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第15話 奥様、どうぞお車へ

「ファイルの問題?それとも機材?」藤原理奈の声が、ざわつくコントロールルームに緊張感をもたらした。


スタッフは再びマウスを何度もクリックしたが、画面にはまたしてもファイル破損の警告が赤く表示された。


「ファイルが壊れています。予備のUSBに入っているものも同じ状態で……」スタッフは額の汗を拭いながら、困り果てた表情で言った。


ステージ上の巨大なスクリーンでは、すでに別グループの紹介映像が滑らかに流れ始めている。


刻一刻と時間が過ぎ、焦燥感が空気を重くしていた。


理奈は深呼吸し、沈黙するパソコンに目を向けた。


「私に修復をやらせてみては?」静かながらもはっきりとした声で提案する。


「君が?これは簡単なことじゃない……」スタッフは疑いの目を向けた。


「何もしないよりはマシでしょ。」


理奈はきっぱり言い切った。


ADの仕事は何でも屋だ。企画書から編集、ソフトの扱いまで、一通り身につけている。


初めて直面するトラブルだったが、彼女にとって手をこまねいている選択肢はない。


スタッフは迷いながらも、ついに席を譲った。


理奈は袖をたくし上げ、細い手首を露わにしてキーボードの前に座る。


カタカタと響くキーの音が、張り詰めた空気の中でひときわ鮮やかに響いた。


同じく焦る同僚たちがすぐに集まり、彼女の手元と画面を食い入るように見守る。


VIPエリアの中央、伊藤社長の秘書は次の予定を伝えようと、ふと目線を落とした瞬間、思わず固まる。


広いソファに座る藤原司は、横顔が氷の彫刻のように冷たい。


だが今、彼の深く感情を見せない目は、一点をじっと見つめていた。


その視線には、どこかいつもと違う集中と……隠しきれない興味があった。


秘書の胸がざわつく。こんな藤原司は見たことがない。


そっとその目線の先を追うと、そこには――


コントロールルームの前、真剣な表情でキーボードを叩く女性の姿。


淡いオレンジ色のニット、黒髪のロングヘア――


まさしく藤原家の奥様、理奈その人だった。


数ヶ月前、本宅に送り届けた日のことがよみがえる。


あの時、後部座席はどこか氷で隔てられたようで、二人は会話も視線すら交わさなかった。


秘書は目を見開き、何度も確認する。


――間違いない、奥様だ!


このギャップが、心の湖に大きな波紋を広げていく。


司の目つきは、三ヶ月前に他人を見るようだった冷たさとは全く違う。


もしかして……関係が進展したのか?


でも、奥様の反応は……


キーボードの音だけが時間を刻み、周囲の空気が徐々に変わっていく。


最初は半信半疑だった同僚たちも、やがて理奈の手さばきに驚きを隠せなくなった。


画面のコードが、彼女の指先で次々と整理されていく。


10分後、理奈は肩の力を抜き、大きく息を吐いた。


「……これで大丈夫なはずです。」少し疲れのにじむ声だった。


スタッフがすぐにパソコンに駆け寄り、震える手でファイルを開く。


今度は、映像がスムーズに表示された。


何度も確認して、スタッフの顔は歓喜に輝く。「やった!本当に直った!すごい!」


木村小乃は興奮のあまり、理奈の肩をぎゅっと抱きしめた。「理奈、最高!本当に頼りになる!」


ライトに照らされ、オレンジ色のニットが理奈の肌を一層明るく見せ、疲れが消えたその顔には新たな輝きが戻っていた。


木村小乃は心の中で思わず叫ぶ。――こんな素敵な理奈をお嫁さんにできるなんて、どんな幸運な男なのよ!


賞賛や抱擁を受け、理奈は目を細めて明るく笑った。その笑顔は、周囲の不安をすべて消し去るようだった。


彼女は気づいていなかった。VIP席からの熱い視線が、ずっと自分を見ていたことに。


伊藤社長秘書の心はまだざわついていた。


さっき、理奈がちらりと振り返ったのを彼は見逃さなかった。


奥様は司の存在に気づき、一瞬だけ驚いた目をした。


そして、ごくわずかに顎を上げて挨拶のような仕草を見せると、すぐに視線をそらしてしまう。


……これは一体?


彼はプロとしての洞察力が揺らぐのを感じた。


奥様が司を見ても笑顔すら見せず、まるで関わりを持ちたくないような態度――


二人の距離感が全く読めない。


彼は考え込むしかなかった。


せめて……今日は藤原様の機嫌は悪くなさそうだ。でなければ、この退屈なイベントに30分もいるはずがない。


そう思った矢先、隣の司が腕時計に視線を落とし、ゆっくりと袖口を整え、立ち上がった。


明らかにもう会場を出るつもりだ。


伊藤社長秘書もすぐに気持ちを切り替え、後についていこうとした。


その時、香りをまとわせた一人の女性がさっと近づいてきた。


秘書課の香取美姫がソファの横で膝をつき、上目遣いでにこやかに話しかける。


「藤原様、秘書課の香取美姫です。本日、会場運営を担当しております。お飲み物はいかがですか?温かいお茶をご用意できますし、ご興味のあるプロジェクトについてもご説明できますが……」


伊藤社長秘書は眉をひそめ、低い声で咎めた。「何しているんだ?秘書課の仕事は全て済んだのか?誰の許可で藤原様の前に出た?」


司の近くに付き添うのは自分だけ、秘書課は事前準備のみ、勝手な行動は許されていない。


この女は自分の存在を無視するつもりか?


香取美姫は膝の上で指を握りしめたが、一歩も引かなかった。


目の前の男は、彼女が憧れ続けてきた存在。


見た目だけでなく、能力をアピールしなければ振り向いてもらえない。その覚悟で挑むしかなかった。


せめて一言でも、視線が自分に向けば――


彼女は息を詰め、期待と勇気の入り混じる目で司を見つめた。


しかし、司は彼女が口を開いた瞬間、すでに視線を外していた。


その横顔は無表情で冷たく、まるで空気のように扱われる。


重苦しい緊張が漂い、香取美姫は手を握りしめて胸が高鳴るのを抑えきれない。


「あなたか……」


伊藤社長秘書が彼女の顔を見て、すぐに気づいた。


――以前、オフィスの前でうろついていたあの女だ!


一度は偶然かもしれないが、二度もあれば見過ごせない。


彼が叱責しようとしたとき、司はすでに歩き出していた。


高級な革靴がカーペットを静かに踏みしめ、冷たいオーラが空間を切り裂いていく。


香取美姫は喉が詰まり、準備していた言葉も全て胸の奥に飲み込んだ。


司の背中が遠ざかるたび、胸の奥の勇気が音もなく砕けていく。


顔を上げることもできず、その場で立ち尽くすしかなかった。


……


長いイベントも、ついに三時間後に幕を閉じた。


理奈は配りきれなかったパンフレットを両手に抱え、会場を出ていく。


誰もいなくなったVIP席を横目で見やると、司の席はすでに空だった。


――やっぱり。


昨日、王監督から「彼は30分だけ」と聞いていた。


理奈はむしろほっとした。


同僚たちの前で自分と司の関係が知られるのは避けたかった。お互い干渉せず、それぞれの道を行くのが一番だ。


重いパンフレットを抱え、会場の階段を下ると、理奈は片手でポケットのスマホを探した。タクシーを呼ぶつもりだった。


春先の夕方、冷たい風が吹き抜け、理奈は首をすくめて毛衣の襟に顔をうずめた。


その時、スーツ姿の若い男性が小走りで近づいてきた。


理奈は思わず顔を上げる。


社長秘書の肩越しに道路を見やると、黒くシャープなボディの車が静かに停まっていた。後部座席の窓が、ゆっくりと開く。


窓の向こうに、深い彫りのある顔立ちと圧倒的な存在感が現れる。


その目は、薄暗くなり始めた夕暮れの中でも、氷のように静かだ。


理奈はパンフレットを抱えたまま、驚きで目を見開いた。


その間に、伊藤社長秘書がすっと彼女の荷物を受け取り、丁寧に声をかける。


「奥様、どうぞお車へ。お荷物はこちらでお持ちします。」

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