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第17話 隙間なく

藤原理奈の胸の奥で、まだ興奮の余韻が収まらない。


彼女は隣の司に向き直ると、目を輝かせ、勢いよく褒め言葉を畳みかけた。その様子は、まるで熱烈なスイッチが突然入ったかのようだった。


「さすが司さん!その洞察力、本当に業界の伝説ですね!」

「先見の明が素晴らしいです。もう未来を見通すレーダーでもついてるみたい!」

「こんな素晴らしい目利きにはなかなか出会えませんよ、司さん。私たちもようやく認めてもらえました!」

「ご安心ください、チーム一丸となってプロジェクトを大成功させてみせます!」


理奈の声は明るく、エネルギッシュで、言葉が途切れることなく次々と溢れ出してくる。


前の席で運転していた伊藤は、その様子に驚きつつも思わずハンドルを握りしめた。


──奥様の話術、まるで永久機関だな。


とっさにバックミラーで後部座席を覗く。


司は窓際に肘を預け、無意識にこめかみを指先で軽く叩きながら、半ば伏せたまなざしで、突然“褒めマシン”と化した理奈を静かに見つめていた。


その時、理奈は伊藤がミラー越しに自分たちを見ているのに気づき、勢いよく会話に巻き込んだ。


「伊藤さん!うちのプロジェクト、すごいと思いません?今、うなずいてましたよね?」


「……え?」


実際には、ただ上司を確認しただけなのに。


だが伊藤はすぐに切り返し、満面の笑顔で乗っかった。


「奥様の企画が素晴らしいのは当然です。司さんのご判断はいつも的確ですし、選ばれたプロジェクトが成功しなかった例なんてありません。新番組、ぜひ大ヒットしますように!」


「ははは、ありがと!その言葉、最高だわ!」


理奈は満足そうに背筋を伸ばし、にこやかに司のほうへそっと身を寄せる。ほんのわずかな距離だが、まるで何か特別な儀式でも始めるかのように。


「ねぇ、司さんの運気、ちょっと分けてくださいよ。幸運、受け取っちゃおうっと~」


密閉された車内で、一瞬空気がぴんと張りつめた。


そのささやかな動きに、ほんのりとした甘く爽やかな香りが、再び不意に司の呼吸を満たす。


逃れようもなく、いつまでもその香りは消えなかった。


***


翌日、横浜放送局の会議室。


王ディレクターが長テーブルの前に立ち、満面の笑みで発表した。


「今回のスポンサー集め、Dチームの企画が抜群の成果を出しました!藤原グループの高級EVブランドを独占冠スポンサーに迎え、番組の公式車に決定。他にも複数の有力ブランドが協賛してくれました!」


興奮気味のDチームメンバーを見渡して、王ディレクターは続ける。


「Dチーム、みんな本当によく頑張った!プロジェクトのボーナスは期待してていいからな、特別に用意するぞ!」


その声が終わるや否や、Dチームの席から大歓声が沸き起こった。


「やったー!」

「最高!」

「Dチーム最強!」


その熱気の中、片隅ではひそひそと不穏な声も聞こえてくる。


「聞いた?今回あんな大口スポンサーを取れたの、裏で相当“努力”した人がいるらしいよ」

「“努力”って?」

「何のことかわかるだろ……」


話している者は、意味深な視線を理奈の方へ送ると、にやりと目配せした。


「理奈って?まさか。結婚してるんじゃないの?」

「むしろ結婚してる方が大胆だったりして」

「そういえば、新婚だって聞いたけど、旦那さんを見たことないし、通勤も一人だよな。不思議だと思わない?」


王ディレクターは咳払いして場を静め、理奈に目を向けた。


「藤原理奈、新番組の副ADは君に任せる。今回の企画、君の貢献が大きかった。この機会に経験を積んで、将来はディレクターを目指してくれ」


彼は局内の有望な若手を常にチェックしており、理奈の実力と情熱を高く評価していた。


「ありがとうございます!」理奈の声には感激と決意が込められていた。


***


定例会議後、ケヴィンと数人の同僚は屋上で煙草をふかしていた。


さっきの会議室での噂話は、すぐに屋上でも広がっていた。


「見たか?王ディレクターの一言で、ADから副ADに大抜擢だぞ。どんな“努力”をしたのか、言わなくてもわかるよな」とケヴィンが嘲り混じりに煙を吐く。


「最悪だな」と別の男が吐き捨てる。「彼女が入社した頃、俺もアプローチしたけど、めちゃくちゃ高飛車でさ。全然相手にされなかった。結局、俺たちじゃレベルが低すぎたんだろ」


「そうそう。昨日みたいな高級車に乗れる男じゃないと、相手にされないってことさ」


下品な笑いが交わされる。


その時、澄んだ声に怒気を帯びた一言が飛び込んできた。


「ふざけんな!理奈さんがそんな人なわけないだろ!」


数人が驚いて振り返ると、Dチームのインターン・陸が立っていた。


ケヴィンは彼を確認すると、嘲るように鼻で笑った。


「へえ、必死で庇うんだ?相手にされないのにご苦労なこった。彼女が誰かの“特別”になるとしても、お前みたいなインターンなんて眼中にないぞ」


陸は今年Dチームに配属されたばかりの新入社員で、普段はコツコツ真面目な“弟キャラ”。Dチームは雰囲気が良く、皆で支え合いながら頑張っている。理奈がどれだけチームのために努力し、企画のために夜遅くまで働いていたかも、よく知っている。


だからこそ、ケヴィンたちの陰湿な噂に、怒りが抑えきれなかった。


ケヴィンはさらに皮肉を込めて仲間に言う。


「まあまあ、若い奴には優しくしないとな。Dチームの女子は誰も相手にしてくれないから、一人で屋上に来てるんだろ」


陸の表情が一変し、手にしていた火のついた煙草をゴミ箱に押し付けて消すと、いつもの大人しい雰囲気とは打って変わって、鋭い口調で言い返した。


「俺は煙草吸いに来たんじゃない。お前らの墓探しに来たんだよ!」


ケヴィンはその剣幕にたじろいで、煙草を落とした。


「な、何だと、お前……!」


陸は冷笑し、マシンガンのような早口でまくし立てた。


「ビビってんのか?俺は予防接種済みだしな。朝から便秘薬でも飲んだのか?そんなに汚いことばかり言いやがって。女の子の悪い噂ばかり流して、自分こそ売れ残りだろ?最近景気悪いのか?誰が見ても同業者にしか見えないぞ!」


ケヴィンは怒りで震えながら、陸に指を突きつけた。


「てめぇ……!」


「それしか言えないのか?お前の頭の中、葬式みたいに寒々しいな。脳みそ足りなくてお茶漬けも作れねえんじゃね?ちゃんと混ぜてから俺に話せよ」


「お前……!」


「俺の口は俺のもんだ。何言おうが俺の勝手だろ?著作権でも買ったつもりか?」


陸は一歩も引かず、矢継ぎ早に言い負かす。その勢いにケヴィンは真っ赤になって言葉を失った。


最後に陸は冷ややかな目線を送り、吐き捨てるように言った。


「単細胞の皆さん、進化を楽しんでてください。俺は忙しいんで、これで失礼します」


そう言い残して、踵を返して去っていった。ケヴィンたちは悔しさに顔を歪めるしかなかった。


***


Dチームのオフィスに戻っても、陸の顔にはまだ怒りの色が残っていた。


自分のデスクに着こうとしたとき、給湯室から理奈の呼ぶ声が聞こえた。


「陸くん、ちょっと来て!」


陸は一瞬戸惑いながらも、給湯室へ向かった。屋上でのやりとりを理奈に話すべきか躊躇していた。


近づくと、理奈はにっこり笑いながら、綺麗に印刷されたチケットを二枚差し出した。


「はい、これ。この間、彼女がこの画家好きだって話してたでしょ?ちょうど二枚あるから」


陸は思わず目を見開いた。


「あ、え?姐さん、これ……もらっていいんですか?お金払います!」


財布を取り出そうとすると、横で見ていた同僚が笑って口を挟んだ。


「そんなに気を遣わなくてもいいじゃん。うちの弟分なんだから、みんなで面倒見るのは当たり前だよ」


理奈は強引にチケットを陸の手に押し込んだ。


「大丈夫、協賛企業からもらった招待券だから、遠慮しないで」


実はそれは小さな嘘。本当は理奈が友人に頼んで手に入れたものだった。


理由は単純。先週、お中元の荷物が大量に届いたとき、いつもなら真っ先に帰る陸が、文句も言わず最後まで手伝ってくれたことを彼女はちゃんと覚えていた。


理奈は、受けた親切は必ず返すタイプなのだ。


陸はチケットを握りしめ、温かい気持ちで何度もお礼を言った。


理奈の優しい笑顔を見ながら、心の中で強く拳を握る。


優しいお姉さんたちのために、

俺も、俺なりのやり方で――

Dチームの皆を、絶対に守る!(ぐっ!)

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