな音を立てて黒武者が瓦屋根に刀を突き刺した。屋根の一部が崩れ落ち、剣崎君の手も見えなくなる。
「くっ!」
思わず息を呑んだ、その時。
屋根の向こうの空中に大きな翼が姿を現した。黒い大鷲、僕が召喚した
「ふぅ……」
安堵の息をもらす……だがもう限界だ。視界に映る僕の霊力カウンターは22%。すぐに10%代になるだろう。早く戻らないと……
だが剣崎君は、瓦屋根の離れた位置に飛び降りると何かをつぶやく。彼が唱えた呪が小さく聞こえてきた。
「武具顕現──
自身の影から現れた長槍、その槍を構え、黒武者と向き合う剣崎君。そのわずか上空で機を窺う大鷲。風を捉えた羽をわずかに揺らし、空中で止まっているかのように映る。
(分かっているのか? どうするつもりだ。次の攻撃を受ければ……)
その時、剣崎君がチラリとこちらを見た。
── !?
その直後、黒武者が疾風のように走り出す。剣崎君に向けて刀を振りかぶりながら。
俊足で間を詰めていき、その距離は二メートルほど……槍の間合いに入った、だが剣崎君は動かない。
黒武者の剣が振り下ろされる刹那──
バサッ。
羽を一振りした鷲竜が、黒武者を目掛けて急襲する。黒武者は振り上げた剣を大鷲へ向け切り下ろした。
が、その刃が届く直前、大鷲が身をかわす。そして死角に入っていた剣崎君が、手にした槍を突き出した。
──ずぶりっ
剣崎君の槍が黒武者の胸に深々と突き刺さった。