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第7話 よかった、お姉さまがいる。これで助かった――

藤原理奈は、その場に立ち尽くしていた。

木村小乃が肘で軽く突き、「ねぇ、あのイケメン……理奈を呼んでるみたいだけど?」と驚いた声をあげる。

理奈は心の中でため息をついた――やっぱり見つかっちゃった。


藤原逸が大股でこちらに歩み寄ってくる。顔には「面倒ごと」と書いてあるようで、眉はいつものようにピクリと動く。

彼は、お願いというより当然のような口調で言った。

「お姉さま、お金持ってる?ちょっと貸して。あとで返すから」


理奈は返事に詰まった。

助けるべきか、やめるべきか。助けたら、“運命の出会い”に水を差すことにならないだろうか。

でも断ったら、もともと自分に良い印象を持っていない弟から「気が弱くてケチ」というレッテルを貼られるだけかも――。


――

藤原財閥本社の最上階。


藤原司は最後の書類にサインを終え、巨大な窓辺に立った。

眼下には横浜の華やかな街並みが広がっている。今朝、わざわざ早く海辺のタワーを出たのは、無言の宣言でもあった。


はっきりとした線引きが必要だ。

この結婚の本質は、彼女が藤原家に入るときに理解していたはず――

所詮、家の意向に従った取引でしかない。自分が口をきけないと分かっていても嫁いできたのは、藤原家の金と地位が目当てなのだろう。

その二つは与えられる。

それ以外は、与えるつもりはない。


最低限のコミュニケーションはあってもいいが、必要以上は求めない。

少なくとも、シャンプーを買っただのどうだの、そんな些細な話まで聞かされるのはごめんだ。


無意味だ。

時間のムダだ。


スマホが震え、ビジネスパートナーからのLINEが届く。

用件を片付け、なんとなくタイムラインを開いた。

理奈の最新投稿が目に入る。


【藤原理奈:公共の場をお借りして、こちらが本当の夫です……続きを読む】


司は思わずまぶたがピクッと動いた。

冷たい顔のまま「続きを読む」をタップする。


続きには、まるでイタズラのような一文が飛び出した。


【..........................................赤井秀一だよ〜•̑₃•̑】


司:「……」


タイミングよく、伊藤社長秘書がノックして入ってきた。「藤原様、こちらの書類にご署名をお願いします」

司はスマホの画面を消してポケットにしまった。

その時、気づかぬまま、親指が「いいね」を押していた――。


――

「お金、持ってない」


理奈は逸の疑わしげな視線を受けながら、平然と答えた。


「持ってない?」

逸の眉がピクンと跳ね上がる。「嘘だろ、お前?」

藤原司の妻が金欠なんて、あり得ない!

しかも、いくら必要かも聞かずに即答で断るなんて、演技すらしないのか。

やっぱり庶民丸出しで、気が弱くてケチだと確信する逸。


実は理奈は嘘をついている。

毎月、司からかなりの額のお小遣いが振り込まれているし、新婚二日目には限度額の高い家族カードまで渡された。でも、一銭も使っていない。

数年働いて貯めた貯金だけで十分生活できるし、無駄遣いはしたくない。口座の残高が増えていくのを見ると、不思議と安心するのだった。


逸の「ふざけてるのか?」という視線に耐えながら、理奈は苦し紛れに言った。

「お金は定期預金にしてあって……」

とっさに腕時計を見せて、「じゃあ、この時計を質に入れたらどう?どこかで現金に換えられるかも」

「は?冗談だろ?そんなガラクタいらねぇよ」

逸は鼻で笑い、目もくれない。


理奈は内心ガッツポーズ。要は、助けるフリだけして、実際は関わらないで済ませたかったのだ。


自分の機転に満足しつつあると、澄んだ声が割って入った。

「じゃあ、その時計は私が預かるわ。ピアノの弁償金が揃ったら返すってことで」


ずっと黙っていた千島汐音が口を開いた。


今日は本当にツイていない。買ったばかりの高級チェロを逸に壊され、弁償を頼んだら「お金ない」なんて言い出す始末。信じられない。

でも、“お姉さま”と呼ばれていたこの女性は優しい目をしていて、嘘をついているようには見えない。

親戚らしいし、今回は信じてみることにした。

証拠として時計を預かれば、言い逃れはできないはず。


理奈:!

さすがヒロイン、頭の回転が速い!


結局、逸と汐音はLINEを交換し、「後で時計を返す」約束をした。

一件落着に見えた。


理奈は時計を外して逸に手渡し、名残惜しそうな表情を隠せなかった。長年愛用してきたものなのだ。


逸はその微妙な表情に気づき、またもや眉をピクリとさせて、鼻で笑う。

「家宝でも取り戻すつもりか?そんな感傷的な顔すんな。返してやるから」

今日は何もかもが裏目に出ている逸。

狙っていた限定バイクは他人に取られ、今度はチェロを壊して弁償金まで請求されている。

今月、バイクのチューニング代で四十万円も使い切ってしまい、仕方なく会ったばかりの義姉に頼み込んだのに、その義姉までケチくさいとは……。時計なんて質に入れても、恥をかくのはこっちだ。


ふいに何かを思い出し、理奈に向かって険しい顔をする。

「なあ、今日のこと、兄貴には言うなよ」


司に、遊びでお小遣いを使い果たしたなんてバレたら、どうなるかわからない。


理奈はその様子を見て、やっぱり長兄の威圧感は骨の髄まで染みついているのだと実感する。


「いいよ」と言いかけた瞬間、逸の生意気な表情にイラっときて、思わず言葉を飲み込んだ。

「ちょっと、あんた」

「……?」

逸は一瞬、耳を疑った。


「その眉、前から気になってたのよ」

理奈は指先を逸の眉間に向け、「もう一回ピクッてしたら、今すぐ兄さんに言いつけるからね!」


隣で見ていた小乃は、思わず「強気だなぁ」と呆れ顔。


理奈も、ノートに「完璧な義姉になる」と書いたことはある。

でも、仲良くしたいからって、何でも我慢する必要はない。

これでも一応、逸を助けたのだ。感謝されなくても、「お姉さま、助かった!」くらいの態度を見せてほしい。


逸は完全に面食らっていた。

子どもの頃から、こんな風に指さされて怒られた経験なんてない。反射的に眉を上げそうになったが、司の冷たい顔が脳裏をよぎり、ぐっと我慢した。


それでも口では負けじと、「できるもんならやってみろよ」と言い返す。

「じゃ、やってみようか?」

理奈はあっさりスマホを取り出し、ロック解除して電話をかけるふりをした。


「わかった、わかったよ!動かさないってば!それで満足?」

逸は眉間にしわを寄せ、イライラした様子で髪をかき乱す。


理奈はにっこりと笑い、スマホをしまった。

「了解」


逸はむしゃくしゃしながら、「じゃあな、お姉さま」と言い残して早足で去っていった。

その背中を見送りながら、理奈はそっと息を吐いた。

もう決めた。これからはびくびくせず、「お姉さま」として堂々としていよう。

優しくするときは優しく、叱るときは叱る。それでいい。


――

騒動の後、理奈と小乃はすっかりお腹が空いていた。

夕飯の席で、小乃が興味津々に尋ねる。

「さっきの、君のダンナさんの弟?あんなにイケメンなら、ダンナさんはどれだけカッコいいの?」


理奈はにこやかに笑って、ごまかした。

藤原家に嫁ぐ前、母の林月音から「目立たないように」と何度も言われていた。

庶民が財閥に嫁いだと噂にならないよう、結婚相手については職場でもほとんど話していない。


小乃の好奇心も、理奈が話題を逸らすうちにどこかへ消えた。


帰り道、理奈はスマホでLINEのタイムラインをチェックした。

午後に映画を観た記念で投稿した記事には、すでにたくさんの「いいね」とコメントがついている。

一つ一つ、楽しく返信していく。


クラスメイトA:【先週はダーリンが殺生丸だったのに?浮気早くない?】

理奈:【聞かないで、元ダーリンってことで。タバコタバコ】

クラスメイトB:【再上映?!明日絶対行く!】

理奈:【早く行って!絶対損しないから!】

クラスメイトC:【剣を抜け!あれは私のダーリンだ!】

理奈:【刀、かかってこい!】

母・林月音:【いつもふざけてばかり】

理奈:【あかんべー、ママに似たの〜】

父・森原健:【もういい年だろ、まだアニメなんか見て!】

理奈:【@林月音 ママ!パパが私を叱った!悲しい悲しい】


夢中で返信していた理奈は、ふと「いいね」一覧で目を見張った。

真っ黒のアイコンがひとつ。

……藤原司?


まさか、司が「いいね」を押してくるなんて――。

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