空は、雲一つない青空だった。
春の暖かさの中で、植物達はその身を、太陽に向かって我先にと伸ばしていく。
山の方から吹き下ろす冷気を含んだ風が、まだ緑の薄い草の葉をさらさらと揺らす。
“暁の獅子”の魔術師ルシアの転移魔法によって、街道の分岐点にまで一気に跳躍した、暁の獅子とイェルグの一行。
そこから更に、彼ら曰く最短経路だという、棘の森を目指して進んでいる最中だった。
傾き始め、オレンジ色を帯び始めた日の光。
鼻歌混じりに歩を進めているイェルグとは対照的に、暁の獅子の面々は誰一人、喋りすらしない。
一種異様な空気の中、重い沈黙に耐えかねたのか、フォズが口を開く。
「なあ、イェルグ。何であんたは、“渡り鳥”なんかになったんだ?」
瞬間、フォズにリヒターから鋭い視線が向けられる。
余計な事は言うな。そう物語っている視線を。
またぶっ飛ばされてぇのか。カスは黙ってろ。
続けて目が合ったゲレルの瞳は、そのように言いたげな威圧感を放っていた。
「その、“渡り鳥”って呼ばれ方は好きじゃないんだが……そうだな」
顎に手を当て、少し思案する様子のイェルグ。
「やっぱり、旅が好きだから、だろうな。見たことの無い景色とか、初めて食べる料理とか。そういうのも含めて、旅って楽しいだろう?」
屈託の無い表情に、フォズは思わず俯いて視線を外してしまう。
「だから今回も、急だったとは言え楽しみなんだよ。初めての場所って、何だかワクワクするじゃないか」
フォズは、俯かせた顔に苦々しい表情を浮かべた。小さな罪悪感が針のように、彼の心をちくちくと苛む。
(コイツは……)
フォズの奥歯に、自然と力が入る。
遠くから、鳥が飛び立った音がした。
(俺達が失くしちまったものを持ってる……)
握った拳。手の平に、爪が食い込む。
誰かが蹴飛ばした、砕けた街道の石畳の一部が足元を転がり、草むらの中へと消えていった。
(何で、アイツは気付いてないんだよ。失くしたことにすら気付いてないのか? 俺らだって、昔はもっと違ってたはずなのに……)
前を歩く硬い靴音。
フォズは、変わってしまった幼馴染──リヒターの背中を見る。
数歩踏み出せば、隣に立てる距離。しかしそれは、彼にとっては果てしなく遠かった。
(……今回の件が終わったら、一度、アイツを問い質してみよう。本当に、ずっとこんなことを続けていくつもりなのかって)
夕日の色を纏い始めた青空が、フォズにはやけに寒々しく感じられた。
その場所に着いたのは、既に夜も更けた頃だった。
棘の森の奥、一本の大木を中心に、円形に広がっている開けた草地。
「今日は、ここで野宿するんだよな?」
背嚢を下ろしながらイェルグは言う。
返事は無い。
満天の星。
何処からか聞こえてくる梟の声。
地面に置かれたランタンの中で、蝋燭の火が揺らめいている。
「……いや」
おもむろに、リヒターが口を開いた。
「野宿とか、そんなモンは必要ねぇ。お前には、死んでもらう」
その言葉の意味を理解出来なかったのか、イェルグは背嚢から取り出した小鍋を持ったまま立ち尽くす。
「冗談…………だよな? 何だよ、そんな怖い顔して……」
気付けば、イェルグの周りを暁の獅子の面々が取り囲んでいた。
万が一の反撃に備えてだろう、踏み込めば武器が届く程度の間合いを空けながら。
ジリジリと。
蟻が進むよりも遅い速さで、少しずつ距離を詰めていく。
悪い冗談などではなく、本気で、殺すつもりなのだ。
「……あぁ……」
イェルグは思わず項垂れた。
持っていた小鍋が手から離れ、派手な音を立てながら地面に転がる。
「折角だ。最期に言い残したことがあるなら聞いてやるよ」
リヒターが一歩、イェルグの方へと歩み出る。
イェルグの気配が妙に薄くなっているのには気が付いているが、大した問題ではないと判断したらしい。
Bランク程度ならば、どんな行動に出られようが対応出来るという、過信と慢心に溢れた行動。
「まあ、明日の夜には忘れてるかも知れねぇが」
勝利を確信して疑わない、強者が弱者をいたぶる時のような嗜虐の笑みを浮かべながら。
「……お前達は」
「あン?」
リヒターの耳に届いたのは、イェルグの声でありながらイェルグのものではないような、抑揚の無い小さな低い声。
俯いたイェルグの顔を覗き込むリヒター。
「こうやって殺してきたんだな。他の冒険者を」
イェルグの瞳には、何も“無かった”。
感情も情動も理性も本能も無い、ただぽっかりと穴が開いているだけの底無しの虚無。
刹那、リヒターの本能が頭の中で警報を激しく鳴り響かせる。
──コイツは、とんでもなくヤバい!!
「おいッッ! お前ら──」
リヒターが指示を飛ばすよりも先に動いたのは、イェルグの方だった。
リヒターの耳に何かが割れるような音が届くと同時に、イェルグの動く気配がした。
キィィィィィィィン!!
耳鳴りにも似た甲高い金属音と共に、イェルグを中心にした一帯が強烈な閃光に包まれる。
無機質な、真っ白い光の洪水。まるで、森を包み込む夜の一部すら喰らい尽くすかのように。
すっかり闇に目が慣れていた暁の獅子の面々にとって、それは完全に不意打ちだった。
「ぐあっ! 目が……っ!」
グローの悲鳴。慌てて目を閉じても、焼き付いた光で視界が白い。
「くうぅっ……この、音っ……」
ヒカリは思わず耳を押さえる。如何に気配に聡いとは言え、視覚と聴覚を封じられれば、それも十全に発揮することは出来ない。
数分か、数十秒か。
閃光が収まり、彼らの眩んだ目が再び闇に慣れた時には、そこには誰も居なかった。
背嚢もランタンも姿を消した中で、地面に転がっている小鍋だけが、イェルグが居た痕跡を物語っている。
先程までは無かったはずの、割れて黒く変色した石が落ちている。どうやら閃光の魔法が封じられていたらしい。
「くそッッッ!!!」
両膝を地面に突きながら、リヒターは拳を草地に叩き付けた。
叩き付けた拳が微かに震えている。
「あのクソ野郎、何か知ってやがる。俺達が今まで何をしたか、知ってやがった」
瞬間、起こるざわめき。
「おい、ルシア!」
「分かってるわよ」
僅かに冷静さを取り戻したリヒターが、ルシアに視線を送る。
ルシアは腰に提げた革袋から宝石を五個取り出すと、上に向けて放り投げた。
「“星辰の光芒は安寧を齎せし壁となりて我らを護らん”……」
力ある言葉が紡ぎ出された瞬間、魔力による鈍い輝きを纏った宝石が次々と爆ぜていく。
と同時に、巨大な透明な壁が、星の輝きを反射しながら森の周囲を覆っていくのが見えた。
「これで、日が昇るまでは大丈夫よ。私達なら……それだけあれば余裕よね?」
場違いに嫣然たる様子で、ルシアは面々を見渡す。
「……ああ。予定は狂っちまったが、やることは普段と変わらねぇ。絶対に、“アレ”を生きて返すんじゃねえぞ」
血走った目にギラギラとした光を宿しながら、リヒターは声の調子を落としながら言う。
「殺せ。最初に殺った奴が総取りだ」
暁の獅子のルールを念押ししながら、リヒターは静かに凄む。
ルシアは嗜虐心を隠すことなく、美しくも残忍な笑みを浮かべていた。
ヒカリは鋭い殺気を放ちながら、腰に下げた長刀に手を置いている。
ゲレルは舌打ちしながらも、下卑た笑みを浮かべ頷いた。
グローは金勘定を想像しながら、少しだけやる気無さげに、リヒターに目を合わせる。
フォズだけは、目を合わせることも、頷くことも出来なかった。
(もう、止められねえのかよ)
口に出せない呟きが、誰の耳にも届くことなく夜の空気に溶けていった。
暁の獅子の遣り取りを、イェルグ──グレイは大木の枝の上から見下ろしていた。
ランタンには鉄製の外窓が下ろされている。光が漏れていない以上、音を立てない限り見つかることは無い。
──仕事の、時間だ。
今の彼に、最早イェルグの人格の痕跡を見つけることは出来ない。
枝に留まりながら、“イェルグ”を探しに森に入っていく暁の獅子の面々を観察するグレイ。
──リヒターとルシア、ゲレルとグロー、そしてヒカリとフォズはそれぞれ別行動、か。
幹に立て掛けた背嚢からコートを取り出すと、静かに袖を通す。
──やはり、これが一番落ち着く。
そしてグレイは再び、音も無く地面に降り立つ
──始めるとするか。“契約通りの仕事”を。
いやに肌寒い風が、森の木々を撫でていく。
風に揺らされた枝葉が、ザワザワと音を立てた。暁の獅子の“音”を喰らうかのように。