招商会当日、会場は緊張感と慌ただしさに包まれていた。
藤原理奈は控室から展示パネルを運び出していた。すると、ドアが勢いよく開き、人が入るより先に不満げな声が飛び込んできた。
「はあ、ほんとムカつく!」
藤原理奈が声の主を見ると、同僚の木村小乃が怒り心頭で入ってきた。
「今度は誰にやられたの?」理奈はパネルを下ろしながら尋ねる。
「決まってるでしょ、Bチームのケヴィンだよ!」
木村は納得がいかない様子で、「今VIP席のあたりで社長が座るのを見張ってて、見つけた瞬間にすぐ近寄って営業トーク。自分たちの新プロジェクトを必死で売り込んでるの!」
業界全体が厳しい状況で、各プロジェクトチーム間の火花が絶えない。表向きは協力し合っているものの、水面下では駆け引きが日常茶飯事だ。
中には自分たちの出資を勝ち取るため、他チームがすでに話をつけたスポンサーを強引に引き抜こうとする者までいる。もちろん、そんな行為は局内では厳しく禁じられている。
理奈はミネラルウォーターのボトルを手渡した。「ほら、水飲んで落ち着いて。」
木村はそれを受け取ると、一気に何口か飲み、また愚痴をこぼす。「実力で勝負してほしいよね。誰の企画が面白いか、どの番組が新しいかで勝負すればいいのに!もうイヤになる。誰かこういう悪い流れを止めてくれないのかな?」
理奈はクスッと笑い、「いるよ。」
「どうやって?」木村は目を輝かせて聞く。
「今から一緒に祈るの。来年こそ、若い新人がたくさん入ってきて、職場の雰囲気を変えてくれるって。平成世代のパワーに期待しよう。」
「……」木村は呆れたように苦笑い。「理奈、よくそんな冗談言っていられるね?うちの企画なんて、正直話題性より想いが先行してるし、スポンサー集まらなかったらAランクどころかBも危ないかもよ。」
放送局の自社制作ドラマやバラエティは、立ち上げの段階で内部ランク付けされる。B、A、S、そしてS+まで。ランクが上がるほど局内での期待度は高く、制作や宣伝のリソースも潤沢になる。
「そんなに心配しないで。」
理奈は明るい声で励ます。「私たちは自分たちの仕事をきっちりやるだけ。そのうち、ちゃんと価値を分かってくれるスポンサーに出会えるよ。」
木村がまだ浮かない顔をしているのを見て、理奈は少し言い方を変えた。「それに、簡単に他に取られてしまうスポンサーなら、最初からうちの番組の本当の価値なんて見てないのよ。無理して契約しても、番組に無理やり芸能人をねじ込まれたり、CMばかり増えて本編より長くなったり、もっと大変になるだけじゃない?」
「……そうだね。」木村は少し考えて、ようやく落ち着いた様子を見せた。「理奈の言う通りかも。」
そこへ、スタッフが慌てて駆け込んできた。「大変です!」
理奈の胸が一瞬ざわついた。
ADの仕事をしていると、「大変です」の後には、出演者の急なキャンセル、台本の紛失、編集データの破損……など、ろくなことが起きない。
「何があったの?」理奈はすぐに聞いた。
「あなたたちのチームの紹介動画にトラブルが出たみたい。技術班が対応中だけど、念のため見に来て。何かフォローできることがあるかもしれない。」
……
会場の入り口に、ひときわ目を引く長身の男性が現れた。
藤原司は仕立ての良い黒のスーツに身を包み、冷静な表情で会場に足を踏み入れた。その佇まいは周囲に近寄りがたい雰囲気を漂わせている。
彼が姿を現した瞬間、会場のざわめきが一瞬止まった。多くの視線が彼に集まる。
局長も遠くから見つけるやいなや、すぐに席を立って出迎えた。
招待された他の企業の代表たちも、藤原司の登場に驚きを隠せず、低い声でささやき合う。
――「今年の招商会って、こんなにハイレベルだったっけ?藤原さんまで来てるなんて。」
――「雑誌で写真見たけど、本人のオーラすごいな……カメラ持ってくればよかった。」
――「藤原財閥の投資部がエンタメ業界に参入するのか?」
――「しっかりチェックしろ。藤原さんが興味持った企画に、うちも便乗しよう。」
ざわめきと視線が集まる中、藤原司は淡々とした表情で、主催者が用意した一番前の中央席へと向かった。
会場のライトが彼の広い肩や長い脚を際立たせ、その存在感は圧倒的だった。
招商会はすでに始まって十数分が経過しており、司会者が情熱的に放送局の将来像や新たな方針を語っていた。
だが、藤原司の登場によって、会場の多くの投資家たちの注目はプロジェクトそのものから彼へと移っていった。
どの企画に関心を示すのか、皆が彼の一挙一動を見守っている。
注目の的となっている藤原司は、表情を変えることなく、秘書の伊藤が静かに脇に控えている。
藤原司はテーブルの上に置かれたパンフレットを何気なく手に取り、ページをめくり始めた。
ふと、あるページで手が止まる。視線もそこで固まった。
そのページに描かれていたデザインは、毎晩リビングで理奈が夢中で整理していた展示パネルと同じものだった。
他のページには、派手な恋愛バラエティや豪華キャストの旅番組が大きく取り上げられているが、その企画は「バラエティ企画紹介」の一番最後、控えめに掲載されていた。
目を引くような派手さも、豪華な出演者リストもない。
番組名は『君は本当に脇役なのか』。
説明文は一行だけ。「ドラマや映画で目立たないけれど、演技力に優れた俳優たちを掘り下げる――」
藤原司の視線は、企画チームの長い名簿を下へとたどり、最後の方で見慣れた名前を見つけた。
――藤原理奈。
彼はその名前をしばらく見つめていた。
ビジネスマンとしての目線で、改めて企画の説明や構想に目を通す。
市場分析、ターゲット層、企画の独自性……一つ一つ丁寧に読み進めるうち、いつの間にか眉間のしわが少しずつ和らいでいった。
この企画書は、専門性も高く、切り口も明快だ。
市場調査も綿密で、単なるネットの情報寄せ集めではない。
競争が激しい分野を避け、今はまだ注目されていないけれど、大きな可能性を秘めたニッチな市場に着眼している。
ビジネスとしての論理もはっきりしており、十分評価に値する内容だった。
藤原司の鋭い目が再び「藤原理奈」という名前に落ち着いた。
なぜか、鮮明に思い出されたのは、カラフルな部屋着姿で、リビングのカーペットの上に座り込み、資料や小道具を一生懸命に整理している理奈の横顔だった。
彼女が毎晩忙しそうにしていたのは、このためだったのか。
そして、もうひとつの記憶がぼんやりと蘇った――
いつか理奈が、目を輝かせて自分の理想のバラエティ番組について語っていたあの時。
だが、その時の自分は、深く気に留めることも、真剣に耳を傾けることもなかった。
彼は、彼女のことを本当に理解したことがなかったのかもしれない。
その時、会場の一角で小さなざわめきが起きた。
藤原司はふと顔を上げ、ステージ右手のコントロールブースに視線を向けた。
数人のスタッフが集まり、何やら慌ただしくトラブル対応をしているようだった。
そして――
見慣れた、明るい色合いの服が、突然彼の視界に飛び込んできた。