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第12話 話し療法は彼女の得意分野

実家から戻った後、藤原理奈は三日間も一つのことを考え続けていた――

藤原司の場面緘黙症についてだ。


彼女は、もしかしたら自分にもできることがあるのではないかと、だんだん確信を持つようになってきた。


理由は単純明快だ。

もし司が声を出して話せるようになったら、それは理奈にとっても大きな喜びだ。

二人の距離が縮まるのは焦ってもうまくいかないけれど、やはりコミュニケーションは、筆談よりも会話の方がずっと楽だ。


数日前、理奈は父が揚げてくれた天ぷらを家に持ち帰った。その時、竹内から思いがけず、司が魚を全く食べないと聞かされた。


だから、全部自分で食べるつもりでいたのに――

なんと司が、静かに自分の皿に魚を一切れ乗せたのを目撃したのだ。


あの“氷の人”が、魚を食べるなんて?


この無言の“気遣い”に、理奈は思わず心が躍るのを感じた。

ほんの小さな変化だけれど、その瞬間、二人の間にあった見えない氷の壁が、そっと溶け始めている気がした。


関係が少しでも前向きに進んでいる今、彼女はこの流れを逃したくなかった。


調べてみると、場面緘黙症の回復には、身近な人の根気強いサポートが不可欠だと知った。心を閉ざしてしまった壁を、ゆっくり壊していく手助けが必要だと。


――これは、私の得意分野じゃない?


理奈は、誰かの心を開かせる“話し療法”が一番得意なのだ。


* * *


土曜の午後、部屋には柔らかな光が差し込んでいた。


司はジムでのトレーニングを終え、シャワーを浴びて、体にまだ水気を残したままリビングに現れた。水を飲もうとキッチンへ向かう途中――


ふわふわのスリッパを履いた理奈が、軽やかな足取りで彼のもとに駆け寄る。


「ちょっといい? 話したいことがあるの」

そう言って、彼の前に立ち、顔を見上げた。


司は歩みを止め、理奈を見下ろす。


春先の午後の日差しがリビングの大きな窓から差し込み、理奈の白い頬にやわらかな金色の光をまとわせている。ふんわりとした巻き髪の先や、自然に上がった赤い唇が、どこか期待に満ちて見えた。


その生き生きとした雰囲気が、まるであたたかい空気の流れのように司のもとへと届いてきた。


司は喉を小さく鳴らし、視線を少しだけ外すと、ソファの方を顎で示した。


二人は並んでソファに腰を下ろす。


なぜだか、司の無表情で圧の強い顔を前にすると、理奈はいつも無意識に背筋を伸ばしてしまう。両手を膝の上にきちんと揃え、まるで真面目に授業を聞く小学生みたいに、視線を司にしっかり向けていた。


「ねえ」と理奈は軽く咳払いして、単刀直入に切り出した。「竹内先生って、毎月あなたの治療に来てるんだよね――」


その言葉を遮るように、ちょうどリビングを通りかかった竹内が、思わず激しく咳き込んだ。


竹内は決して盗み聞きしようとしたわけではない。ただ、この話題があまりにもデリケートすぎて、つい反応してしまっただけだ。

藤原家で働く者なら誰でも、司の治療中はあえて近づかないのが暗黙のルールだ。明確な禁止ではないが、皆が自然と気を遣っている。


それなのに――理奈は、いつも他の人が踏み込まないような場所に、真っ直ぐに飛び込んできてしまうのだ。


けれど、理奈は咳など全く気にした様子もなく、真っすぐ司を見つめて言った。

「――今度、竹内先生が来るとき、私も一緒にいてもいい?」


少し間を置き、理奈は真剣な声で続けた。

「調べてみたんだけど、場面緘黙症の治療には家族の協力がすごく大事なんだって。今、私たち一緒に住んでるし、私も…家族、みたいなものかなって」


理奈は唇を引き締め、まるで何かを約束するような強い目で司を見つめた。

「だから、私にも手伝わせて? 絶対、力になるから」


リビングには静けさが流れ、陽の光だけが穏やかに二人を包んでいた。


理奈の陶器のような肌は光に透けるほどきめ細かく、澄んだ瞳にはまっすぐな想いが浮かんでいる。


司は黒曜石のような深い瞳でじっと理奈を見つめ、その視線はどこか人を見透かすような鋭さを持っていた。


ぽたり――

まだ濡れている司の髪先から、一粒の水滴が床に落ちて小さな音が響く。

シャワー上がりの彼は、少し濡れた前髪が額に張り付き、襟元もわずかに湿っていた。その姿は普段よりもどこか柔らかく、穏やかな雰囲気をまとっている。


理奈は一瞬、テレビで見る財閥のカリスマ社長を思い起こした。普段の完璧なエリート姿と、今ここにいる司のリラックスした様子は、どこか不思議なギャップを生んでいる。


だがその感情もすぐに消え、彼の冷静で沈着な表情に触れると、またあの独特の緊張感が戻ってくるのだった。


一方、そばで固まっている竹内は、陽だまりの中で堂々と話す理奈を見て内心驚きを隠せなかった。

――この人、本当に肝が据わってる……!


同じ言葉でも、受け取る人によって心の中に生まれる波紋は全く違ってくる。


司の心の中で、「家族」という言葉がはっきりと切り出され、何度も反芻されていた。


血のつながりで言えば、彼にとっての家族は祖父と二人の弟だけだ。祖父は尊敬の対象で、弟たちは守るべき存在。

でも、“寄り添う”ような家族関係は、彼には遠い存在だった。


胸の奥のどこかが、ふと柔らかいものでそっと触れられたような、なんとも言えない違和感と戸惑いが広がっていく。


長い沈黙のあと、司は黙って視線を落とし、テーブルの上のメモ帳とペンを手に取った。


「いいよ。その日、君が家にいるなら、一緒に」


しっかりとした文字でそう書かれていた。


治療そのものは、もともと使用人に隠しているわけでもない。彼女にも隠す理由はなかった。


「やった!」理奈は思わず目を輝かせ、嬉しさを隠せずに言った。「絶対教えてね! ちゃんと家で待ってるから!」


理奈は何秒も彼を見つめ、口元がどんどんほころんでいく。


突然、彼女は右手の小指を司に差し出した。


司は一瞬戸惑いの色を浮かべて理奈の手を見る。


その間もなく、理奈は彼の手を素早くつかみ、小指を絡めて“ゆびきりげんまん”の動作を勢いよく済ませた。


「約束だよ!」と笑顔で宣言する。


司は思わず背筋をこわばらせる。

彼女の柔らかな指先が自分の掌を包み込む感覚が、妙に鮮明に残った。


理奈はそんな彼の変化に気づかず、満足そうに笑っていた。


…が、数秒後、理奈の表情がぴたりと止まる。


あれ、今の“ゆびきりげんまん”って、もしかして子どもっぽすぎた? 恥ずかしいかも…。

まるで小学生みたいじゃん!


でも…司の指は長くて、ごつごつしてるのに、手のひらは意外とあったかい…。


そんな考えが頭をよぎり、つい口元がまた緩んでしまう。


が、次の瞬間、その笑みがぱたりと凍りついた。


まさか、自分がにやにやしたり、ぼんやりしてるのを見られて――

変な人って思われてないよね…?


理奈:「……」


言葉にできない気まずさが、一気に押し寄せてきた。

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