会場の正面玄関の外、春先の夜風にはまだ冷たさが残っていた。
ケヴィンは柱に寄りかかり、タバコの箱から一本を取り出した。
隣にいた同僚が気を利かせてライターに火をつけ、その炎をタバコの先に差し出す。
「兄貴、今日はうちのチームが大活躍でしたね」同僚はお世辞を言いながら、「二つのプロジェクト、どっちも一千万円超えのスポンサー獲得ですよ」
ケヴィンは得意げに鼻で笑い、今にも自分のコネを自慢しようとしたが、タバコを挟んだ指がふと空中で止まった。
彼の視線は同僚の肩越しに、少し離れた道路脇で釘付けになった。
放送局の社員証を提げた女性が一人、スタイリッシュな黒いセダンに身をかがめて乗り込むところだった。車のエンブレムは夕暮れの中、控えめだが一目で分かる高級感を放っている。
「マジかよ……」ケヴィンが信じられないという顔で小声を漏らす。「藤原理奈……?」
同僚もつられて視線を移す。「どこです?Dチームの?」
二人が見たのは、ゆっくり上がる色付きの窓と、セダンが発進する時の滑らかなテールランプだけだった。
二人は目を合わせ、すぐに意味ありげな表情を交わす。
ケヴィンは口元を歪めて嘲るように笑う。「はっ、普段は清純ぶってるくせに、裏では手回しが早いな。さて、あの車はどこの大物のだろうな?」
同僚もすぐに下卑た口調で応える。「兄貴、分かってないですね。外面が清純な女ほど裏じゃやり手なんですよ」
彼は目配せしながら、「女は楽でいいですよね。俺たちは酒を飲んだり接待したり、必死でコネ作りしてるのに、あいつらは車に乗って、ベッドに寝転ぶだけで全部手に入るんですから」
ケヴィンはタバコを深く吸い、勢いよく煙を吐き出した。「やってるくせに言われるのが嫌とか、バカバカしい。俺は言うぜ、何が悪い?」
「しっ、兄貴、声抑えて……」同僚は建前でたしなめながらも、どこか煽るような調子だった。
ケヴィンの声は一向に小さくならない。「聞かれても構わねえだろ!藤原理奈がやってんなら、俺が言ったって問題ないさ」
二人の下品な会話は抑えることなく、夜の空気にしっかりと聞こえていた。そのとき、一人の女性が彼らの横を通り過ぎる。
香取美姫は、足がその場に釘付けになり、下ろした手がきつく握りしめられ、爪が掌に食い込む痛みを感じていた。
彼女は、車の流れに消えていく黒いセダンを凝視した。テールランプの赤い光が、潤んだ瞳の中でぼんやり揺れている――彼女には分かった。あれは、藤原司の車だ。
鋭い携帯の着信音が、彼女の混乱を一気に切り裂いた。
ほとんど反射的に電話を取る。
「香取美姫さん?」受話器の向こうから、上司の冷たく感情のない声が聞こえた。「明日から秘書課に来なくていい」
「どうしてですか!」香取美姫は思わず声を荒げた。
「どうして?自分で分かってないの?余計なことは言わないで。今まで大きな問題はなかったから、顔を立ててやる。南豊支部に異動だ。明日からはそっちに出勤すること。これからグループ本社には絶対来ないように」
言い終わると、冷たい通話終了音だけが残った。
「南豊支部……」香取美姫は呆然と呟く。郊外の僻地。実質的な左遷だった。
強烈な苦しさが喉を塞ぎ、涙が止めどなく頬を伝った。
彼女は消えていく車の方を見つめる。テールランプの光は、もう夜に溶けて見えない。
悔しさと憎しみが胸の奥で激しく渦巻く。
今日の賭けに後悔はない。ただ、彼に手が届きそうで届かなかった自分自身が憎いだけだ。
そして藤原理奈――また藤原理奈!なぜあの人だけが、あんなにも当然のように彼の隣にいられるの?
車内はまるで別世界だった。外の騒がしさも冷たさも遮断され、温かく静かな空間。
藤原理奈は藤原司の隣に座るや否や、好奇心とまだ冷めやらぬ高揚を隠しきれずに彼の方を向く。「待っててくれたんですか?」
藤原司は彼女を見ず、正面を向いたままスマートフォンをゆっくりと操作し、画面を彼女に差し出した。
『いや、ちょうど用事があっただけだ』
ちょうど用事……?
藤原理奈は瞬きをする。財閥の御曹司にとっての「ちょうど」は、やっぱり普通の人とは違うみたい。
でも、理由は十分納得できる。こんな偶然に感謝しながら、思わず笑顔がこぼれる。「本当に助かりました!今日は電動自転車じゃなかったし、この時間タクシーなんて全然つかまらないところでした」
明るい声で運転席の伊藤秘書に挨拶する。「やっとまた会えましたね、伊藤さん!」
伊藤はルームミラー越しに微笑んだ。「ええ、奥様、本当に偶然ですね」
彼は心の中で少し驚いていた。数ヶ月前に本宅で見かけた時とは別人のように、明るく親しみやすい。
思わず後部座席の藤原司を一瞥する。
司は変わらず落ち着いた表情だが、伊藤の観察眼は鋭い――
今日はいつものように目を閉じて休むことなく、まるで二人の会話を静かに聞いているようだ。
この気づきが、伊藤の中で社長の気分への確信をより強めた。
藤原理奈は、伊藤がパンフレットを手伝ってくれたことにお礼を言っていたが、突然、携帯がけたたましく鳴った。
木村小乃からだった。
電話に出た瞬間、木村の大きな声が響く。「理奈!!あなたって本当に予言者!?全部当たったよ!」
藤原理奈はぽかんとする。「え、私、何か言ったっけ?」
「スポンサーだよ!本物の大スポンサーがうちの企画に乗ってくれたの!独占冠名!しかも八千万!」
「は、八……」藤原理奈は思わず体を起こし、頭を車の天井にぶつけた。
痛みも感じないほど、その金額に圧倒されていた。
藤原司は、彼女が天井に頭をぶつけたとき、ちらりと視線を送ってきた。
「まだあるよ!すごいニュース!」木村はじらすように言う。「まずは深呼吸して、ね!」
藤原理奈は大げさに息を吸って応じる。「ふーっ、はい、木村先生、早く教えて!私は大丈夫だから!」
「局長が直々に決定したのよ!うちの新番組、評価は――S+!宣伝も制作も、業界トップのチームが担当!」
「S+!?」
藤原理奈の声が裏返る。伝説級の評価に、信じられない思いで何度も繰り返した。
過去に自分が関わった企画でも、最高はAランク止まりだった。
喜びが全身を駆け巡り、思わず拳を振り上げ、声も震える。「信じられない……スポンサーは誰?早く教えて!」
「言ったらあなた、車の中で空手の型でも披露しそう!」木村は大げさに煽る。
「本当にやるよ!」藤原理奈は前のめりになり、またも天井にぶつかることに気づかない。
藤原司の視線がまた彼女の頭に向けられる。
「藤原財閥――」
木村はわざとタメをつくり、決定的な名前を口にした。「――藤原司!もう、現場でひれ伏して感謝すればよかった!」
「藤原司」という名前が、雷のように車内に響き渡った。
藤原理奈の動きが一瞬で止まる。
まるで一時停止ボタンを押されたように、携帯を持ったまま何秒も固まっていた。
そして、ゆっくりと、現実が信じられないまま、隣の男性を振り返る。
藤原司は車窓にもたれ、流れる街灯の光に照らされて横顔が一層シャープに見える。
黒いシャツがますます彼の存在感を際立たせ、近寄りがたい雰囲気をまとっている。
彼女の熱い視線に気づいたのか、彼はまぶたを軽く動かし、静かに彼女を見返した。
藤原理奈の瞳は驚きと喜びで輝き、まるで星が宿ったようにきらめいている。
抑えきれない嬉しさが全身からあふれ、春の桃の花のように顔がぱっと明るくなる。
彼女は携帯を指でトントンと叩き、口パクで「ちょっと待っててね」と伝えた。
藤原司はわずかに眉を上げ、不思議そうな表情を見せた。
電話の向こうで、木村はS+ランクがどういうものか、これからの夢を熱く語り続けている。
藤原理奈はうわの空で返事をしながら、視線の端で藤原司を気にしていた。
彼は下を向き、長い指でスマホを素早く操作する。
藤原理奈が木村との通話を終えたとき、藤原司は無言でスマホを彼女に差し出した。
「?」
大きな手のひらが上を向き、指はしなやかに曲がり、手首には淡い青の血管が透けて見える。
画面には、ただ一行。
『車内で空手の型はやめておきなさい』
危険行為。
藤原理奈は完全に虚を突かれた。「……」
彼女は無意識にぱちぱちとまばたきをし、長いまつげが驚いた蝶のように揺れる。
さっき木村との冗談、本気で聞いていたうえに、こんな「注意」までしてくるなんて――
目の前の藤原司は、動じることなく、彼女が画面を見たのを確認してからスマホを引き取った。
「ぷっ――」ついに彼女は吹き出してしまい、肩を震わせて笑った。
どうしてこのクールな人が、こんな真面目な顔で冗談みたいなことをできるの……?