午前中ずっと藤原理奈の胸を占めていた不安は、すっかり消え去った。
やっぱり、考え過ぎだったんだ。
藤原司は彼女を避けるどころか、LINEのタイムラインに“いいね”まで押してくれた。
これは間違いなく、好意的なリアクション!
ここ数日、慎重にアプローチしてきた甲斐があったってことだ。
この流れを逃すわけにはいかない、もっと頑張らなくちゃ!
理奈は指先で顎をトントンと叩きながら、記憶を辿る。
あんなにたくさん投稿したのに、司が“いいね”を押したのはなぜかその一つだけ。
もしかして……彼もあのアニメが好きなの?
そう思った次の瞬間、理奈は自分で否定した。「いやいや、あの人はどう見ても経済新聞しか読まなそうだし」
でも、もしかしたら……?
逸には強気でいけるけど、司に対しては絶対にこのチャンスを逃しちゃダメ。
ひらめいた!
すぐに別のアプリを開き、コレクションしていた『名探偵コナン』の名場面動画を一気に司へ送信した。
「いいものはシェアしなさい」――これは、母の林月音から教わった人生のモットーだ。
……
「ブーン……ブーン……ブーン……」
静まり返ったオフィスに、蜂の群れのようなLINEの通知音が響く。
藤原司のデスクの前で、秘書の伊藤は緊張した面持ちで契約書へのサインを待っていた。
こんなに連続でLINEの通知が鳴るなんて、誰が藤原様にこんなことを?
藤原様は無駄な音を極端に嫌う。社内の報告も簡潔が鉄則だ。
長年仕えてきた伊藤も、私用のスマホがこんなふうに“攻撃”されるのは初めて見る。
おそるおそる視線を上げると、藤原司の眉がほんのわずかにひそめられている。
どうやら、この“情報の嵐”に、本人も少なからず困惑しているようだ。
司は無表情のままスマホを手に取り、画面を解錠する。
しばらくして、伊藤は驚きを隠せなかった。普段は氷のように冷静なその顔に、戸惑いの色が浮かんでいる。
藤原様にも理解できないことがあるのか?
伊藤は内心ひそかに驚いた。
数秒後、司はこめかみを指で押さえ、複雑な感情が一瞬だけその瞳に閃いた。
……
この時、藤原司の思考は一時停止していた。
理奈の天然パーマの頭の中、一体どんな予想外のロジックが詰まっているのだろうか――そんな疑問ばかりが浮かぶ。
夜が深まり、月が静かに光る。
夜の9時ちょうど、藤原司はスーツの上着を片手に、海辺のタワーマンションへ戻った。
玄関の鍵がカチャリと音を立てる。
理奈の耳がピンと反応した。まるで缶詰の音に反応する猫のように、元気よく玄関へ駆け出した。
映画の話で距離を縮めるチャンス、絶対に逃せない!
司は理奈よりずっと背が高い。彼女が急に近づくと、自然と見下ろす形になる。
洗いたてのセーターから柔軟剤の甘い香りがふわりと漂い、司の呼吸をくすぐる。
理奈は目を輝かせて言う。「おかえりなさい!」
「私のメッセージ、見た?」
「全部見てくれた?ねぇ、見た?」
司の目が少し細くなる。
昼間のLINEの動画リンクが頭に浮かぶ――どれも音が激しく、少し再生しただけでこめかみがズキズキした。
理奈の意図はさっぱり分からず、1つを数秒見てすぐ閉じた。
よく分からないまま、彼は軽くうなずいてみせた。
「全部見てくれたんだ!」理奈の顔がぱっと明るくなる。
やっぱり!思った通り!あの名作アニメは、世代も立場も問わず人気なんだ!
司は無言のまま。
特に説明する気もなく、ふとリビングからやってきた佐藤さんの姿が視界に入る。毎日帰宅時に外套を預かるのは彼女の役目だ。
何気なく、司は上着を手渡すために手を差し出す。
理奈は彼の正面にいたため、後ろの佐藤さんには気づいていない。
司が上着を差し出すのを見て、理奈は首をかしげる。「ん?」
これって――
私に外套を預けるってこと?
一瞬考え、理奈は納得する。
こんな簡単なことならお安い御用!この人にいい印象を持ってもらえるなら、外套10着アイロンがけしたっていい!
勢いよく手を伸ばし、「私がやるよ」と受け取った。
司の動きが一瞬止まる。
腕が宙に浮いたまま、上着の生地が指先から滑り落ちる。
その時、理奈の指先が偶然、彼の手の甲にふれた。羽根のようにやわらかく、かすかな温もり。
司の目は黒く深いまま、感情は読み取れない。
横で佐藤さんは驚いて立ち尽くしていた。
奥様が突然、自分の役目を奪ったのだ。
今まで、奥様が藤原様の上着に触れたことなんてなかったのに。
けれど、すぐに思い出す。ご主人様から「若夫婦の仲を取り持つように」と言われていたことを。
今のこの光景は、まさに理想的!
50代の佐藤さんはすぐに空気を読み、静かにメイドルームへと引っ込んだ。
司はしばし理奈を見つめ、疑問を残したまま視線を外して、部屋の奥へと歩き出した。
「あなたも好きだったなら、一緒に観に行けばよかったのに」と理奈は上着を玄関のハンガーにかけながら、軽やかに後を追う。「でも、もう一度付き合ってあげてもいいよ」
「まさか、共通の趣味があるなんて思わなかった。あなた、経済ニュースしか見ない人かと思ってた」
「ねぇ、普段は何を観てるの?他にも共通点があったりして」
「じゃあ、私から言うね」と、理奈の言葉は止まらない。「コンサートが好きで、お笑い番組もトーク番組も大好き。たまにドキュメンタリーも観るよ」
「でも、最近流行ってるあのバトル系の番組は苦手。あんなにカメラが何十台もまわってて、出演者が陰口言ったり、ドロドロしたり……考えるだけでゾッとする」
「あなたは?どんなバラエティが好き?」
話題は自然と、理奈が一番得意な分野へと移っていく。
横浜放送局のADとして、バラエティ番組のチェックや市場分析は日常茶飯事。
今どきのバラエティ事情には誰よりも詳しい。
司はワイシャツの袖をまくりながら、ゆっくりと歩く。
背後には理奈の声がBGMのように流れ続ける。
彼女のような人間にはこれまで出会ったことがない。
自分のように無口な相手にも、これほどまでに一方的に会話を続けられる人がいるのか。
朝、わざと距離をとったつもりだったのに、彼女には全く効果がなかったようだ。
むしろ――予想とは正反対の結果になっている。