藤原司は静かに息を吐き、ネクタイを緩めてソファに腰を下ろした。
彼はいつものように、持ち歩いている濃い茶色のレザーノートを手に取る。
形式上とはいえ、妻としての問いかけには最低限の礼儀を返すべきだ。
長い沈黙は、彼のやり方ではない。
「仕事が忙しくて、バラエティ番組を見る時間はない。」と簡潔に書き記す。
理奈は彼の手元を覗き込み、その文字を読んで納得したように言った。「あ、そうだった。私とご飯食べる時間もないくらい忙しいんだもんね。」
司は特に表情を変えず、ゆっくりとお茶を口にした。
理奈は一瞬遅れて、その言い方がまるで不満を言っているかのように聞こえたことに気付き、慌てて付け加えた。
「誤解しないでね!そんな意味じゃないの。本当に忙しいのは当たり前だし、私だって放送局で新しい番組が始まったばかりで、毎日バタバタしてるんだから……」
彼女は乾いた笑いを浮かべた。
少しでも自分の印象を悪くするような誤解は、即座に消しておきたい。
「嫌われ者」なんてレッテルを貼られるのは、もう二度とごめんだ。
「……」
司はカップをテーブルに置き、じっと理奈を見つめた。その視線は、何かを探るような冷静さがあった。
「明日の晩ご飯、家で食べる?」理奈が話題を変える。
司は無意識に首を横に振りそうになったが、少し間を置いてからノートに書いた。
「会食がある。帰らない。」
ちょうど良かった、と理奈も思った。
彼女も明日は大事な用事があり、もし彼が家にいるなら、予定を調整して一緒に夕食を取る機会を作らなければならなかった。
これで余計な手間が省けた。
だが、表向きは残念そうな表情を浮かべる。
「そっか……了解。ちょうど私も明日は実家でご飯食べるから。後で竹内さんに、夕飯はいらないって伝えておくね。」
内心、理奈は自分の「妻」としての振る舞いに満足していた——気遣いもできて、文句も言わず、完璧じゃないか!
夫の不在にも文句一つ言わず、最後に気を利かせて「会食でもお酒は控えめにね。体に悪いから」と付け加える。
会話のコツは、心得ている。
司:「……」
そんな自分に密かに満足していた理奈だったが、ふと司がまたノートに何かを書き、そっと彼女の方に差し出してきた。
「一緒に実家へ行こうか?」
「え?」
目を疑った。
この氷のような顔から、こんな言葉が出てくるなんて。
もう一度、力強く書かれた文字を見直す。
確かに間違いない。
驚きから覚めきらないまま顔を上げると、司と目が合った。
その深い瞳は、静かで何の感情も読み取れない。まるで当たり前のことを聞いているかのようだった。
……
司の中では、何をすべきで何をすべきでないか、線引きがはっきりしている。
仮面夫婦として、必要なことはきちんとこなす。
妻が実家に行くと聞けば、同行するか尋ねるのは当然の礼儀だ。
特に、理奈が「お酒は控えめに」と気遣ってくれたばかりだったから、名目上の夫としては、こうして返すのが普通だと考えていた。
一気に空気が変わった。
今度は理奈が言葉に詰まる番だった。
沈黙がしばし続く。
実は理奈が実家に行くのは大事な理由があった。
以前見た予知夢の中で、ちょうど明日、父が親戚たちのしつこい質問に根負けし、ついに「娘は結婚している」と口を滑らせてしまう。
しかも相手は藤原財閥のトップだと。
その後、遠い親戚が押しかけてきて、藤原財閥に自分の子どもをコネで入れてほしいと頼んでくる。
夢の中の「自分」はすっかり舞い上がり、いい気になって大見得を切る。「藤原司と結婚したから、もう藤原財閥の半分は自分のもの。人を一人入れるくらい、彼に相談するまでもない」とまで豪語していた。
思い出すだけで頭が痛い。
どんなに自信過剰なら、そんなことが言えるのか。
この火種は、今のうちに消しておかないと。
だから明日は実家に行くのだ。
できれば司には知られたくない。
こっそり片付けて、余計な問題は増やしたくない。
「大丈夫、一緒じゃなくていいよ。」
理奈は言葉を選びながら説明した。
「特別な日じゃないし、ちょっと両親に買った物を届けて、一緒にご飯を食べるだけなの。」
そう言いながら、司の表情をうかがう。
彼は相変わらず感情を見せず、静かにうなずいただけだった。
その冷静な顔に、驚きや残念そうなそぶりは全くない。さっきの問いかけは、ただの社交辞令だったかのようだ。
理奈は密かにほっとした。
これくらいなら、彼も気を悪くしないだろう。
それに、彼の方から声をかけてくれたのだから、少しは関係が前進しているはず。
これで二人の関係にも、小さな進展があったと言えるのではないか。
やがて、未来には二人で煎餅をつまみながら、ドラマを見る日が訪れるかもしれない――そんなささやかな妄想まで浮かんできた。
だがその時、司はまたペンを取り、数行書いてノートをこちらに差し出した。
「了解。運転手に送り迎えを手配する。」
理奈はまた固まった。
明日は、あの遠い親戚や、苦手な従姉の白鳥杏樹一家も両親のマンションに集まる日だ。
もし高級車で送り迎えされたら、ますます説明がややこしくなる。
「大丈夫」と言いかけたが、結局飲み込んだ。
この短い時間に、司の申し出を二度も断るのはさすがに気が引ける。
せっかく少し距離が縮まりそうな空気なのに、冷たくあしらうのもどうかと思った。
「うん、ありがとう〜」理奈は明るく返し、お礼のつもりで付け加えた。「帰ったら、父が揚げてくれた天ぷらを持ってくるね。すごく美味しいから!」
司は黙っていた。
本当は「いらない」と言いたかった。彼は魚料理が大の苦手だ。
面倒だ、とも思う。
いちいち自分の好みを説明したり、食事のことを伝えたりするのは、彼にとって余計な手間だった。
***
翌日午後。
理奈は放送局に半日だけ休みを取った。
昼過ぎ、運転手が放送局の前で車を止める。
同僚に見つからないよう素早く乗り込むと、運転手が丁寧に尋ねた。
「奥様、どちらに向かいましょうか?」
理奈は帽子のつばを下げ、まるでスパイのようにささやいた。
「桜台住宅街まで。」
***
同じ頃、桜台住宅街。
新しいレクサスが古びた団地の道をゆっくり走っていた。
白鳥杏樹は運転席で得意げに母に言った。
「ねえ、お母さん、これダーリンが買ってくれたの。どう?」
「立派じゃない!さすが私の娘、見る目があるね。あんたは小さい頃から男を見る目が違った。私なんて、お父さんと一緒になってからずっとこの古い団地暮らしよ。」
杏樹は満足げに顎を上げた。彼氏を口説き続けて、やっと手に入れた新車だ。
「さすがうちの子!」と母が褒めると、突然話題を変えた。
「藤原理奈なんて、あんたの従妹だけど、比べものにならないわよ。学生時代はモテても、今じゃ独り身でしょ?もうすぐ三十路だし、誰も相手にしないわよ。」
白鳥家と森原家は団地の敷地を挟んで隣同士だ。
杏樹の母と理奈の母・森原月音は、顔を合わせれば張り合ってばかりだった。
杏樹は鼻で笑った。
「この前見かけたけど、大学時代の古いバッグをまだ持ってたよ。みっともないったらない。」
母は言う。
「顔だけ良くても頭が悪いとダメね。一生出世できないわよ。」
杏樹も続ける。
「そうそう、今の時代は見た目が大事なのよ。」
母はため息混じりに言った。
「娘は母親に似るっていうけど、理奈の母親も私ほど幸運じゃないし、こんな良い車に一生乗れないでしょうね。」
杏樹は小さく笑い、「ほんとだよ。理奈なんて、今でも電動自転車で通勤してるんだって。放送局の給料なら、安い車くらい買えるはずだけどね。知らない人が見たら、配達の仕事でもしてるかと思うわ。」
二人は顔を見合わせて、意地悪そうに笑った。
杏樹はアクセルを踏みながら言う。
「じゃあ、お母さん、もう少しドライブしてからスーパーに寄ろうよ。夕飯の後に戻れば、団地の人たちにこのレクサスを自慢できるし!」
それを聞いた母もすぐに窓を全開にした。
レクサスは左折して団地を出ていく。
彼女たちは気付いていなかった。
バックミラーの奥、流れるようなフォルムに真っ白な光岡オロチが、静かに桜台住宅街へと滑り込んでいたことに。