目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第13話 そばにいるだけで、満点の効果

春の気配が日に日に濃くなり、冷たい空気もすっかり和らいだ。木々の枝先には新しい緑がひそやかに芽吹いていた。


藤原理奈もまた、仕事の繁忙期を迎えていた――

横浜放送局の年に一度の番組説明会が間近に迫っていた。


今年は局の方針が大きく変わり、自社制作のバラエティ番組に力を入れることになった。若い視聴者層の獲得が狙いだ。

各番組チームは新企画の立案に追われ、すでに一週間以上残業が続いている。


ADとして働く理奈には、会場で使うボードやポスターなど、細かな準備物の手配が山ほど押し寄せていた。

時間は足りず、雑務は山積み。仕方なく、理奈は毎晩仕事を持ち帰り、家で続きをこなしていた。


資料の分類くらいならまだしも、大きな展示ボードの組み立てとなると、手間も場所も取る。

そこで、理奈はリビングを臨時オフィスにすることに決めた。

この選択には、もう一つの思惑があった。


最近、司も多忙を極めていた。書斎の明かりは夜遅くまで消えず、彼はパソコンの画面に向かい、黙々と資料を読み込んでいる。

お互い忙しく、顔を合わせるのは夕食を共にする時くらい。あまりに短い時間だった。


それだけでは足りない。

時が経つにつれ、「ストーリーのコントロール」に対する心配は薄れていったものの、理奈が司の治療を手伝うと約束したその重みは、いまだ胸に残っていた。


調べた資料によれば、言葉を交わさずとも、そばにいること自体が沈黙症の人へのサポートになるという。

リビングに座り、ほんの少し顔を向ければ、ガラス越しに書斎で静かに働く司の横顔が見える――

理奈にとっては、こうした「一緒にいる感覚」こそが、満点の癒やしだと思えた。


ふと、実家での時間を思い出す。

母が足湯をしながらテレビを見て、父はソファでゲームに夢中。誰も話さないけれど、家族がそろう静かな安心感がそこにはあった。



夜になると、司がふと顔を上げるたび、リビングで忙しそうに働く理奈の姿が目に入る。

彼女は明るい色や個性的なデザインのルームウェアを着ていて、その存在感は抜群だ。

時にはカーペットの上で資料を整理し、時には完成前の展示ボードのまわりをぐるぐる歩き回る。まるで動くカラフルなアクセントが、司の視界の端でひらひらと揺れていた。


司には、なぜ単調な事務作業や手作業でも、理奈がこんなに楽しそうに、元気な笑顔で取り組めるのか不思議だった。


契約書のチェックを終え、疲れた目元を指でほぐしながら、自然とまたリビングへと視線を向けた。


理奈がリモコンを手に取り、テレビをつける。映像と音が流れ出すが、彼女は一瞬も画面を見ずに、再び手元の作業へ没頭する。


司「……」

これもまた、彼にはよく分からないことだった。なぜか理奈は、見ていないのにテレビを必ずつけるのだ。



リビングのテーブル脇で、理奈はパンフレットを折っていた。

ふいに視線を感じ、顔を上げると、ちょうど司がまたこちらを見ていた。


理奈「?」


これで今夜五回目だ。

一体、何を見ているのだろう?

まさか自分じゃないよね……?


疑問が浮かぶ間もなく、司はさっと視線を外した。


理奈「??」


その時、テレビから名台詞が流れてきた。

「お互い好きに呼び合えばいいじゃない。私はあんたを兄貴と呼ぶし、あんたは私を親父と呼べばいい」


「ぷっ――」理奈は思わず吹き出してしまい、肩を震わせながら目に涙を浮かべた。

何度も見た古いネタなのに、やっぱり笑ってしまう。


ちょうどその時、司が六回目の視線をこちらに向けてきた。

理奈はそれに気づき、数秒考えてから、テレビと司の無表情な顔を見比べ……ふと、ひらめいた!


そうか、司は自分を見ていたのではなく、実はテレビを気にしていたのだ。

忙しい残業の合間、せめてテレビの音をBGM代わりにしたいのだろう。


理奈はすぐにリモコンを取り、「ピッピッ」と音量を少し上げた。

これなら書斎にも、かすかに音が届くはず。


一連の動作を終え、理奈は「すべてお見通しですよ」とでも言いたげな得意げな笑みで司を見て、大きく「OK」サインを送った。


「大丈夫、分かってるよ」

そんな目で、まるで自分の気配りに感動しているようだった。


仕事で疲れきった夫のため、彼のささやかな「娯楽ニーズ」まできちんと察知してあげる自分は、最高の妻に違いない――理奈は心の中でひそかに思った。


書斎の司は、理奈の仕草と表情を見て、少し戸惑いを見せたが、すぐにまた仕事に意識を戻した。



番組説明会の前日、理奈は同僚と一緒に、準備した道具を会場に運び込んでいた。

荷物を運び終えて腰を伸ばしたその時、今は一番会いたくなかった相手の声が耳に飛び込んできた。


「理奈? 本当に理奈じゃない!」

香取美姫が嬉しそうに、でもどこか不満げな様子で駆け寄り、腕を絡ませてくる。

「今日会えたらいいなって思ってたの! LINE消しちゃった?電話も繋がらなくて、話したいことたくさんあるのに」


理奈は少し驚きつつも、さりげなく腕を引き抜いた。「どうしてここに?」


この会場は局が三日間貸し切っているはずで、普通は関係者しか入れない。


理奈が考えていると、説明会の責任者である田中ディレクターがやってきた。


「ああ、理奈、ちょうどよかった。こちらは藤原グループ秘書課の香取さん。明日の本番に向けて、事前に会場と流れを確認しに来てくれたんだ。理奈、案内してくれる?」


理奈「?」 一瞬、状況が飲み込めなかった。


田中ディレクターは理奈の戸惑いに気づき、説明を続けた。

「知らなかった? 明日は藤原グループの社長、藤原さんが直々に説明会にいらっしゃるんだよ!局長が何とか頼み込んで、ようやくOKしてもらった大物ゲストでね。滞在は三十分だけど、絶対に失敗は許されない。だから秘書課から香取さんが先に下見に来てくれたってわけ」


理奈は突然の情報に頭を整理した。


番組説明会は、新企画を投資家にアピールするための場で、例年もそれなりに著名人は招かれるが、今年は藤原司が来るというのか?

藤原グループはエンタメ分野への投資に慎重で、多くのメディアや放送局がなかなか門を叩けない存在。なのに、今回は社長自ら来場!?


仕事人間の理奈は瞬時に個人的な感情を脇に置き、目を輝かせた――

藤原司の登場は、間違いなく全スポンサーの注目を集める。この一年間準備してきた自分たちの企画にとって、これ以上ないチャンスだ。


一方、香取美姫は理奈の驚きぶりを見て、内心で冷笑していた。

やはり、理奈は藤原さんの予定をまったく知らないし、二人の関係も冷えたままだ。

これなら、今まで気にしていたことも吹き飛ぶ。


香取は探りを入れるのをやめ、ビジネスライクな笑顔を見せた。

「理奈さん、ご案内お願いします」


「うん、こちらです」

理奈は気持ちを切り替え、香取に会場の入り口やVIP席、控室などを淡々と説明した。


香取は理奈の距離感を察し、それ以上は話しかけなかった。


「これで大丈夫です。明日はよろしくお願いします」

簡単な挨拶を交わし、二人はそれぞれ別の方向へ歩き出した。


理奈の背中を見送りながら、香取は腕を組み、口元にわずかな笑みを浮かべる。

理奈がなぜ自分を避けるのかはわからないが、藤原さんとの関係がぎくしゃくしていると知れただけで満足だった。


今回の説明会に立候補して来たのは、もちろん理奈に会うためだけじゃない。

明日こそは、絶好のチャンスをものにするつもりだ。


藤原さんに自分の存在を印象づけるために。

しっかりと着飾って、忘れられない一瞬を残してみせる。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?