エヴァルトとメリルの会話を盗み聞きしてしまった翌朝、いつもならイヴが深侑の元を訪れるのに慌てたベイジルが駆け込んできた。
「み、ミユ様! 朝から慌ただしく訪問して申し訳ありません……!」
「いえ、それは全然……どうしたんですか?」
「エヴァルト様が……」
ベイジルが深侑を呼びに来たのはエヴァルトがポメラニアンになっていたからだと聞いて、深侑は寝巻きのまま慌てて部屋を飛び出した。
「小公爵様!」
エヴァルトの部屋に駆け込むと、広いベッドの上には黒い塊が丸まっている。深侑の声を聞きつけたそれはふと顔を上げ、体と同じようにまんまるな瞳を潤ませていた。
「一体どうして……最近はアルトになってなかったのに」
「わう……」
「朝、私が起こしに来た際にはすでにこのお姿でして……」
「夜の内になっちゃったんですかね。まぁ、ここ数日色々あったのでアルトになってしまうのも分かりますが……」
深侑が優しく頭を撫でると、アルト――エヴァルトは気持ちよさそうに手に擦り寄ってくる。そんな姿を見るのは久しぶりだったので可愛いなと顔を綻ばせていたのだが、深侑もベイジルも違和感を抱いた。
「……小公爵様?」
震える声で呼びかけるが、目の前にいるポメラニアンが首を傾げるばかり。深侑の膝に乗せて撫でてみても、ぎゅっと抱きしめてみても、エヴァルトは元の姿に戻らなかった。
「え、え、どうして? いつもなら触れたらすぐ元に戻るのに!」
「きゃんっ!?」
「こ、こんな状況は私も初めてで……!」
マスターであれば触れた瞬間に元に戻せるという、いわば運命の相手だ。前はエヴァルトが自分の意思でアルトの姿を保っていたと言っていたこともあるのだが、エヴァルト自身も慌てふためいているのでそんな悪戯をしているとは考えにくい。
もちろん深侑がマスターの契約を切ったというわけでもないので、原因が分からずに三人は顔を青く染めた。
「このままだと公務には出られないですよね!? ど、どうしよう……とりあえず、ガラドアさんを呼びますか? ガラドアさんは小公爵様のこの姿も知っているとのことでしたし……」
「そ、そのほうが賢明でしょうかね……」
「確か、そろそろ聖女様が結界の張り直しをすると言っていましたよね? それが近日中の話じゃないといいんですが」
「わぅ……」
「……とりあえずガラドアさんに連絡を取ってください、ベイジルさん」
「はい、承知いたしました」
深侑の手で元に戻らないのなら、これ以上なにもやれることはない。とりあえずエヴァルトの仕事に支障がないかを確認するのが最優先で、どうやって元に戻るかはそのあと考えることにしよう。
「原因が分からなくてすみません、小公爵様」
「きゃんっ」
「絶対に元に戻す方法を見つけますから」
とりあえずエヴァルトを抱いたままベッドの上に座っていると、ノックと同時に部屋のドアが開いた。
「エヴァルトー、もういないかな?」
「ちょ、か、勝手に入ってこないでください!」
「あれ、先客が……って。可愛い姿になってるね、エヴァルト。あ、オレもこの姿知ってるから大丈夫だよ」
「ぐるる……」
許可も得ずに無遠慮に入ってきたのはメリルで、深侑に抱かれているエヴァルトを見て懐かしそうに微笑んでいた。
「あれ? 元に戻らないんだ?」
「……何か原因があるようで」
「へー! 大切な人とかマスターとか言われてたけど、大したことないじゃん」
「それは……っ! いつもならすぐに戻るんです! 今日はなぜか戻らないだけで……!」
「それってさー、エヴァルトの気持ちがセンセーから離れちゃってるとか?」
「え?」
「オレに気持ちが戻ってきちゃった、とか」
そんなわけあるはずない、と深侑が声をあげようとした時、膝の上に座っていたエヴァルトが「きゃんきゃんきゃんッ」と聞いたこともない声でメリルに向かって吠えた。
「そーんなに怒っても、エヴァルトの心の奥深くでは違うかもしれないでしょ?」
「ぐるる……わんッ」
「じゃーなんで元に戻らないんだろうね? 不思議だなぁ」
「……今、あなたと言い争いをしている場合ではないんです。用事がないなら出て行っていただけませんか」
「オレが触ってみなくて大丈夫?」
「結構です。あなたでは絶対、元に戻りませんから」
「ミユセンセー、大分いい顔になってきたじゃん。澄ました顔よりよっぽど好きだよ、オレ」
怒っている顔のほうがいい、なんて失礼極まりないことを言いながら笑うメリルは、ヒラヒラと手を振りながら部屋を出て行った。
この時、メリルを引き留めておけばよかったと後悔したのは、ほんの数時間後の出来事だ。