本邸の門が閉まり、二つの人影が視界から消えたのを見届けてから、直樹はようやく振り返った。
「行こう、送っていくよ。」
竹内葵は頷き、運転席へと向かった。
「私が運転します、社長。」
直樹は淡々と手を振った。
「いいよ、君を送ったらそのまま家に帰るつもりだから。」
黒いベントレーはほどなくして、古びたマンションの前に停まった。直樹のハンドルを握る手首の数珠がわずかに揺れる。眉間に軽く皺が寄った。
「どうしてこんな所に住んでるんだ?」
補佐の給料に年末のボーナスも高い。桜川市でちゃんとした分譲マンションを買うのはまったく問題ないはずだ。
竹内葵は微笑んだ。
「両親と一緒に住んでいるんです。送ってくださってありがとうございます、藤原社長。」
直樹は人の私事には元々深入りしない。頷いて、それ以上は何も聞かなかった。
竹内葵は車を降りかけて、ふと思い出したように身をかがめ、車内に向かって言った。
「藤原社長、今日のことはお気の毒です。」
そう言って、すぐに大股でマンションへと歩き去った。その繊細な後ろ姿が街灯の下で長く伸びる。
直樹は一瞬呆気に取られたが、すぐに竹内葵が指しているのが早乙女遥の件だと気づいた。
早乙女遥のために、彼は確かに本気で心を注いだ。
どうしてか、あの頃は頭の中が彼女で一杯だった。
今日、彼女の口から「瀬戸を怒らせるためだけだった」と聞いたとき、心の中が少しざらついた。
表情が少し冷たくなり、うつむいてスマホを取り出し、早乙女遥とのトーク画面を開く。右上の「削除」をタップした。
彼はまだ二十六歳、恋愛はゆっくりでもいい。今は仕事が大事だ。
服部遼介のようにあれほど成功しても、誰かのために仕事を疎かにしたことはない。
あれこそが手本だ!
そのとき、新しいメッセージが届いた。美香からだ。
【辛い時はお姉さんに言いなさい。お姉さんがどっかへ連れてくから、あなたはお金持ってきて、一緒に朝まで飲むわよ!】
直樹の唇に微かな笑みが浮かぶ。
【大丈夫、君の弟はそんなに脆くないよ。】
美香:【そっか、あなたは私と違って脆い貴公子じゃないものね!】
直樹:【……】
その省略記号を見て、美香はソファに埋もれながら声を出して笑った。
「かわいそうに、まだ恋も始まってないのに失恋しちゃった。」
「誰が恋も始まってないのに失恋したって?」頭上から穏やかな声が落ちた。
美香が顔を上げると、そこには彫刻のように端麗な服部遼介の顔。
彼の手首にはパテック・フィリップの腕時計。しかし今は色とりどりのフルーツ盛りを手にしている。そのアンバランスさが妙に調和している。
腰をかがめてフルーツ皿をテーブルに置くと、ソファに腰掛け、膝の上にノートパソコンを広げた。
「噂好きだね!」美香は口をとがらせるが、手は正直にフルーツに伸びる。「フルーツ盛りなんて服部様自ら持ってきたの?じゃあ私が消して差しあげましょう!」
ラズベリーをいくつか口に放り込み、その酸っぱくて甘い味に目を細める。
昨夜は遅く帰宅してそのまま寝てしまい、今日は八時過ぎに帰宅。ソファでスマホをいじるのがいつもの癖だ。
このソファは座り心地が最高で、沈み込むととても気持ちいい。
昼間忙しかった執事や家政婦さんたちも、今は誰もいない。
「森村さんたちは?」美香は何気なく聞いた。
服部遼介はパソコン画面に視線を落とし、温和な口調で答える。
「彼らは夜八時で退勤だよ。」
美香はオレンジを食べながら少し驚く。
「本邸には家政婦部屋がいくつかあるのに、住み込みじゃないの?その方が世話しやすいのに。」
服部遼介はメガネ越しに美香を見て、深い瞳が光を帯びる。
「俺は手も足もあるし、自分のことは自分でできる。住み込みは必要ないよ。」
美香の瞳に賞賛の色がよぎる。
服部遼介は今やかなりの資産家だが、生活は相変わらず質素だし、十一年前に建てたこの古い家に住み続けている。
「そう言っても、夜中にお腹が空いたら誰が夜食を作ってくれるの?」
「夜食が食べたいの?」服部遼介は指一本でメガネを上げ、澄んだ声で聞く。
美香は一瞬止まり、気まずそうに笑った。
「いえ、ただ言ってみただけ。」
「何が食べたい?」
「明太子クリームうどん。」
口にした瞬間、自分で気付いて頭をかきながら言う。
「……夕飯、直樹と五時過ぎに食べたから、今ちょっとお腹空いてて。」
言い終わらぬうちに、お腹が「ぐーぐー」と鳴り、顔が赤くなった。
「まだ十八歳だし、成長期はお腹が空きやすいでしょ?」
「うん、普通のことだよ。」
服部遼介は立ち上がり、リビングのシャンデリアの下で、その大きな影が美香を覆う。
「俺もお腹が空いた。君が言わなければ、夕食を食べていなかったことを忘れるところだった。会議で忙しかったから。」
美香は見上げ、目尻を細めて笑う。
「それなら感謝しなきゃね!」
服部遼介は顔を横に向け、その深い瞳が美香の繊細な顔に落ち、感情が渦巻く。
「ありがとう。」
温かな笑みと共に、鼻先の茶色い小さなほくろが灯りの下でひときわ目立つ。
君のおかげで、こうして君のそばにいられる機会をもらえた。
美香はただの冗談だったのに、彼が本気でお礼を言うものだから、つい得意げになった。
「いいってことよ!あなたは何が食べたい?私はちょっともらえればいい。こだわらないから。」
服部遼介の目に微かな光が閃く。
「俺もちょうど明太子クリームうどんが食べたいと思ってた。」
まさかライバルの味覚が自分と同じとは。美香は嬉しくなる。
「じゃあ、作ってきて~」
服部遼介の視線は美香の顔に吸い付いたまま、口元に美しい弧を描く。
「かしこまりました、お嬢様。」
その低く艶やかな声が静かな夜に響き、美香の鼓膜をくすぐる。心の奥まで震えるようだった。
部屋を借りている身として、美香は自分で料理しようなんて思わない――できないし、やったこともない。
以前、家の家政婦が辞めた時も、弟の直樹が料理してくれた。
それを当然だと思っていたが、さすがに今は少し気が引ける。
なにせ、服部遼介とは血縁もなく、かつてはライバル同士だったのだ。
彼女は立ち上がり、後を追う。
「私も手伝うよ。」
「いいよ。」服部遼介は振り返る。「簡単だから、すぐできる。」
美香は素直にソファに戻った。
「じゃ、お願い~」
少しして、二つの丼に盛られた明太子クリームうどんがテーブルに並ぶ。
濃厚な明太子とクリームが温かいうどんに絡み、香りが美香の頭のてっぺんまで突き抜けた。
額に汗をかきながら、ヒーハーと食べ続ける。
ふと、向かいの男がじっと見ていることに気づき、まばたきをしながら言った。
「ようこそ、わたしのヒーハー実況へ。」
少女の薄くてふっくらした唇が紅く潤い、吐息で可愛らしい舌先がちらりと覗く。
服部遼介は喉仏をわずかに動かし、視線を落とすと水のグラスを差し出し、微笑む。
「ヒーハーの王者、どうぞ水を。」
美香は一気に飲み干した。ちょうどよい温度で、冷たくもなく熱くもない。
「どうしてそんなに平然としていられるの?」美香は心から感心する。
服部遼介は彼女より多く食べているのに、依然として優雅で品があり、高級な腕時計がライトの下で輝き、高級料理を食べているかのようだ。
服部遼介はゆっくりと噛み、柔らかく微笑む。
「昔からよく食べてるから、慣れたんだ。」
もう話を続ける気はないらしく、話題を変えた。
「進学はどうするつもり?」
「進学するわ。もう一年高校三年生をやってから、東京大学の入試を受ける。」
その時、テーブルの上のスマホが数回連続で鳴った。
彼女が手に取ると、山本健太からのメッセージだった。
【こいつらは桜川第一高校で一番やんちゃな不良学生たちだ。写真は全部撮った。】