レイモンド公爵家に保護された日の夜、自由に屋敷を見て回っていいと言われたので深侑は自由に屋敷の中を見物していた。
「現代で言うところの、どの時代の建築様式なんだろ……色々混ざってる感じかな」
深侑は世界史の教師だったので、各年代の建築や美術様式に興味がある。現代では見られないような異世界の屋敷のデザインは深侑の好奇心を惹きつけ、前はよく海外に行って伝統ある建物を見て回るのが好きだったなと懐かしい思い出に浸った。
「……それにしても、これから本当にどうしたらいいんだろ……。王子様の勉強を教えて欲しいって言われてもなぁ……」
夕食までの間にエヴァルトから使用する教科書をもらって予習してみたのだが、不思議なことにこちらの世界の意味不明な文字の羅列がきちんと言葉として理解できた。言葉が通じるのだから当たり前かと思ったけれど、自分の脳は異世界仕様に変わってしまったらしい。
そしてその教科書だが、読んでみるとごくごく普通の内容が書かれていた。日本でいうところの数学や歴史が主で、外国語はさすがに分からないのでそちらはエヴァルトが対応してくれると言う。
エヴァルトは公爵家の長男だからか多才で3カ国語ほど話せるらしい。それなのに剣術や武術にも長けているので、幼い頃から相当努力してきたのだろう。深侑が素直にそう伝えた時の彼はひどく驚いた顔をして「それは……ありがとうございます、先生」とどこか嬉しそうな、安堵したような、複雑そうな顔をしていた。
正直なところ、エヴァルトは一人でもレアエルに勉強を教えることは可能だろうが、公爵家の跡取りとしての公務や騎士団の指導者としての仕事もあるので難しいと言っていた。今は特に魔物が街中にも出没するようになり、レイモンド騎士団も出撃する機会が多いということで、毎日大変なのだと聞いたのだ。
「まぁ、小公爵様に拾ってもらえてラッキーだったのかな……あのままだと誰も気にかけてくれなかっただろうし」
召喚の儀式の間にいた神官や魔導士たちは聖女である莉音には良い顔をしていたけれど、深侑に対しては『面倒ごとが増えた』という顔をしていた。そういう顔をするのは巻き込まれた深侑のほうだが、国を守るより先に元の世界に帰れる方法を見つけてくれ、とは到底言える状況ではなかった。
だからこそ、最初は胡散臭いと思っていた相手だが、エヴァルトがレイモンド公爵家で保護すると名乗り出てくれて、深侑も内心ホッとしたものだ。それはきっとあの場にいた全員がそう思ったことだろう。
「料理は意外と美味しいし、人はみんな優しいし、広い部屋は与えてくれるし……これが文字通り“至れり尽くせり”ってやつか」
少し冷えてきたのでそろそろ自室に戻ろうかと思ったが、自分が初めてこの屋敷に来た人間だというのを忘れていた。建物の構造や様式に見惚れて歩き回りすぎたのか、自分がどこにいるのかさえ分からない。
なんだかあまり人の気配がないような屋敷の奥に来てしまい、どうしようかとオロオロしていると背後から「くぅん……?」という小さな鳴き声が聞こえた。
「ひぁっ!?」
驚きのあまり飛び跳ねて振り向くと、誰もいない。異世界に来て幽霊に悩まされるなんて、これ以上心労が重なるような出来事はやめてほしい――!
「きゃんっ!」
「へ!?」
誰もいないと思っていたのだが、深侑の随分と下のほうから犬の鳴き声が聞こえた。甲高い声に目線を下にやると、そこにはもっふもふの黒いポメラニアンが尻尾を振りながら深侑を見上げていたのだ。
「ぽ、ポメちゃんだ……!」
「わう?」
「異世界にもポメがいるなんて……っ! なんて最高の癒しなんだ!」
ポメラニアンは深侑の足にすりっと擦り寄って、つぶらな瞳で見つめてくる。恐る恐る手を伸ばしてみると手のひらに頭を擦り寄せてきて、深侑はきゅんっと胸が締め付けられた。
「どこから来たの? このお家で飼われてる子?」
抱っこに挑戦してみると、ポメラニアンは暴れることなく深侑の腕の中に収まった。ふんふん鼻を鳴らしながら深侑の匂いを嗅いでいて、ふわふわの毛が肌に当たってくすぐったい。
「名前は? 俺は深侑だよ」
「くぅん……」
「そうだね、名前はあっても言えないね。君の飼い主さんは? 公爵様かな?」
そう聞いてみると、ポメラニアンの尻尾がしゅんと垂れ下がる。犬の気持ちはよく分からないけれど、これは答えはノーだと言われているような気がした。
「公爵様じゃなかったら、奥様?」
「くぅん」
「違うんだ。じゃあ小公爵様?」
「きゃんっ」
「へぇ! だからなのかな、小公爵様と似てるね」
真っ黒の毛並みと、瞳の色がエヴァルトと同じダークグリーンで深侑は思わずエヴァルトとポメラニアンを重ねてしまった。
「いや、小公爵様はポメっていうかドーベルマンっぽいか。会って間もないけど、君みたいに可愛くはないよね」
「……わう?」
「可愛いよりかっこいいって言葉が似合うもん、小公爵様は。あんなにかっこいい人、今まで見たことないよ」
「わふ……」
尻尾が上がったり下がったりするので、エヴァルトのことを褒められるとポメラニアンは嬉しいようだ。ご主人様のことが大好きなんだなと微笑ましく思っていると、遠くから燭台を持ったベイジルが慌てて駆け寄ってきた。
「ミユ様、こちらにいらしたのですね……!」
「すみません……自由に見回っていいと言われてそうしていたら迷ってしまいまして」
「目を離したイヴも悪いですから……ご無事でよかったです、が……」
ベイジルが言葉を飲み込み、深侑の腕の中にいるポメラニアンに視線が注がれる。蝋燭の灯りに照らされているベイジルの顔が若干引き攣ったように見えて、深侑は首を傾げた。
「この子、さっきそこで会ったんです。小公爵様の飼い犬のようですが……」
「えっ、あ、はい……確かに、はい……」
「?」
「小公爵様の……ポメ様にございます、ね……」
「やっぱりそうなんですね。お名前は?」
「えっ!?」
「この子のお名前です。仲良くなりたいなと思って」
「ええええと……ア…うーん……ア、アルト様です」
「アルト様? 敬称をつけるほど高貴なわんちゃんなんですね」
「それはもう、高貴なお方です……」
元の世界でいう、血統書付きということだろうか。ベイジルがあまりにも焦っているので、深侑が抱っこしているのが原因かもしれないと思い床に下ろしてみると、ポメラニアン――アルトは抗議するような目で見上げてきた。
「あ、アルト様は私めがお部屋にお連れいたします。ミユ様はイヴとお部屋にお戻りくださいませ」
後ろから「ミユ様〜!」と呼びながら駆けてくるイヴの姿が見えたので、ベイジルの言う通り部屋に連れて行ってもらうことにした。
最後にチラリとアルトのほうを見てみたが、黒いふわふわの塊の姿はもう見えなかった。