「藤原様って、家柄もルックスも完璧じゃない?でも、残念なことに……喋れないのよね」
香取美姫はカップのラテアートをスプーンでかき混ぜながら、いかにも同情しているようなため息をついた。「本当に、大変ね」
藤原理奈の指先がカップの取っ手を強く握りしめる。指先がひんやりと冷たくなる。
――昨夜、夢で聞いた言葉と一字一句違わない!
昨夜の奇妙な夢が、彼女を現実に引き戻した。
自分がいるのは、ドロドロの恋愛小説の中。物語の中心は、一人の女性を巡って兄弟が争うというもの。
その中で藤原理奈は、ヒロインでも、悪役でもない。ただ、兄――藤原司の妻という、目立たない“長男の嫁”でしかない。
財閥の長男の妻、ただの背景キャラ。
夫の藤原司は、藤原財閥の現当主。才能も実力も申し分ないが、唯一の“欠点”があった――口がきけない。
世間の目からすれば、それだけで彼を後継者の座から引きずり下ろすには十分。
そして物語では、藤原家の二人の弟がヒロインを巡って熾烈な争いを繰り広げる。その過程で、理奈は夫の“欠点”ゆえに蔑まれ、物語に操られるまま意地悪で見栄っ張りな性格に変わり、ヒロインと何かにつけて張り合い、ついには破滅し、家から追い出される運命なのだ。
最近、無意識にイライラしたり、ついキツい言葉が出てしまうのも自分のせいじゃない――すべては“物語の手”に操られていたせい。
藤原理奈の背中に冷たい汗が流れる。
このまま流されるなんて、絶対に嫌だ!
素早く頭を回転させる。藤原司の豪邸に住み、家事は家政婦が全部やってくれる。名目上の夫はイケメンで金持ち、口数少なく、生活に干渉してこない。
自分も大人しくしていれば、これぞ贅沢三昧の勝ち組生活じゃない?
宝くじだって税金かかるのに、これは無税のスーパー大当たりだ!
「理奈? どうしたの? 黙っちゃって」
香取美姫の声が優しく響くが、その奥に焦りが隠れているのを理奈は見逃さなかった。
夢で見た光景そのまま、今テーブルの下で香取美姫のスマホが録音モードになっている。もし藤原司への不満を漏らせば、その録音が彼の元に届き、彼女への嫌悪の一歩目となる。
数秒の沈黙の後、理奈はふいに目元を和らげ、心からの笑顔を見せた。
「喋れないって、そんなに悪いこと?」
香取美姫のスプーンが止まる。
「むしろ静かで最高よ。余計なこと言われないし、家の中はいつも平和。藤原家に嫁げたなんて、これ以上ない幸せ。毎日快適すぎて困っちゃうくらい」
理奈は明るく言いきった。
香取美姫の顔が固まる。「……」
台本と違う。さっきまで不満だらけの顔をしていたのに、なんで急にこんな態度?
「理奈、私の前では無理しなくていいのに……」
香取美姫は話を戻そうとする。
「本当に無理なんてしてないよ」理奈は鞄を手に立ち上がった。「もう遅いから、今日は帰るね。藤原さん、今日横浜に戻るから」
藤原司は出張中で、戻るのは三日後だ。
彼とのLINEのやり取りは数えるほどしかない。大抵は業務連絡のようなものばかり。
【藤原:六時に本宅で食事】
【理奈:了解】
あるいは――
【理奈:今日は美姫とショッピングに行ってくるね】
【藤原:うん】
もはや会話というより、掲示板の書き込みのようなもの。
最後のメッセージは藤原司からだった。
【藤原:出張。三日後に帰る】
藤原司の予定について、香取美姫には何も話していない。だから、今の言い訳もバレることはない。
もう、香取美姫と気を使い合うのはやめたくなった。とにかく家に帰って、目覚めた自分の心を整理したい。
カフェのガラス扉を開け、理奈はそのまま歩道へ向かい、車のキーを鳴らした。
「ピッピッ――」
パキッとしたオレンジ色の電動自転車が反応する。
理奈はスムーズにまたがり、車道へと走り出した。
香取美姫は、その派手なオレンジの姿が角を曲がって消えるのを見届けると、軽蔑したように唇を歪めた。
「成金のくせに、全然品がないわね」
財閥に嫁いだくせに、あんなボロ自転車で出歩くなんて、育ちの悪さが隠せない。
理奈と仲良くなろうとあれこれ仕組んできたのは、藤原司への不満を聞き出して利用し、自分が彼に近づくためだった。
なのに、今日は計画がまったく進まなかった。
「絶対に本性を暴いてやるんだから」
香取美姫はスマホを握りしめた。
――
三十分後、理奈のオレンジ号は海沿いの高級マンションの地下駐車場へ滑り込んだ。
都心のど真ん中、超高級住宅街。ここが理奈と藤原司の住まいだ。
彼女の「オレンジちゃん」――愛車につけた名前――は、ピカピカの高級車が並ぶ中でひときわ浮いて見える。それでも、どこか堂々としていて愛嬌がある。
限定カラーのモデルで、長い間待ってようやく手に入れたお気に入りだ。
エレベーターで玄関へ直行。
理奈は靴を脱ぎながら、誰もいない部屋に向かって「ただいまー」と元気に声をかけた。
子供のころ『クレヨンしんちゃん』を見て身についたクセで、返事がなくてもつい言ってしまう。
家政婦は藤原司のルールで、決まった時間に掃除や食事を整えるだけ。専用の部屋で過ごし、基本的に主人とは顔を合わせない。
今日もいつも通り、自分の声だけが響くはずだった。
だが、リビングの方から紙をめくる微かな音が聞こえてきた。
理奈は靴箱に手をつき、不思議そうにリビングを覗き込む。
冷たい色合いの照明の下、広いソファに座る男性がいる。
背筋が伸び、肩のラインが美しい――藤原司だ。
うつむいた横顔はシャープな光と影に浮かび上がり、近寄りがたい雰囲気を纏っている。長い指先で英字の経済紙をパラリとめくっていた。
こちらの視線に気づいたのか、ふと目を上げる。
その瞳は静かで、深い湖のように揺るがない。
理奈は思わず目をぱちぱちさせた。
「あれ? 家にいたの? もう出張から戻ったの?」
藤原司は無表情のまま、ほんの少しだけうなずいて応えると、再び視線を新聞に落とした。
玄関の暖かな灯りと、リビングの冷たい光。その境界線が、二人の距離を象徴しているかのよう。
二人はそれぞれの場所に立ち、一方は温かく、一方は冷たい。まるで夫婦には見えない距離感。
広い空間に響くのは、理奈の落ち着かない足音だけ。靴の裏が床をこすって、かすかな音が続く。
その音は、およそ一分ほど続いた。
藤原司はもともと耳が良い。その足音もはっきりと聞こえているはずだが、視線は新聞の活字から動かない。
この結婚は親同士が決めたもの。彼にとっては、ただ同じ屋根の下に暮らす他人が増えただけ。
ビジネスパートナーと同じようなものだ。理奈もその空気を読んで、余計なことをしてこない。それが何より助かると思っていた、その時――
足音が近づいてくる。
ふいに、理奈の顔が視界に現れる。
彼女は少し首をかしげ、そっと目を細めて微笑んだ。
「今日、一緒にご飯どう?」