目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第8話 指先が触れた

午前中ずっと藤原理奈の胸を占めていた不安は、すっかり消え去った。

やっぱり、考え過ぎだったんだ。

藤原司は彼女を避けるどころか、LINEのタイムラインに“いいね”まで押してくれた。

これは間違いなく、好意的なリアクション!

ここ数日、慎重にアプローチしてきた甲斐があったってことだ。

この流れを逃すわけにはいかない、もっと頑張らなくちゃ!


理奈は指先で顎をトントンと叩きながら、記憶を辿る。

あんなにたくさん投稿したのに、司が“いいね”を押したのはなぜかその一つだけ。

もしかして……彼もあのアニメが好きなの?

そう思った次の瞬間、理奈は自分で否定した。「いやいや、あの人はどう見ても経済新聞しか読まなそうだし」

でも、もしかしたら……?

逸には強気でいけるけど、司に対しては絶対にこのチャンスを逃しちゃダメ。

ひらめいた!

すぐに別のアプリを開き、コレクションしていた『名探偵コナン』の名場面動画を一気に司へ送信した。

「いいものはシェアしなさい」――これは、母の林月音から教わった人生のモットーだ。


……


「ブーン……ブーン……ブーン……」

静まり返ったオフィスに、蜂の群れのようなLINEの通知音が響く。

藤原司のデスクの前で、秘書の伊藤は緊張した面持ちで契約書へのサインを待っていた。

こんなに連続でLINEの通知が鳴るなんて、誰が藤原様にこんなことを?

藤原様は無駄な音を極端に嫌う。社内の報告も簡潔が鉄則だ。

長年仕えてきた伊藤も、私用のスマホがこんなふうに“攻撃”されるのは初めて見る。

おそるおそる視線を上げると、藤原司の眉がほんのわずかにひそめられている。

どうやら、この“情報の嵐”に、本人も少なからず困惑しているようだ。


司は無表情のままスマホを手に取り、画面を解錠する。

しばらくして、伊藤は驚きを隠せなかった。普段は氷のように冷静なその顔に、戸惑いの色が浮かんでいる。

藤原様にも理解できないことがあるのか?

伊藤は内心ひそかに驚いた。


数秒後、司はこめかみを指で押さえ、複雑な感情が一瞬だけその瞳に閃いた。


……


この時、藤原司の思考は一時停止していた。

理奈の天然パーマの頭の中、一体どんな予想外のロジックが詰まっているのだろうか――そんな疑問ばかりが浮かぶ。


夜が深まり、月が静かに光る。

夜の9時ちょうど、藤原司はスーツの上着を片手に、海辺のタワーマンションへ戻った。

玄関の鍵がカチャリと音を立てる。

理奈の耳がピンと反応した。まるで缶詰の音に反応する猫のように、元気よく玄関へ駆け出した。

映画の話で距離を縮めるチャンス、絶対に逃せない!


司は理奈よりずっと背が高い。彼女が急に近づくと、自然と見下ろす形になる。

洗いたてのセーターから柔軟剤の甘い香りがふわりと漂い、司の呼吸をくすぐる。


理奈は目を輝かせて言う。「おかえりなさい!」

「私のメッセージ、見た?」

「全部見てくれた?ねぇ、見た?」

司の目が少し細くなる。

昼間のLINEの動画リンクが頭に浮かぶ――どれも音が激しく、少し再生しただけでこめかみがズキズキした。

理奈の意図はさっぱり分からず、1つを数秒見てすぐ閉じた。

よく分からないまま、彼は軽くうなずいてみせた。


「全部見てくれたんだ!」理奈の顔がぱっと明るくなる。

やっぱり!思った通り!あの名作アニメは、世代も立場も問わず人気なんだ!


司は無言のまま。

特に説明する気もなく、ふとリビングからやってきた佐藤さんの姿が視界に入る。毎日帰宅時に外套を預かるのは彼女の役目だ。

何気なく、司は上着を手渡すために手を差し出す。


理奈は彼の正面にいたため、後ろの佐藤さんには気づいていない。

司が上着を差し出すのを見て、理奈は首をかしげる。「ん?」

これって――

私に外套を預けるってこと?

一瞬考え、理奈は納得する。

こんな簡単なことならお安い御用!この人にいい印象を持ってもらえるなら、外套10着アイロンがけしたっていい!

勢いよく手を伸ばし、「私がやるよ」と受け取った。


司の動きが一瞬止まる。

腕が宙に浮いたまま、上着の生地が指先から滑り落ちる。

その時、理奈の指先が偶然、彼の手の甲にふれた。羽根のようにやわらかく、かすかな温もり。

司の目は黒く深いまま、感情は読み取れない。


横で佐藤さんは驚いて立ち尽くしていた。

奥様が突然、自分の役目を奪ったのだ。

今まで、奥様が藤原様の上着に触れたことなんてなかったのに。

けれど、すぐに思い出す。ご主人様から「若夫婦の仲を取り持つように」と言われていたことを。

今のこの光景は、まさに理想的!

50代の佐藤さんはすぐに空気を読み、静かにメイドルームへと引っ込んだ。


司はしばし理奈を見つめ、疑問を残したまま視線を外して、部屋の奥へと歩き出した。


「あなたも好きだったなら、一緒に観に行けばよかったのに」と理奈は上着を玄関のハンガーにかけながら、軽やかに後を追う。「でも、もう一度付き合ってあげてもいいよ」

「まさか、共通の趣味があるなんて思わなかった。あなた、経済ニュースしか見ない人かと思ってた」

「ねぇ、普段は何を観てるの?他にも共通点があったりして」

「じゃあ、私から言うね」と、理奈の言葉は止まらない。「コンサートが好きで、お笑い番組もトーク番組も大好き。たまにドキュメンタリーも観るよ」

「でも、最近流行ってるあのバトル系の番組は苦手。あんなにカメラが何十台もまわってて、出演者が陰口言ったり、ドロドロしたり……考えるだけでゾッとする」

「あなたは?どんなバラエティが好き?」


話題は自然と、理奈が一番得意な分野へと移っていく。

横浜放送局のADとして、バラエティ番組のチェックや市場分析は日常茶飯事。

今どきのバラエティ事情には誰よりも詳しい。


司はワイシャツの袖をまくりながら、ゆっくりと歩く。

背後には理奈の声がBGMのように流れ続ける。

彼女のような人間にはこれまで出会ったことがない。

自分のように無口な相手にも、これほどまでに一方的に会話を続けられる人がいるのか。

朝、わざと距離をとったつもりだったのに、彼女には全く効果がなかったようだ。

むしろ――予想とは正反対の結果になっている。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?