深夜の寝室には、バスルームからの水音だけが静かに響いていた。
司はまだ中にいる。理奈はベッドのヘッドボードにもたれ、指先で無意識にシーツをトントンと叩いていた。
今日は、小さな前進があった日だ。
彼女と司の間にあった見えない氷の壁に、やっと小さな隙間ができた気がする。
その成果は、今日彼女が勇気を出して自分から一歩踏み出したおかげだろう。
けれど、その安堵も束の間、冷静さがすぐに戻ってきた。
目覚めたことは第一歩。けれど、またあの不可解な「シナリオ」に引き戻されないようにするには、どうすればいいのか――それが本当の課題だった。
理奈はベッドから抜け出し、引き出しの奥から新しいノートを取り出した。ペンのキャップを外し、真っ白なページに力強く書き込む。
【絶対に司と仲良くなること!】
筆圧が強すぎて、紙を突き破りそうになった。
これが、自分自身へのアンカーだ。
もしまた、なにかに流されそうになったとき、この一行が自分を目覚めさせてくれるはず。
幸い、司は「まあまあ」と書いてくれた。
この二文字は、かすかな友好のサイン。少なくとも、彼が自分の存在を拒絶していない証拠だ。
次の目標は、このサインをもっと強くすること。ふたりの距離を、少しでも自然に近づけること。
バスルームの水音が止まった。
理奈は慌ててノートを閉じて引き出しに戻し、布団に滑り込んで目を閉じた。
結婚して三か月、この大きなダブルベッドはふたりの共有スペースでありながら、それぞれの領域がはっきり分かれている。
司は寝ているときも静かで、呼吸さえほとんど聞こえないほどだ。
最初のぎこちなさも、毎日を淡々と過ごすうちにすっかり消えていた。
理奈は布団をきゅっと抱きしめ、心の中で決意する。
「明日はもう少し早く起きよう。」
……
朝の淡い光がカーテン越しに差し込む。理奈は重たいまぶたをこじ開け、目覚ましより三十分も早く起きた。
ぼんやりと視線を向けると、ちょうどベッドのそばに司の姿があった。
彼は腕時計のメタルバンドを丁寧に留めている。
朝の光に照らされた横顔は、静かな集中力に満ちていた。
バンドを留め終え、司は立ち上がり、部屋を出て行こうとする。
チャンスは一瞬。
理奈は勢いよくベッドから身体を起こし、思わず音を立ててしまった。
司はその音に気付き、足を止めて振り向いた。
ふたりの目が、ほんの少し重なる。
寝起きの理奈の髪はくるくると乱れて、何本かがぴょんと立っている。
彼女は思わず手で髪を直しながら、「おはよう」と笑顔を作った――
「パタン。」
ドアがあっさり閉まった。
司はもういない。
一瞬たりとも、立ち止まったり振り返ったりすることはなかった。
理奈は閉まったドアを見つめ、乱れた髪をぐしゃぐしゃに掻いた。
「……やっぱり遅かった!」
廊下の向こう、司はまだ遠くに行っていなかった。
ドアの内側から聞こえた、理奈の悔しそうな声がはっきり耳に届く。
彼はほんの一瞬立ち止まり、黒い瞳にわずかな困惑が浮かんだが、それもすぐに消えた。
そして何事もなかったように歩き出し、エレベーターホールへと向かう。
計画はうまくいかなかったが、理奈はすぐに気持ちを切り替えた。
少なくとも、今は自分の意志で動いている。他人の手に操られてはいない。
それだけでも十分な進歩だ。まだまだやれる。
彼女はさっと起きて身支度を整え、会社へ向かった。
理奈の勤務先は横浜放送局。ADとして、取材、会見、タレントのリハーサル同行、企画書作成、素材整理……とにかく目まぐるしい毎日。
今日は外回りがなかったので、ビル一階のコンビニでおにぎりを買い、朝食にした。
金曜日はイベントがあるので、おにぎりにプラス100円するとドリンクもつく。彼女は新しいヨーグルトを選んだ。
デスクに座ると、向かいの木村が大げさに嘆き始めた。
「理奈ちゃん、またおにぎりだけ? そんなに細いのに、それだけしか食べないなんて、私たちぽっちゃり組の立場がないよ!」
言い終わるや否や、ミックスナッツの袋が飛んできた。
「食べなきゃダメだよ、ちゃんと栄養とって!」
理奈は笑いながらしっかりキャッチ。
「いただきまーす!」
斜め向かいの席では、同僚がポットで煎茶を淹れている。
「理奈ちゃん、美人さん、こっちおいで。烏龍茶、一杯どう?」
子どものころから、「美人さん」と言われることが多かった理奈。
明るい表情で、にこやかな目元。白い肌に赤い唇、まるで瑞々しい桃のようなフレッシュさで、自然と人を惹きつけてきた。
オフィスの雰囲気も和やかで、給料も安定。忙しいけれど、やりがいもある。
理奈は本当に、自分は運がいいと思っている。
苦手な上司もいないし、意地悪な同僚もいない。
彼女の夢はとてもシンプル。
平和で、健康で、大金持ちになること!
今のところ、自分を保って「嫌われ者」にならずに済めば、家の氷の旦那ともそこそこやっていけそう。理想の人生は、もう目の前だ。
……
同じころ、藤原財閥本社ビル最上階。
そこにはまったく異なる緊張感が漂っていた。
午前九時半、各部門の責任者たちが社長室に集まり、プロジェクトの進捗をきっちり報告する。
報告が終わったとき、時計の針はぴったり十一時を指していた。
秘書の伊藤がノックして入り、午後のスケジュールを静かにデスクに置く。
司の存在は、まるで精密機械のように財閥全体を包み込み、巨大な歯車がぴたりと噛み合って動いている。
三年前、司が財閥の実権を握ったとき、社内には疑問の声もあった。
「声を発せないトップで大丈夫か?」
しかし、その声も、彼の冷徹な手腕の前にすぐに消えていった。
司の指揮のもと、藤原財閥は次々とライバル企業を呑み込み、事業領域を拡大し続けた。
今や、誰もこの寡黙なリーダーを侮ることはない。
ただし、権力の頂点に立つ男の顔に、笑顔が浮かぶことはない。
常に理性的で、完璧でいなければ、と自分に課しているようだ。
「口がきけないことで家に恥をかかせた」
その烙印を打たれぬよう、圧倒的な実績を積み重ねてきた。
今では、藤原司といえば「惜しい人だ」ではなく、「すごい人だ」と称賛される存在になった。
野心と実力――それが彼の最大の武器だ。
昼休み。
香取美姫はコップを手に、何気ないふりをしながら社長室近くの給湯室へ向かった。ちらりと閉ざされたドアをうかがう。
昨日、理奈が「司が帰ってきた」と言っていたのを聞き、今日は新しい高級香水までつけてきた。淡い期待を胸に秘めて。
ちょうどそのとき、廊下の奥の専用エレベーターが静かに開いた。
司のすらりとした姿が現れ、素早く、しかし落ち着いた足取りでこちらへ向かってくる。
香取美姫の心臓は高鳴り、慌てて壁際に下がって身なりを整えた。
司は視線を逸らすことなく、伊藤秘書の素早い報告を聞きながら通り過ぎていく。
その圧倒的な雰囲気が近づくにつれ、思わず息を飲む美姫。
だが、彼はまるで風のように一瞬で通り過ぎ、角を曲がって消えていった。
一度も、こちらを見ることはなかった。
大きな喪失感が、香取美姫を襲う。
どうして? どうして顔だけが取り柄の理奈が、あの人の隣に立てるの?
自分は海外の一流大学を出て、優秀で、見た目だって負けていないはずなのに――
悔しさと嫉妬が、心の奥で渦巻いた。
美姫は唇を噛みしめ、スマホを取り出した。
……
スマホのバイブ音が、デスクで仮眠していた理奈を起こした。
目を細めて画面を見ると、「香取美姫」の名前が表示されている。
【理奈ちゃん、今夜空いてる?すごく評判のいい焼肉屋見つけたんだけど、一緒にどう?ウキウキウキウキ】
数日前の自分なら、きっと何も考えずに喜んでOKしていたはず。「気の合う友達ができてうれしい」とさえ思っていた。たしかに焼肉は大好きだ。
でも、今の理奈にはもうわかる。
香取美姫が誘ってくるタイミングは、ほとんどいつも司が横浜にいるときだ。
つまり、理奈と司が一緒に過ごす時間を邪魔するため。
もう、騙されるつもりはない。
理奈は冷静に返信した。
【ごめん、予定あるの。】
大人としての礼儀は守りつつ、もうこれ以上深入りしないつもりだ。
だが、すぐにまたメッセージが届く。
【理奈ちゃん、今日すごく落ち込んでて、誰かに話を聞いてほしいの。デートキャンセルして私といてくれない?泣泣落胆落胆】
寝起きのイライラもあり、相手のあざといやり口に理奈はすっかりうんざりした。
もう、適当に返す気もない。
【あっち行け。】
そのまま、LINEのチャットを閉じて、香取美姫のアカウントを友達リストから削除した。
やっと静かになった。
また腕に顔を乗せ、もうひと眠りしようと目を閉じる。
けれど、ふとした瞬間、焼肉のことがどうしても頭から離れなくなった。
思い出したら、もう我慢できない。
理奈はがばっと目を開け、迷わずスマホを手に取った。
久しぶりに、あのトーク画面を開く。
……
藤原財閥の最上階、会議室。
不動産部の責任者が、新しく落札した土地の開発計画を大画面で説明している。
緊張した空気が漂う中、司はテーブルの主席で鋭い眼差しを向けていた。
そのとき、彼の私用スマホの画面が静かに点灯する。
一通、二通、三通……次々とメッセージが飛び込んでくる。
司は何気なく画面を見下ろした。
そこには、理奈からのグリーンの吹き出しがいくつも並んでいる。
【こんにちはーฅ•ᴗ•ฅ】
【何時に退社できる?】
【一緒に夕飯どう?(私のおごり!)】
【焼肉はどう?】
【コソコソ覗き見.jpg】
馴れ馴れしい口調に、妙なスタンプまで。
司は不意を突かれ、思わず固まってしまった。