リビングで遠い親戚たちの世間話に付き合うのは、藤原理奈にとってひどく疲れることだった。ずっと気を張っていた彼女は、ようやく森原健太郎が夕食の準備のためにキッチンへ立ったのを見て、ほっと息を吐こうとしたその瞬間、森原月音に奥の部屋へと呼び込まれた。
ドアが軽く閉まり、リビングの騒がしさが遠ざかる。
月音は娘の手を取り、探るような視線を向けた。
「理奈、正直に言って。今日急に帰ってきたの、何かあったんじゃない?もしかして……司さんとケンカでもしたの?」
「えっ?」理奈は思わず目を丸くした。そんなふうに思われるとは予想していなかった。
月音はますます娘の様子がいつもと違うと感じているらしい。普段は人当たりがよく、いつも笑顔の理奈が、今日はどこか刺々しい。理奈の性格からして、理由もなくそんな態度をとるはずがない。考えれば考えるほど、やはり藤原家で何かあったのではと疑ってしまう。
「本当に何もないよ。」理奈は慌てて首を横に振り、優しく微笑んだ。「私たち、うまくやってるよ。」ここ数日は特に、関係もずいぶん良くなってきている。
月音は半信半疑のまま、「本当?」と問い返す。
「本当だよ!大丈夫。」理奈は自信をもって答えた。「それに、もしケンカしようと思っても、私たち、ケンカにならないよ。」
その言葉は安心させるつもりで言ったのに、月音の表情は急に曇った。
しばらく黙り込んだ後、月音はさらに声を落として、不安を隠せない様子で言った。
「そのことで、理奈にも聞きたいんだけど……司さんの、あの喋らない病気、沈黙症っていうんでしょ?あれって…治るの?」
藤原司の沈黙症は、治るのだろうか?
その問いは、まるで一石を投じたように理奈の心に波紋を広げた。
あの短いながらも鮮明な予知夢の中で、司の沈黙症についてはほんの断片しかなかった。
彼が生まれつきではなく、後天的な心の問題による選択的沈黙だということしか、ぼんやりとしか分からない。
なぜそうなったのか、最終的に話せるようになるのか――
夢の中には答えはなかった。
理奈はしばし黙り込んだ。
沈黙症――
つまり、発声器官自体には問題がないけれど、何らかの精神的な理由で言葉を閉ざしている状態。
もしその原因を突き止めて、心の奥底にある不安や葛藤を解きほぐすことができれば、適切な治療で話せるようになる可能性はある。
理奈は真剣な表情で、「希望はあるよ。きっと治るはず」と答えた。
月音はその言葉に大きく息をつき、肩の力を抜いた。「そう……希望があるなら、それだけで十分。」
母娘の会話を終えてリビングに戻ると、おばさんやおばの夫たちが煎餅をつまみながらテレビを見ていた。
画面では経済番組が流れており、今年の有名企業とその経営者を紹介している。
一瞬、藤原財閥の名前が画面に映し出された。
理奈の視線は思わずそこに引き寄せられる。
画面には、見慣れたシルエットが記者のカメラに捉えられていた。
司は端正なスーツに身を包み、すらりとした体型が際立っている。
きりっとした眉、クールな横顔、腕時計のメタルバンドが光を反射し、その白い肌をさらに際立たせていた。
彼は先頭を歩き、後ろには部下やアシスタントが従い、圧倒的な存在感を放っている。
理奈は、司が財閥のトップとしてテレビに映るのを初めて見た。
同じ顔なのに、家で見るときよりもずっと冷たく、鋭く見えて、思わず息を飲んだ。
「ふん。」おばの夫が理奈の真剣な表情に気づき、鼻で笑った。
「理奈が今まで独身だった理由、なんとなく分かったよ。」
おばさんが興味津々で、「どうして?」と聞く。
「目が高すぎるんだよ!」おばの夫はからかうように言った。「見てみな、テレビの大企業の社長に釘付けになって、まるで他の男なんて目に入らないじゃないか。そんな高望みしてたら、普通の男なんて相手にしないだろう。」
さらに得意げな顔で説教を始める。「理奈、いいか、若い人は地に足をつけなきゃな。うちの杏樹を見てみろ。彼氏は年収一千万以上だぞ――」
ちらりとテレビ画面を見て鼻で笑い、
「――まあ、あっちの社長連中にも負けてないさ。」
おばさんが感心したように声を上げる。「へえ!杏樹の彼氏、そんなにすごいの?」
「当たり前だろう!」とおばの夫は得意満面。
このやりとりに、理奈は思わず吹き出しそうになった。
何か言い返そうとしたその時、隣で月音が冷ややかに口を開いた。
「知ったかぶりはやめなさい。全然違うわよ。」
おばの夫が振り返る。「え?」
月音は顔も上げず、淡々と、しかししっかりとした口調で言い放った。
「上場企業の幹部なら、年収なんてその何倍もあるわよ。まして社長なら、比べるまでもない。」
「ふん……」おばの夫は納得いかない様子で、「まるで自分が詳しいみたいに言うなよ?」と返す。
「私が知ったかぶりするタイプに見える?」月音はようやく顔を上げ、皮肉っぽく笑った。「ネットで調べればすぐ分かることよ。わざわざ隠す必要もないし。」
実際、娘の縁談の話を聞いたとき、月音は藤原財閥について調べたことがあった。
中身は多くは公開されていなかったが、噂される財産の規模は想像を超えていた。
「でも、それが重要じゃないんだ。」おばの夫はバツが悪そうに、話題をそらそうとした。「大金持ちだろうと、うちらには関係ないだろ?ああいう人たちが君んとこの娘を相手にするはずないし。俺は理奈のためを思って言ってるんだ、高望みはやめたほうがいいって――」
「娘のことは、私がちゃんと見てるから余計なお世話よ。」月音はきっぱりと遮り、きっぱりと言い放った。「理奈はしっかりしていて親孝行だし、性格も顔もいい。どんな家でも釣り合うわ!」
おばの夫は言い返せず、悔しそうにリモコンでチャンネルを変えた。
「はいはい、もういいよ。女には敵わないな。」
月音は健太郎のようにお人好しではない。言い争いでは最後の一言を必ず取らないと気が済まない。
彼女はおばの夫をちらりと睨み、「分かったなら余計なことは言わないで」と締めくくった。
おばの夫は目を見開いたまま、しばらく黙り込み、ため息をついて完全に撃沈した。
月音の強さを、ようやく思い知ったようだった。
理奈はそれを見て、思わず笑いをこらえた。
さすがはお母さん!一言でおばの夫を黙らせるなんて、圧倒的な強さだ。
この一件の後、リビングの空気はどこか気まずくなり、さっきまで賑やかだった親戚たちも静かにテレビを眺めながら、たまにぽつりぽつりと話すだけになった。
理奈は退屈を感じ、キッチンへ向かった。健太郎の手伝いをしようと思ったのだ。
キッチンに入ると、健太郎は小魚を油に入れて揚げていた。
「お父さん、たくさん揚げて。」理奈が近寄る。
「おや?そんなに食べたいのか?」健太郎は得意げな顔をする。「外の店なんかより、俺の腕のほうがうまいからな。」
「それはもちろん!」理奈はニッコリ。「だからたくさん作って。司にも持って帰りたいんだ、お父さんの味を食べさせてあげたい。」
「……」健太郎は手を止めて、わざと怒ったふりをした。「なんだ、結局あいつのためか!自分が食べたいのかと思ったのに。」
理奈はふざけて、「私も食べたいよ~。お父さんの料理が一番だもん!」
健太郎は笑いながら、「口だけはうまいな!」と軽く叱る。
「お褒めいただき光栄です、全部お父さんの遺伝だよ!」
そんなやりとりをしながらも、健太郎は冷蔵庫から残りの小魚を全部出してきた。
……
夕食時、理奈はご飯を急いでかきこんで、早めに席を立った。
できれば、従姉妹の白鳥杏樹に会いたくなかった。
前に焼肉店で偶然会った時の、あの馴れ馴れしさや気取った態度を思い出すだけで、今でも落ち着かない気持ちになる。
帰る前に、理奈は月音を呼び止め、声をひそめて念を押した。
「お母さん、絶対に!ちゃんと見張ってて、あの人に余計なこと言わせないでね!」
月音は「任せておきなさい」とばかりに、力強くうなずいた。
マンションの入口を出ると、すっかり夜になっていた。
大きな木の下に停まっていた車のそばでは、運転手が彼女を見つけてすぐさまドアを開け、丁寧に頭を下げた。
「奥様、どうぞお乗りください。」
「しっ!」理奈は帽子のつばを下げ、あたりを警戒しながら小声で言った。「声を抑えて!」
そう言うが早いか、素早く車に乗り込む。
運転手はきょとんとした。
車は静かに発進し、夜の街へと溶け込んでいく。
ちょうどその頃、反対車線を新しいレクサスがマンションへと向かっていた。
運転席の杏樹は、すれ違った高級車を一目見て、目を見開いた。
「うそでしょ!あんな車、うちのマンションに来るなんて……?」と驚きの声を漏らす。
助手席の母親も目を凝らす。「何の車?見たことないマークだね。レクサスより高いの?」
「ずっと上だよ……」杏樹は感嘆を隠せず、「あのブランド、雑誌でしか見たことない……」
彼女は思わず、中に乗っている人を確認しようとした。
狭い道ですれ違いざま、ほんの一瞬だけ車内が見えた。
「あっ――」
母親が思わず声を上げ、遠ざかる車を指差す。「今の車の中、あれ……理奈に見えなかった?」
杏樹は驚いて、「え?」
藤原理奈?
まさか、あんな車に乗れるわけない。あの子は古い電動自転車しか持っていなかったはず。
杏樹は急いで確かめようとしたが、見えたのは帽子をかぶった女性のぼんやりした横顔だけ。
ふわりとした巻き髪に、顔は影になってよく分からない。
しばし沈黙が流れ、杏樹は首を振った。
「そんなはずないよ、お母さんの見間違いだよ。」