「ファイルの問題?それとも機材?」藤原理奈の声が、ざわつくコントロールルームに緊張感をもたらした。
スタッフは再びマウスを何度もクリックしたが、画面にはまたしてもファイル破損の警告が赤く表示された。
「ファイルが壊れています。予備のUSBに入っているものも同じ状態で……」スタッフは額の汗を拭いながら、困り果てた表情で言った。
ステージ上の巨大なスクリーンでは、すでに別グループの紹介映像が滑らかに流れ始めている。
刻一刻と時間が過ぎ、焦燥感が空気を重くしていた。
理奈は深呼吸し、沈黙するパソコンに目を向けた。
「私に修復をやらせてみては?」静かながらもはっきりとした声で提案する。
「君が?これは簡単なことじゃない……」スタッフは疑いの目を向けた。
「何もしないよりはマシでしょ。」
理奈はきっぱり言い切った。
ADの仕事は何でも屋だ。企画書から編集、ソフトの扱いまで、一通り身につけている。
初めて直面するトラブルだったが、彼女にとって手をこまねいている選択肢はない。
スタッフは迷いながらも、ついに席を譲った。
理奈は袖をたくし上げ、細い手首を露わにしてキーボードの前に座る。
カタカタと響くキーの音が、張り詰めた空気の中でひときわ鮮やかに響いた。
同じく焦る同僚たちがすぐに集まり、彼女の手元と画面を食い入るように見守る。
VIPエリアの中央、伊藤社長の秘書は次の予定を伝えようと、ふと目線を落とした瞬間、思わず固まる。
広いソファに座る藤原司は、横顔が氷の彫刻のように冷たい。
だが今、彼の深く感情を見せない目は、一点をじっと見つめていた。
その視線には、どこかいつもと違う集中と……隠しきれない興味があった。
秘書の胸がざわつく。こんな藤原司は見たことがない。
そっとその目線の先を追うと、そこには――
コントロールルームの前、真剣な表情でキーボードを叩く女性の姿。
淡いオレンジ色のニット、黒髪のロングヘア――
まさしく藤原家の奥様、理奈その人だった。
数ヶ月前、本宅に送り届けた日のことがよみがえる。
あの時、後部座席はどこか氷で隔てられたようで、二人は会話も視線すら交わさなかった。
秘書は目を見開き、何度も確認する。
――間違いない、奥様だ!
このギャップが、心の湖に大きな波紋を広げていく。
司の目つきは、三ヶ月前に他人を見るようだった冷たさとは全く違う。
もしかして……関係が進展したのか?
でも、奥様の反応は……
キーボードの音だけが時間を刻み、周囲の空気が徐々に変わっていく。
最初は半信半疑だった同僚たちも、やがて理奈の手さばきに驚きを隠せなくなった。
画面のコードが、彼女の指先で次々と整理されていく。
10分後、理奈は肩の力を抜き、大きく息を吐いた。
「……これで大丈夫なはずです。」少し疲れのにじむ声だった。
スタッフがすぐにパソコンに駆け寄り、震える手でファイルを開く。
今度は、映像がスムーズに表示された。
何度も確認して、スタッフの顔は歓喜に輝く。「やった!本当に直った!すごい!」
木村小乃は興奮のあまり、理奈の肩をぎゅっと抱きしめた。「理奈、最高!本当に頼りになる!」
ライトに照らされ、オレンジ色のニットが理奈の肌を一層明るく見せ、疲れが消えたその顔には新たな輝きが戻っていた。
木村小乃は心の中で思わず叫ぶ。――こんな素敵な理奈をお嫁さんにできるなんて、どんな幸運な男なのよ!
賞賛や抱擁を受け、理奈は目を細めて明るく笑った。その笑顔は、周囲の不安をすべて消し去るようだった。
彼女は気づいていなかった。VIP席からの熱い視線が、ずっと自分を見ていたことに。
伊藤社長秘書の心はまだざわついていた。
さっき、理奈がちらりと振り返ったのを彼は見逃さなかった。
奥様は司の存在に気づき、一瞬だけ驚いた目をした。
そして、ごくわずかに顎を上げて挨拶のような仕草を見せると、すぐに視線をそらしてしまう。
……これは一体?
彼はプロとしての洞察力が揺らぐのを感じた。
奥様が司を見ても笑顔すら見せず、まるで関わりを持ちたくないような態度――
二人の距離感が全く読めない。
彼は考え込むしかなかった。
せめて……今日は藤原様の機嫌は悪くなさそうだ。でなければ、この退屈なイベントに30分もいるはずがない。
そう思った矢先、隣の司が腕時計に視線を落とし、ゆっくりと袖口を整え、立ち上がった。
明らかにもう会場を出るつもりだ。
伊藤社長秘書もすぐに気持ちを切り替え、後についていこうとした。
その時、香りをまとわせた一人の女性がさっと近づいてきた。
秘書課の香取美姫がソファの横で膝をつき、上目遣いでにこやかに話しかける。
「藤原様、秘書課の香取美姫です。本日、会場運営を担当しております。お飲み物はいかがですか?温かいお茶をご用意できますし、ご興味のあるプロジェクトについてもご説明できますが……」
伊藤社長秘書は眉をひそめ、低い声で咎めた。「何しているんだ?秘書課の仕事は全て済んだのか?誰の許可で藤原様の前に出た?」
司の近くに付き添うのは自分だけ、秘書課は事前準備のみ、勝手な行動は許されていない。
この女は自分の存在を無視するつもりか?
香取美姫は膝の上で指を握りしめたが、一歩も引かなかった。
目の前の男は、彼女が憧れ続けてきた存在。
見た目だけでなく、能力をアピールしなければ振り向いてもらえない。その覚悟で挑むしかなかった。
せめて一言でも、視線が自分に向けば――
彼女は息を詰め、期待と勇気の入り混じる目で司を見つめた。
しかし、司は彼女が口を開いた瞬間、すでに視線を外していた。
その横顔は無表情で冷たく、まるで空気のように扱われる。
重苦しい緊張が漂い、香取美姫は手を握りしめて胸が高鳴るのを抑えきれない。
「あなたか……」
伊藤社長秘書が彼女の顔を見て、すぐに気づいた。
――以前、オフィスの前でうろついていたあの女だ!
一度は偶然かもしれないが、二度もあれば見過ごせない。
彼が叱責しようとしたとき、司はすでに歩き出していた。
高級な革靴がカーペットを静かに踏みしめ、冷たいオーラが空間を切り裂いていく。
香取美姫は喉が詰まり、準備していた言葉も全て胸の奥に飲み込んだ。
司の背中が遠ざかるたび、胸の奥の勇気が音もなく砕けていく。
顔を上げることもできず、その場で立ち尽くすしかなかった。
……
長いイベントも、ついに三時間後に幕を閉じた。
理奈は配りきれなかったパンフレットを両手に抱え、会場を出ていく。
誰もいなくなったVIP席を横目で見やると、司の席はすでに空だった。
――やっぱり。
昨日、王監督から「彼は30分だけ」と聞いていた。
理奈はむしろほっとした。
同僚たちの前で自分と司の関係が知られるのは避けたかった。お互い干渉せず、それぞれの道を行くのが一番だ。
重いパンフレットを抱え、会場の階段を下ると、理奈は片手でポケットのスマホを探した。タクシーを呼ぶつもりだった。
春先の夕方、冷たい風が吹き抜け、理奈は首をすくめて毛衣の襟に顔をうずめた。
その時、スーツ姿の若い男性が小走りで近づいてきた。
理奈は思わず顔を上げる。
社長秘書の肩越しに道路を見やると、黒くシャープなボディの車が静かに停まっていた。後部座席の窓が、ゆっくりと開く。
窓の向こうに、深い彫りのある顔立ちと圧倒的な存在感が現れる。
その目は、薄暗くなり始めた夕暮れの中でも、氷のように静かだ。
理奈はパンフレットを抱えたまま、驚きで目を見開いた。
その間に、伊藤社長秘書がすっと彼女の荷物を受け取り、丁寧に声をかける。
「奥様、どうぞお車へ。お荷物はこちらでお持ちします。」