藤原理奈は、自分が少し賭けに出ていることを認めていた。
さっき、藤原司がふと顔を上げてこちらを見たその一瞬、無数の考えが頭を駆け巡った。
目覚めたことはただの第一歩でしかない。決められた悲惨な結末から本当に抜け出せるかどうかは、これからの行動にかかっている。
もし、眠って起きたら、またあの見えない「ストーリー」に操られてしまったらどうしよう?
万人に嫌われるのをただ恐れているくらいなら、いっそ自分から動いた方がいい——根本的なところから、この「夫」司との間に信頼を築くべきだ。
コミュニケーションは架け橋。たとえほんの少し会話が増えるだけでも、印象は自然と変わっていく。
しかし、あの底知れぬ瞳が無言で自分を見下ろした時、得体の知れない圧力で息さえ詰まりそうだった。時間が引き延ばされて、一秒ごとに耐えがたいほどだった。
やっと、その視線が外れた。
司はほんのわずかにうなずいた。
暗黙の了承——
張り詰めていた気持ちが一気にほどけ、理奈の表情が一瞬で和らぐ。思わず笑みがこぼれた。
「家政婦さんに言ってくるね。ご飯ができたら呼ぶって!」
軽やかな足取りで家政婦たちのいる方へ向かうその背中から、嬉しさが隠しきれずに滲み出ていた。
やった!一緒に食事をしてくれるなら、この形ばかりの夫婦関係もまだ修復の余地があるはず。
司の目がその跳ねるような姿を追い、漆黒の瞳の奥にほんの微かな困惑が浮かんだ。
今日の彼女の様子は、どうにも普段と違う。……しかし、その考えはすぐに頭から追い払う。一度の食事、それだけのことだ。
・・・
四十分後、理奈は再びダイニングに現れた。明るい黄色のルームウェアに着替え、まるで陽だまりが差し込んだかのような存在感。
司は顔を上げ、ほんのわずかに眉をひそめた。
オフィスでもこの家でも、彼はいつも落ち着いたダークトーンを好む。
この鮮やかな黄色は、彼にはどうにも目障りだった。
もし相手が部下なら、すでに服装の指摘が入っていただろう。しかし、彼女は理奈。名目上のパートナーである。司は何も言わず、黙っていた。
理奈は何も気付かず、椅子を引いて彼の正面に座った。
「数えてみると、二人きりで食事するのって、これが二回目かな?」そう言いながらも、目線は合わさず、自分で手を打つ。「あ、違った、三回目だ!本家に戻った時のこと、忘れそうになってた。」
司「……」
食卓には、はっきりとした温度差があった。
司は正確かつ抑制された動きで料理を口に運び、咀嚼音すらほとんど立てない。
その静けさに比べ、理奈の方はにぎやかだ。ワサビの効いた料理にむせて慌てて麦茶を飲んだり、美味しい味噌汁に思わず小さく感嘆の声を漏らしたり。
司は終始、自分の皿だけを見つめ、一度も彼女に視線を向けることはなかった。
もし以前の、物語に流されていた頃の理奈なら、きっと心の中で不満を募らせ、夫の冷たさを侮辱と受け止めていただろう。
今の理奈は、心のバランスがしっかりとれている。
彼が話さないのは当たり前。静かに食事をするのも普通のことだ。むしろ、会話をしたいなら自分から動くべきなのだ。
食事が終わり、家政婦たちが手早くテーブルを片付ける。
司が席を立とうとしたその瞬間、理奈が声をかけた。「ちょっと待って——」
彼は動きを止め、静かな目でこちらを見る。
理奈は顔を上げ、少し探るように笑った。「普段はあまり会う機会もないし、せっかくだから……少し話さない?」
「話す」という言葉がはっきり響いた瞬間、キッチンで食器を洗っていた家政婦たちが驚いて顔を見合わせた。
奥様、まさか……!
「話す」なんて、司の前では禁句のようなものだ。
本家の使用人も、この海沿いのマンションの家政婦も、誰もが司の前ではできるだけ無口でいるべきだと知っている。余計なことは言わない、ましてや彼の痛いところに触れるような話題は絶対にNGだ。
家政婦たちは息をひそめ、リビングの気配に耳を澄ませる。嵐の予感に身を固くした。
リビングには数秒の静寂が訪れる。
司は表情を崩さず、しばらく沈黙した後、内ポケットから濃い茶色のラム革のメモ帳を取り出し、愛用の万年筆のキャップを外した。ペン先が紙を走る音が微かに響く。
しばらくして、司はメモ帳を理奈の前に滑らせた。そこには、まだ乾ききらないインクで、鋭い筆致の一文字が記されていた。
「うん」
理奈「……」
こんなに準備して、たった一文字?句読点もなし?
財閥のトップは、咳払いにだって句点を付けるって噂なのに!
心の中でツッコミを入れつつも、理奈はすぐに笑顔を取り戻す。
「ごめんごめん——」そう口にした瞬間、司の目がほんの少しだけ陰った。
会社でも、部下が彼の前で「ごめんなさい」と口にするのは、「あなたが話せないことを忘れていました」という無意識の示しだ。
司の視線が理奈の顔を探る。
理奈はその視線をしっかり受け止め、明るく続けた。「——私の質問がつまらなかったね。『うん』しか書きようがなかったもんね。」
そう言って笑い、ふと思い付いたように提案する。「じゃあ、私が話すから、あなたは聞いてて、答えたかったら書いてくれる?どう?」返事を待つ間もなく、その美しい字に目を奪われる。
「でも、本当に字がきれいだね!うらやましい!私も小学校の頃、書道教室に通ってたけど、一ヶ月でやめちゃった。続けてればよかったな。練習したことあるんだよね?あ、これは最初の質問にカウントしないよ!」
リラックスした理奈の口からは、次々と言葉があふれ出す。
さっきの「うん」一文字をネタに、止まらず話し続ける。
キッチンの家政婦たちはハラハラしながらその様子を聞いていた。司の前で、こんなにおしゃべりな人を見たことがない。
司は伏せたまつげの影で無表情のまま、再びペンを取る。
今日の理奈は本当に饒舌だ。しかし、名目上の妻であり、疑問を投げかけられたのなら答えるのが筋だろう。
「はい、少し習った」
理奈は身を乗り出して見て、心から感心した。「やっぱり練習しないと、この筆致は出せないよね。先生の言う通りだ。」
司「……」
少し考えてから、理奈は二つ目の質問を投げた。「一ヶ月のうち、横浜にいる日ってどのくらい?」
すぐに、「別に詮索してるわけじゃないからね、ただの好奇心」と付け加える。
司は、その独特な表現に一瞬手を止めたが、淡々と体を椅子にもたれさせてから、またペンを走らせる。
「最近は出張なし」
司が下を向いて書いている手元に、理奈の視線がつい落ちる。
伏せたまつげに隠れた目元、きりっとした顎のライン。袖口からのぞく細く白い手首、筆を持つ指は骨ばっていて、皮膚の下に浮かぶ筋が力強さを感じさせる。
理奈は自分が相当な「顔フェチ」であり、さらに「手フェチ」でもあることを認めざるをえなかった。
静かな中にどこか鋭さを感じさせる顔立ちと、無口な彼が醸し出すミステリアスな雰囲気。
もし彼が喋ることができたなら、どれほど魅力的だろう、とふと思う。
あまりにもじっと見つめすぎたのか、司はわずかに眉をひそめた。
理奈は彼がうんざりしたのかと思い、慌てて最後の質問を切り出す。「えっと……最後の質問。」司は目で続きを促す。
「私、昔からおしゃべりで、中学の時も授業中に話してて先生に立たされたことがあるの。黙ってるのは苦手で……。だから、私がこうやってずっとしゃべってたら……うるさいって思う?」
思う——
司の頭にまず浮かんだのは、それだった。
彼の性格なら、こんな絶え間ないおしゃべり、五分もすれば我慢の限界だろう。
理奈はまっすぐに見上げてくる。その瞳には、ほんの少しだけ期待と緊張が混じっていた。
姿勢を正して、少しでも良い印象を残したいと無意識に背筋を伸ばす。
その様子に、司の目にはどこかいじらしさがよぎった。
二秒ほど理奈を見つめ、再びメモ帳に視線を落とし、ほんの少しだけためらってからペンを走らせる。そこに記されたのは、素っ気なくもどこか不本意な二文字だった。
「まあまあ」