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第3話 距離を縮める計画

深夜の寝室には、バスルームからの水音だけが静かに響いていた。

司はまだ中にいる。理奈はベッドのヘッドボードにもたれ、指先で無意識にシーツをトントンと叩いていた。


今日は、小さな前進があった日だ。

彼女と司の間にあった見えない氷の壁に、やっと小さな隙間ができた気がする。

その成果は、今日彼女が勇気を出して自分から一歩踏み出したおかげだろう。


けれど、その安堵も束の間、冷静さがすぐに戻ってきた。

目覚めたことは第一歩。けれど、またあの不可解な「シナリオ」に引き戻されないようにするには、どうすればいいのか――それが本当の課題だった。


理奈はベッドから抜け出し、引き出しの奥から新しいノートを取り出した。ペンのキャップを外し、真っ白なページに力強く書き込む。


【絶対に司と仲良くなること!】


筆圧が強すぎて、紙を突き破りそうになった。

これが、自分自身へのアンカーだ。

もしまた、なにかに流されそうになったとき、この一行が自分を目覚めさせてくれるはず。


幸い、司は「まあまあ」と書いてくれた。

この二文字は、かすかな友好のサイン。少なくとも、彼が自分の存在を拒絶していない証拠だ。

次の目標は、このサインをもっと強くすること。ふたりの距離を、少しでも自然に近づけること。


バスルームの水音が止まった。

理奈は慌ててノートを閉じて引き出しに戻し、布団に滑り込んで目を閉じた。


結婚して三か月、この大きなダブルベッドはふたりの共有スペースでありながら、それぞれの領域がはっきり分かれている。

司は寝ているときも静かで、呼吸さえほとんど聞こえないほどだ。

最初のぎこちなさも、毎日を淡々と過ごすうちにすっかり消えていた。


理奈は布団をきゅっと抱きしめ、心の中で決意する。

「明日はもう少し早く起きよう。」


……


朝の淡い光がカーテン越しに差し込む。理奈は重たいまぶたをこじ開け、目覚ましより三十分も早く起きた。

ぼんやりと視線を向けると、ちょうどベッドのそばに司の姿があった。

彼は腕時計のメタルバンドを丁寧に留めている。

朝の光に照らされた横顔は、静かな集中力に満ちていた。


バンドを留め終え、司は立ち上がり、部屋を出て行こうとする。

チャンスは一瞬。


理奈は勢いよくベッドから身体を起こし、思わず音を立ててしまった。

司はその音に気付き、足を止めて振り向いた。

ふたりの目が、ほんの少し重なる。


寝起きの理奈の髪はくるくると乱れて、何本かがぴょんと立っている。

彼女は思わず手で髪を直しながら、「おはよう」と笑顔を作った――


「パタン。」


ドアがあっさり閉まった。

司はもういない。

一瞬たりとも、立ち止まったり振り返ったりすることはなかった。


理奈は閉まったドアを見つめ、乱れた髪をぐしゃぐしゃに掻いた。

「……やっぱり遅かった!」


廊下の向こう、司はまだ遠くに行っていなかった。

ドアの内側から聞こえた、理奈の悔しそうな声がはっきり耳に届く。

彼はほんの一瞬立ち止まり、黒い瞳にわずかな困惑が浮かんだが、それもすぐに消えた。

そして何事もなかったように歩き出し、エレベーターホールへと向かう。


計画はうまくいかなかったが、理奈はすぐに気持ちを切り替えた。

少なくとも、今は自分の意志で動いている。他人の手に操られてはいない。

それだけでも十分な進歩だ。まだまだやれる。


彼女はさっと起きて身支度を整え、会社へ向かった。


理奈の勤務先は横浜放送局。ADとして、取材、会見、タレントのリハーサル同行、企画書作成、素材整理……とにかく目まぐるしい毎日。

今日は外回りがなかったので、ビル一階のコンビニでおにぎりを買い、朝食にした。

金曜日はイベントがあるので、おにぎりにプラス100円するとドリンクもつく。彼女は新しいヨーグルトを選んだ。


デスクに座ると、向かいの木村が大げさに嘆き始めた。

「理奈ちゃん、またおにぎりだけ? そんなに細いのに、それだけしか食べないなんて、私たちぽっちゃり組の立場がないよ!」


言い終わるや否や、ミックスナッツの袋が飛んできた。

「食べなきゃダメだよ、ちゃんと栄養とって!」 

理奈は笑いながらしっかりキャッチ。

「いただきまーす!」


斜め向かいの席では、同僚がポットで煎茶を淹れている。

「理奈ちゃん、美人さん、こっちおいで。烏龍茶、一杯どう?」


子どものころから、「美人さん」と言われることが多かった理奈。

明るい表情で、にこやかな目元。白い肌に赤い唇、まるで瑞々しい桃のようなフレッシュさで、自然と人を惹きつけてきた。

オフィスの雰囲気も和やかで、給料も安定。忙しいけれど、やりがいもある。


理奈は本当に、自分は運がいいと思っている。

苦手な上司もいないし、意地悪な同僚もいない。


彼女の夢はとてもシンプル。

平和で、健康で、大金持ちになること!

今のところ、自分を保って「嫌われ者」にならずに済めば、家の氷の旦那ともそこそこやっていけそう。理想の人生は、もう目の前だ。


……


同じころ、藤原財閥本社ビル最上階。

そこにはまったく異なる緊張感が漂っていた。


午前九時半、各部門の責任者たちが社長室に集まり、プロジェクトの進捗をきっちり報告する。

報告が終わったとき、時計の針はぴったり十一時を指していた。


秘書の伊藤がノックして入り、午後のスケジュールを静かにデスクに置く。

司の存在は、まるで精密機械のように財閥全体を包み込み、巨大な歯車がぴたりと噛み合って動いている。


三年前、司が財閥の実権を握ったとき、社内には疑問の声もあった。

「声を発せないトップで大丈夫か?」

しかし、その声も、彼の冷徹な手腕の前にすぐに消えていった。


司の指揮のもと、藤原財閥は次々とライバル企業を呑み込み、事業領域を拡大し続けた。

今や、誰もこの寡黙なリーダーを侮ることはない。


ただし、権力の頂点に立つ男の顔に、笑顔が浮かぶことはない。

常に理性的で、完璧でいなければ、と自分に課しているようだ。

「口がきけないことで家に恥をかかせた」

その烙印を打たれぬよう、圧倒的な実績を積み重ねてきた。


今では、藤原司といえば「惜しい人だ」ではなく、「すごい人だ」と称賛される存在になった。

野心と実力――それが彼の最大の武器だ。


昼休み。

香取美姫はコップを手に、何気ないふりをしながら社長室近くの給湯室へ向かった。ちらりと閉ざされたドアをうかがう。

昨日、理奈が「司が帰ってきた」と言っていたのを聞き、今日は新しい高級香水までつけてきた。淡い期待を胸に秘めて。


ちょうどそのとき、廊下の奥の専用エレベーターが静かに開いた。

司のすらりとした姿が現れ、素早く、しかし落ち着いた足取りでこちらへ向かってくる。

香取美姫の心臓は高鳴り、慌てて壁際に下がって身なりを整えた。


司は視線を逸らすことなく、伊藤秘書の素早い報告を聞きながら通り過ぎていく。

その圧倒的な雰囲気が近づくにつれ、思わず息を飲む美姫。

だが、彼はまるで風のように一瞬で通り過ぎ、角を曲がって消えていった。

一度も、こちらを見ることはなかった。


大きな喪失感が、香取美姫を襲う。

どうして? どうして顔だけが取り柄の理奈が、あの人の隣に立てるの?

自分は海外の一流大学を出て、優秀で、見た目だって負けていないはずなのに――

悔しさと嫉妬が、心の奥で渦巻いた。


美姫は唇を噛みしめ、スマホを取り出した。


……


スマホのバイブ音が、デスクで仮眠していた理奈を起こした。

目を細めて画面を見ると、「香取美姫」の名前が表示されている。


【理奈ちゃん、今夜空いてる?すごく評判のいい焼肉屋見つけたんだけど、一緒にどう?ウキウキウキウキ】


数日前の自分なら、きっと何も考えずに喜んでOKしていたはず。「気の合う友達ができてうれしい」とさえ思っていた。たしかに焼肉は大好きだ。


でも、今の理奈にはもうわかる。

香取美姫が誘ってくるタイミングは、ほとんどいつも司が横浜にいるときだ。

つまり、理奈と司が一緒に過ごす時間を邪魔するため。


もう、騙されるつもりはない。

理奈は冷静に返信した。


【ごめん、予定あるの。】


大人としての礼儀は守りつつ、もうこれ以上深入りしないつもりだ。


だが、すぐにまたメッセージが届く。


【理奈ちゃん、今日すごく落ち込んでて、誰かに話を聞いてほしいの。デートキャンセルして私といてくれない?泣泣落胆落胆】


寝起きのイライラもあり、相手のあざといやり口に理奈はすっかりうんざりした。

もう、適当に返す気もない。


【あっち行け。】


そのまま、LINEのチャットを閉じて、香取美姫のアカウントを友達リストから削除した。


やっと静かになった。


また腕に顔を乗せ、もうひと眠りしようと目を閉じる。

けれど、ふとした瞬間、焼肉のことがどうしても頭から離れなくなった。


思い出したら、もう我慢できない。

理奈はがばっと目を開け、迷わずスマホを手に取った。

久しぶりに、あのトーク画面を開く。


……


藤原財閥の最上階、会議室。

不動産部の責任者が、新しく落札した土地の開発計画を大画面で説明している。

緊張した空気が漂う中、司はテーブルの主席で鋭い眼差しを向けていた。


そのとき、彼の私用スマホの画面が静かに点灯する。

一通、二通、三通……次々とメッセージが飛び込んでくる。


司は何気なく画面を見下ろした。


そこには、理奈からのグリーンの吹き出しがいくつも並んでいる。


【こんにちはーฅ•ᴗ•ฅ】

【何時に退社できる?】

【一緒に夕飯どう?(私のおごり!)】

【焼肉はどう?】

【コソコソ覗き見.jpg】


馴れ馴れしい口調に、妙なスタンプまで。

司は不意を突かれ、思わず固まってしまった。

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