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第12話 休息

 冒険者ギルドからほど近い場所に、その地区はある。

 歓楽街。酒場などの、いわゆる“夜の店”が立ち並ぶ通りだ。

 労働者、冒険者、素性の伺い知れない者、お忍びの貴族……。

 多種多様な人間が行き交う歓楽街の大通りは、日付が変わる時間帯になっても、人出が絶えることはない。

 魔力灯の光。開け放たれた扉からの明かり。窓に掛けられた覆い布越しの灯り。

 通りを行く人々の喧騒。客引きの女の甘ったるい声。呼び込みの男のざらついた大声。酔った客同士の怒声。

 酒のにおい。道に吐き捨てられた吐瀉物の臭い。石畳の隙間の饐えた泥のにおい。安物の香水。蝋燭の香り。

 極めて活気のある混沌。綺麗なものも汚いものも無差別に雑然と詰め込まれた場所。

 しかしその姿もまた、この歓楽街という場所の一面に過ぎない。

 表通りから一つ路地を入れば、そこは色濃い闇が滲み出している空間となる。

 馴染みのない香辛料の匂い。微かに漂う阿片の香り。

 路地に並ぶ店はどれも僅かに扉を開けてはいるが、常連以外の立ち入りを拒むかのように薄明かりが漏れている。

 当然ながら道は土が剥き出しのままで、乾かぬまま湿気だけが降り積もった泥が足元を濡らす。

 時折、小さな鼠が狭い路地道を行き来し、何処から異国の言葉の囁き声が耳に届く。

 黒というよりは、幾多の色が混じり合った末の闇。そう形容すべき空間を抜ければ、歓楽街はまた違った顔を見せる。

 表通りの喧騒が届かない裏通り。人通りはまばらで、魔力灯も所々にしか設置されていない。

 けばけばしい色と光に満ちた表通りとは対照的に、そこには“夜の静寂”があった。

 通りに面して軒を連ねている建物はどれも“夜の店”ではあるが、それらは一様に、初めて訪れる者を歓迎していないのが見て取れる重厚な造りをしている。

 格式としては中堅から上位が建ち並ぶ、“夜を楽しむ”のではなく“夜を味わう”ための場所。

 少し欠け始めている満月の青白い光が、裏通りの静謐さを一層際立たせている。

 人間の温度が感じられない青黒い空気。見えない柵のようなそれを押し退けながら、グレイは石畳の上を音も無く歩いていた。

 魔力灯に留まっていた一匹の蛾が、鱗粉に彩られた目玉模様の翅を羽ばたかせながら、夜の空へと消えていく。

 すれ違う人は皆顔を伏せ、お互いに意識してお互いを気にしないようにしている。それこそが、この裏通りの暗黙の了解なのだ。

 グレイも他人に倣い視線を落とす。

 視線を落とした状態でも、行くべき店に辿り着くことが出来る程度には慣れている。この裏通りを歩く者は、殆どがそのような者だ。

 そしてそれは、グレイとて例外ではない。

 目に入るのは、仄かな魔力灯に照らし出された、整然と敷き詰められた石畳の白いタイル。時折、色の異なるものが混じるが、それが各々の店の目印でもあった。

 四隅が欠けた、石畳の茶色いタイル。そこから七歩進んだ場所に“その店”はある。

 焦茶色の煉瓦の塀。少しくすんだクリーム色の壁。そして、真鍮製のノブと叩き金が取り付けられた黒い扉。

 グレイは躊躇う様子すら見せず、扉を押し開ける。

 屋内にも裏通りが続いているのかと錯覚するほどに、内部は静謐さに満ちていた。

 点在するランプの灯が間接的に空間を照らし、飴色に磨かれた床を雨上がりの街路のようにオレンジ色に染める。

 外から流れ込んでいた裏通りの“空気”の音が、不意に途切れる。

 グレイの背後で、音も無く扉が閉まった。傍らには、身なりの整った体格の良い男の姿。いわゆる“黒服”と呼ばれる職業の者だ。

 娼館・白鳩亭。この店は娼館という体を取ってはいるものの、実際には招かれざる客は例外無く放逐される“真夜中の社交場”である。

 香木の甘い香りが微かに漂う広間。玄関から敷かれている臙脂色の絨毯が、中二階の踊り場、そして上階への階段へと続いていく。

 踊り場に続く低い階段の傍らには、正装の老婦人が座っている。

 華奢で品格を漂わせながらも、どこかしら凄味のようなものが仄かに匂うこの老婦人こそが、白鳩亭の支配人である。

 グレイは老婦人と視線を合わせる。絡み合う鼠色の視線と青い視線。

 互いに軽く頭を下げると、グレイは彼女の横を通り抜け、一階の奥、従業員の居住区へと歩を進めた。

 通り過ぎ間際、老婦人の手に金貨を一枚手渡しながら。


 広くはない薄暗い廊下の突き当りに、その部屋はあった。

 元々は物置として使われていたのだろう、娼館の下働きの部屋としてはそれなりの広さがある。

 レースのカーテンが掛かった小さな窓。洗いたてのシーツが敷かれたベッド。茶色くなった籐製の行李。年代物の引き出し付きの台。黒い小さなテーブル。三人掛けのアンティークなソファ。

 ほんの僅か、埃っぽい空気に交じる化粧品の香り。

 ここには確実に、何者かの生活の匂いがある。

 扉の横に置かれていたコートハンガーに、グレイは纏っていたコートを無造作に掛ける。コートの内側に仕込まれている鞭や短剣の重さでハンガーが少し傾くが、彼には特に気にした様子は無い。

 部屋の片隅に置かれていた、足の長さが不揃いな椅子を引っ張り出すと、普段通りの動きをなぞるかの如くグレイは静かに腰掛けた。

 音も無く吐き出される、彼のため息。

 沈黙。本来は重いはずのそれが、この場所では静寂と混ざり合い、灰色の静謐さとなって部屋を包み込む。

 目を閉じても、彼の耳に届く外界の音は遥かに遠い。しかしそれこそが、グレイにとってこの場所が特別である理由の一つでもあった。

「……嫌われるわよ。予告無しに来るような、気紛れな男は」

 静かに扉が開き、囁くような声が彼の耳を擽る。

 小さいながら、よく通る女の声。

 目を開け、顔を上げれば、そこには一人の女が居た。

 年の頃は二十代半ばから後半くらいだろう。白い長袖のボタンダウンシャツに、黒いタイトな長ズボン、その上から深緑のエプロンを着けている。一見すると、給仕のような格好だ。

 その女の容姿で最も目を引くのは、やはり顔だろう。顔の右半分に金色の前髪を垂らして隠し、露になっている左半分には大きな火傷の跡がある。

 彼女の名はビリジアーナ。この娼館で、清掃や厨房等に携わる下働きをしている。

「随分と準備が良いな」

 グレイの視線は、彼女が持っている黒い盆に注がれていた。

 二客のティーカップにガラス製のティーポット。そして、注ぎ口から湯気を吐き出している小さめの薬缶と、茶葉の入った円筒形の銀色の缶。

「見えたのよ。厨房から、貴方の姿がね」

 ビリジアーナは盆をテーブルに置くと、慣れた様子でティーポットに茶葉を入れていく。下働きにしては、若干優雅過ぎるきらいのある手付きで。

 薬缶からティーポットへと、湯が美しい曲線を描きながら注がれる。

 ティーポットの底面に跳ね返った湯が茶葉を踊らせ、ゆっくりと開いていく。湯の中で円を描くように茶葉が縦に渦巻く度に、柑橘を思わせる甘い匂いと渋みが混ざった香りが広がる。

 蜂蜜のような色に染まっていく湯。春という季節ではあるものの、未だ仄かに冷気を帯びている夜の空気に、茶の香りと温度が入り込む。

 グレイは何も言わなかった。

 ビリジアーナもまた、何も言わなかった。

 言葉を交わす必要の無い、無言の時間。数秒か、数十秒か、数分か。

 頃合いと見たか、ビリジアーナはポットの中身をカップに注いでいく。

 銀彩で縁取りがされた、二客の古いティーカップ。

 風体に似合わない所作で取っ手をつまむと、グレイは淹れられた茶を少しずつ流し込んでいく。

「躊躇わずに飲むのね。…………毒が入ってるかも知れないのに」

 無感情に、そして前髪で隠れた右目でグレイを見つめながら、ビリジアーナは言う。

「……毒殺しようとする相手に、高い茶葉を出すような物好きはそうそう居ない」

 カップから唇を離し、目を閉じながらグレイは続ける。

「それに、お前にはそうする理由が無い」

「……厭な男ね、貴方って」

 ため息交じりに言葉を吐き出しながら、ビリジアーナも椅子に座る。

──初めて遭遇した時、私を殺そうとしたくせに。

 その言葉の続きは、彼女も茶に口を付けたことで封じられた。

 元より、言うつもりも無かったのかもしれない。

「でも……女は気が変わるものよ。せいぜい気を付けなさい? 毒を、盛られないようにね」

 言いながら、ビリジアーナは髪を掻き上げる。大きな火傷の跡が残る左半分とは対照的な、静かに輝くような美貌の右半分。

 店の人間以外で、前髪に隠された彼女の素顔を知っているのは、グレイだけだ。

「肝に銘じておく」

 カップを盆に置きながら、グレイは普段通りの無感情な物言いで返す。だが、どこか苦笑しているような雰囲気が薄く感じられた。

「……ベッド、借りるぞ」

「どうぞ、ご自由に」

 返答を待たず、服とズボンと靴を脱ぎ捨て、下着姿になったグレイがベッドの中に潜り込む。

 もう幾度となく繰り返した動作をなぞるように。

 確かにここは娼館ではあるが、グレイの目的は“そのようなこと”ではない。

 彼はただ“眠るため”だけに、彼女の部屋を訪れているのだ。

 それはある意味、グレイにとっては儀式のようなものだった。

 “仕事”の前に、丸一日以上眠るための場所。例えるならば、虫が蛹となるような。

 しかし羽化するのは蝶のような美しいものではない。闇に潜み、死体に群がる埋葬虫(シデムシ)だ。

「……突然来て、すぐに寝て。本当に、勝手で厭な男ね、貴方は」

 既に寝息が聞こえる。

 ビリジアーナは脱ぎ捨てられた服とズボンを拾い上げると、洗濯物用の籠に放り込んだ。

──一度死んだ者を、二度殺すことは出来ない。

 初めて会った時にグレイに言われた言葉を、彼女は改めて思い出す。

「似た者同士なのかしらね、貴方と私は。だから……“何も無いこと”に安心する。この世界に居る以上、“何かはある”、から」

 返事は、無かった。


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