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第10話 でたらめを言うなんて、さすがです

二号棟三階――。


カチャリとドアの鍵が回る音がして、すぐさま中からドアが開かれた。

年季の入った顔に柔らかな笑みを浮かべた森原健太郎が、玄関先に立つ娘の姿を見て、驚きと喜びが一気に顔に広がる。


「理奈!?帰るなら一言くらい連絡してくれよ!」


声は大きく、嬉しさを隠しきれない。


キッチンから森原月音も顔を出し、驚きの声を上げる。「本当に理奈なの?」


「びっくりさせたくてさ。」


藤原理奈は明るい笑顔で、両手に下げた重そうな紙袋をひらひらと見せた。


だが、森原健太郎の顔から一瞬にして笑みが消え、眉間にしわが寄る。「実家に帰るのに、なんで手土産なんか買ってくるんだ?余計な気を遣って、まるでお客さんみたいじゃないか。」


理奈はすぐに口を尖らせて母親のほうを向く。「お母さん、見てよ。お父さん、また私に厳しいんだから。」


月音は近づき、夫をじろりと睨む。「娘が帰ってきたばかりなのに、そんな顔するなんて。声だけは大きいんだから。」


「……」


健太郎はすぐにしゅんとなり、気まずそうに理奈から袋を受け取ると、何も言わずに片付けに向かった。


理奈はその隙に母親の腕を組み、甘えるように頬をすり寄せる。「お母さん、会いたかった~」


そして、父親の背中にもひと言忘れずに。「……もちろん、お父さんの料理も楽しみだよ。特に天ぷら!」


健太郎は少しだけ口元が緩んだが、すぐにため息に変わった。「……」


娘のこととなれば、もう何も言えない。可愛くて仕方がないのだ。


理奈は大学を卒業してから放送局の近くで一人暮らしを始め、実家に帰るのは年末年始や特別な時だけ。

帰ってくるたび、まるで時間が巻き戻ったかのように、いつまでも子どものままだった。


今回も同じで、母親には肌に合うスキンケア一式、父親には肝臓サプリとフィッシュオイルをお土産にしている。

自分の普段の生活ではコンビニの缶コーヒーで済ませたり、デリバリーは必ず比較して選んだりするのに、両親のためなら出費を惜しまない。高いものでも迷わず買う。


母娘はリビングのソファでおしゃべりし、健太郎はキッチンでフルーツを洗って切っていた。

丁度、切ったオレンジを持ってきたその時、妻はまたいつもの話を始めていた。


月音は理奈の手を優しく包み、諭すように言う。「あんな家にお嫁に行ったんだから、何事も控えめにして、目立たないようにね。いらぬトラブルを呼ばないように。」


「でもさ、昔の言葉にもあるだろ――」


健太郎はフルーツをテーブルに置きながら、笑い混じりで口を挟んだ。「故郷に錦を飾る、ってな!」


月音:「……」

理奈:「……」


健太郎は続ける。「理奈はちゃんと結婚して嫁いだんだぞ。別にこっちから無理に縁を作ったわけじゃないし、隠す必要なんてないじゃないか。」


月音は眉をひそめる。「あんたは分かってないわね、また余計なこと言って……」心の中には不安があった。

最初は気にしていなかったが、夫が親戚筋に何かと世話を焼くのを見て、警戒心が芽生えた。

娘が大きな家に嫁いだと知れたら、あの親戚たちは間違いなく頼ってくる。借金やコネのお願いごとが押し寄せて、理奈に迷惑をかけることになる。


「はいはい、俺が悪かったよ。」健太郎は両手を挙げて降参のポーズ。「じゃあ、せめて美味しいものでも作ってやるよ、それでいいだろ?」


月音はようやく笑顔になった。「それでこそ。」


両親のやり取りを見て、理奈は笑いながらオレンジを口に運ぶ。

母の心配も、父の優しさも、理奈にはよく分かっている。


ふと壁の時計に目をやると、13時45分。

例年通りなら、そろそろだ。


「ピンポーン――」


突然ドアベルが鳴る。両親は誰だろうと不思議そうだが、理奈はすぐに立ち上がって玄関へ向かった。


「健太郎さん、今夜一杯どう?」ドアの外から聞こえた声はおばの夫だったが、開けたのが理奈と分かると驚いたように声を上げた。「あら、理奈ちゃん帰ってたの?」


理奈はすぐに完璧な笑顔で応じる。

おばの夫の後ろには、マンションで偶然会った二人のおばたちもいて、ぞろぞろと家に上がってきた。


こういう親戚が集まる場面で、理奈はこれまで何かと理由をつけて自室に引っ込んだり、外に出て気を紛らわしていた。

だが、今日は違う。

三時間近く、ソファに座り続け、まるで英語のリスニング試験でも受けているかのように集中して、親戚たちのおしゃべりに耳を傾けていた。


若い子がいると、どうしても話題はその子に向く。


おばが理奈をじろじろ見て、「理奈ちゃん、ますます綺麗になったね。放送局の仕事は順調?疲れてない?」と尋ねる。


「まあ、慣れましたよ。」理奈は淡々と答える。


おばは目を細めて、「そういえば、そっちの給料下がってない?最近どこも不景気で、給与カットの話ばかり聞くけど、放送局も大変なんじゃないの?」


理奈はフォークでオレンジを刺し、落ち着いた口調で答える。「下がってませんよ、むしろ少しだけ上がりました。」


オレンジを飲み込み、おばを見て無邪気な表情で続ける。「もしかしたら……おばさんの年金より、ちょっとだけ増えたかも?」


一瞬でおばの笑顔が固まる。「え、ええ……」


おばの夫が慌てて話を変える。「理奈ちゃん、うちの杏樹と同い年だったよね?二十五歳だっけ?」


「はい。」理奈は淡々と返す。


「それで、まだ彼氏いないの?紹介しようか?うちの職場にいい人がいてね。ちょっと前に離婚したばかりだけど、誠実で本当にいい子なんだよ!」


健太郎はその言葉に眉を吊り上げ、怒りが込み上げてくる――

娘はもう結婚しているのに、なぜわざわざバツイチを紹介する必要が?


口を開きかけたその時、テーブルの下で足首をコツンと蹴られた。

見ると、理奈が警告するような目でじっと父を見て、口元に「シーッ」のジェスチャー。


「……」健太郎は言いかけた言葉をぐっと飲み込み、じろりとおばの夫を睨むしかなかった。


「結構です。」理奈は軽やかに、少し残念そうな顔をして、「そんなにいい条件なら、表の杏樹にぜひどうぞ。」


「いやいや、杏樹はもう心配いらないのよ――」

おばの夫は待ってましたとばかりに声を張り上げる。「杏樹のダーリンは本当に優しくてね!三宅一生のバッグに新車まで……幸せなんだから。」


「大丈夫ですよ。」理奈は目を細めて、あくまで親切そうな口調で、「じゃあ、ぜひ表にキープしておいてください。もし……まあ、もしもの話ですけど、表に何かあった時は“すぐ乗り換え”できますし。」


無邪気な顔で放たれたその言葉は、一見親切そうで実は痛烈な皮肉。

おばの夫は一瞬で顔を引きつらせ、「理奈ちゃん、相変わらず遠慮がないね、冗談が好きだなあ」とごまかす。


体裁を保とうと、すぐスマートフォンを取り出して、「杏樹に電話するよ。あとで迎えに来てもらって、新車のレクサスに乗せてあげよう。理奈ちゃんも自分で稼ぐようになったら、いい車に乗ればいいんだよ。」


理奈は慌てて手を振る。「そんな、表に迷惑かけたくないですし、私は――」


おばの夫は理奈の言葉を聞かず、もう電話をかけていた。「杏樹?今どこ?……買い物終わったら二号棟に寄って、理奈を送ってやってくれ。理奈が新車を見たがってるんだって……」


理奈:「???」


そんなこと、一言も言ってないのに!

まったく、よくもまあ、こんなに堂々と話を作れるものだ。

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