私は、家庭教師をしていた。
ただの家庭教師ではない。魔術を教えていた。
継ぐ家のない私は、学生時代に努力を重ね、それだけの実力をつけた。
間違っても名門と呼ぶことはできない家の出で、強いコネクションはなかったが、学院の講師の紹介で、とある子爵家に雇われた。
最初に教えたのは、仲睦まじい兄妹だった。
魔術の才能もほぼ同じ——いや、妹の方が少し劣るという、“好ましい”差だった。
もし逆だったら、家の中で揉め事が起きていたかもしれない。幸運なことに、程よい加減だった。
そういったこともあって、初めての生徒ながら、私も過度に緊張せず、のびのびと教えられた。
その結果彼らは優秀に育ち、評判を聞いた他の家からも「我が家で家庭教師を」と声がかかるようになった。
私は喜んでその誘いを受け、新たな生徒のもとで教鞭をとった。
そうして歳を重ねるごとに評判は高まり、五十半ばになった頃、軍の名門と呼ばれる伯爵家に招かれた。
魔術の扱いに長けた一族からの誘いに、高揚した気持ちで応じた。
長男は、真面目な子だった。
私の教えを丁寧に受け取り、学べば学ぶほど、いや、それ以上に吸収していった。
実際に魔術を使わせてみると、他の家とは一線を画すその姿に、血統の力を思い知らされた。
二つ下の次男もまた、真面目な子だった。
しかし、長男ほどの才はなかった。
通常の伯爵家なら「比較的優秀だ」と評価されたはずだが、この家では不出来と見なされた。
座学は理解している。〈土〉や〈風〉の魔術も「そこそこ」扱える。勤勉でもあった。
それでも、この家の基準では物足りなかった。
私はここでも、彼が“次男”で良かったと思った。
もし長男と次男が反対だったなら、家督を巡る争いが起きていたかもしれない。
——問題だったのは、長男の六つ下の三男だ。
脱走癖があることは聞いていた。そして、天賦の才があることも。
当時王国で、〈火〉〈水〉〈土〉〈風〉すべての魔術に適性があるのは、彼だけだった。
彼の父は、まだ六歳の彼を「縛り付けて教えても構わない」と言った。
流石にそれは、と苦笑したものの、それが必要なほどに彼はよく逃げた。
とにかくすばしっこい。
六歳にしては大きな体躯で、ちょこまかと逃げ回り、授業をボイコットする。
そのうち、兵士を借りて捕まえてもらうようになった。
しかし、悪い子ではなかった。
「君が来ないと私はクビになってしまうかもしれない」とこぼしてからは、兵士に連れられずとも授業に出るようになった。
しかし、話は聞くがノートを取らない。
いや、話もあまり聞いていなかったようだ。
テストをしても、宿題を出しても、何も書かない。
たまに何か書いているなと思っても、落書きばかりだった。
「才能があると言われて慢心しているのだな」と考えた私は、少し早いけれど、と実技の授業を行うことにした。
鼻っ柱を折ってやろうと思ったのだ。
……結果として、折られたのは私だったけれど。
「天賦の才」などという言葉では足りない。
あれは“化け物”だ。
理論は理解していない。詠唱も覚えていない。
にもかかわらず、一度見ただけで私の魔術を模倣した。……私以上の威力で、だ。
〈炎矢〉を見せれば、私の倍の数の〈矢〉を出してみせる。
〈土〉と〈風〉の複合魔術である〈
六つ上の長男でさえ、詠唱を用いてようやく使えるようになってきた魔術を、この“化け物”は難なく扱ってしまった。
本当は私の説明を理解していたのではないか。
実はしっかりと勉強していたのではないか。
そう思っていくつか訊いてみたが、「何を訊かれているのかわからない」という顔をした。
彼はひとつも、私の授業の意味を受け取ってはいなかった。
けれど魔術だけは、見ただけで真似てしまったのだ。
「優秀な生徒を持った」など、罷り間違っても言えなかった。
「才能を育てられる喜び」など、かけらも感じなかった。
ただ、恐ろしかった。
何を見せてもできてしまう彼が。
見せずとも、「こんなことはできるかい?」と尋ねると放ってしまう彼が。
私は、逃げ出した。
ちょうど次男が家を離れ、軍人学校に入る頃だ。
これからは三男の授業だけになる。
彼の才能とだけ向き合い続けねばならないと思うと、息が胸に詰まった。恐ろしかった。
そうして、あの家を去った。
「私には何も教えることができない」
それだけ伝えて、逃げ出した。
『君が来ないとクビになってしまうよ』——そんなため息混じりの言葉に釣られて、彼は授業に出てくれていた。
それなのに、私は彼を置いて逃げた。
そこからは、もう誰にも魔術を教えていない。
いいや、魔術そのものから離れた。
有難いことに、そうしても生活できるだけの退職金をいただいたからね。
ただ、時折思い出す。
これが最後の授業だと告げたときの、ポカンとした彼の顔を。
寂しさと悲しさと、何か痛みを耐えるような、十歳にしては大きく——けれど幼い、“少年”の顔を。
たまに、考えるんだ。
私は私を諦めていた。でも彼は、私を諦めていなかったのではないか、と。
もしもあのとき、他の子に教えるのと同じように彼に寄り添えていたら――。
なんて今更、考えても仕方のないことだけれど。