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 結局、深侑がメリルを公爵邸に連れて帰ると、イヴやベイジルは顔を真っ青にして慌てふためいた。幸か不幸か、レイモンド公爵と公爵夫人は数日屋敷を留守にしていたので鉢合わせる心配はない。二人が帰ってくるまでに事を片付けてほしいものだと、応接間でエヴァルトの帰りを待つ深侑は重いため息をついた。


「先生!」


 報せを受け、出来る限り急いで帰ってきたエヴァルトは応接間にいたメリルの姿を捉えて目を見開く。その様子から、エヴァルトが彼を呼び寄せたわけではないことが分かり深侑は内心ほっとした。


「先生、驚かせてしまったようで……すみません」

「いえ。お話があるそうなのでお連れしたまでです。それではごゆっくりどうぞ」

「待ってください。先生も一緒にいていただけませんか」

「それは、でも……」

「あなたに隠し事はしたくないので」


 応接間を出ようとした深侑の腕を取り懇願してくるエヴァルトを見たら、断ることはできない。引き止められた深侑がそのまま応接間のソファに腰を下ろすと、メリルは「嘘だと思ったけど、本当に溺愛してんだ?」とケラケラ笑っていた。


「……メリル。君の話を聞く前に、この書類にサインを」

「えー? オレがサインしないと成立しないから、してもらわないと困るよね? エヴァルト」

「何が目的だ? 金ならくれてやるから、金輪際姿を現さないと誓ってくれ」

「薄情だね、エヴァルト。オレのことを好きだと言ってたあの頃の気持ちはどこいったの?」

「……自惚れないでくれ。君が先に裏切り、私は後を追わなかった。君への気持ちは微塵も残っていない」


 深侑の隣で力強くそう言ったエヴァルトの言葉に、深侑はやっと楽に呼吸ができるのを感じた。


「サインしてあげてもいいけど、こっちの条件も飲んでくれない?」

「条件とは?」

「数日公爵家に滞在させて。それだけ」

「それだけ、って……」


 逃げた婚約者がレイモンド公爵家の屋敷に滞在するのは、一般的には印象が悪い。それはエヴァルトも深侑も分かっていたが、この条件を拒否すると婚約の解消ができないままメリルはまた消えるのも予想できた。


 深侑がエヴァルトを見上げて一つ頷くと、彼はため息をついて「……分かった。ただし、屋敷の中を自由に出歩くことは許さない」と低い声で釘を刺した。


「レイモンドの屋敷に用はないから。寝る部屋さえあればいいよ」

「……用意させよう。もしもこの条件を反故にしたら、今度こそ地獄の果てまで追いかけると思え」

「あー、怖い怖い。ミユセンセー?も大変だね」

「先生に気安く話しかけるな。今後は接触もしないでくれ」

「オレが後釜に何かすると思ってるの? そんな幼稚なことしないってぇ」

「……一度裏切った者は信用ならない。本当は公爵家に滞在させるのも反対だが、私の少しの良心に感謝するんだな」

「は〜い。感謝してます、小公爵サマ」


 不敵の笑みを浮かべるメリルに深侑の心はざわついたが、それが杞憂であることを願った。


「はぁ……本当にすみません、先生……」

「小公爵様こそ、大丈夫ですか?」


 メリルには部屋で食事を取ってもらうように取り計らい、あまり人目に触れさせないようにエヴァルトが配慮した。深侑とエヴァルトは二人で揃って食事を共にしたのだが、使用人たちの視線やヒソヒソと聞こえてくる噂に正直深侑は食事の味がしなかった。


 なんせ、エヴァルトが深侑を選んだことは公爵家の中では周知の事実なのだが、元婚約者のメリルが現れたことで修羅場になるのではと全員ヒヤヒヤしているのだろう。自分のテリトリーなのに落ち着いて食事もできないエヴァルトは非常に疲れた顔をして、自室に呼んだ深侑をぎゅうっと抱きしめて癒しを求めた。


「……先生には嫌な思いをさせると思います」

「大丈夫ですよ。もう散々嫌味っぽいことは言われましたから。それに、元いた世界でもああいうのは日常茶飯事でしたし」

「それはそれで、心配になります」

「ふふ。心配してくださってありがとうございます、小公爵様」

「先生……今はどうか、エヴァルトと」


 今日は『マスター』としての深侑を求めているのか、首筋に顔を埋めるエヴァルトが甘く呟いた。いつもより小さく見える彼の頭を撫でながら「エヴァルト様……」と深侑が名前を呼ぶと、ふふっと小さい笑い声が肌に触れる。


 顔を上げたエヴァルトの顔が迫ってきてきゅっと目を瞑ると、優しい口付けが待っていた。


「……小公爵様がメリルさんに砕けた口調だったのに、少しヤキモチを焼きました」

「えっ」

「それほど仲が良かったのかな、とか……」

「そうではなく……ただ強い口調になってしまっただけです。私はあれを砕けた口調だとは思っていませんよ」

「今の小公爵様のほうが素ですか?」

「あなたに見せる私が、どんな時も」

「んん……」


 深い口付けをされながら頭を撫でられると『大丈夫だから』と言われているようで、深侑は一気に安心した。


「……今後、何を見聞きしても、今の私には先生が一番です。それだけは覚えていてください」


 深侑は返事の代わりに、エヴァルトの瞼に口付けを贈った。




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