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第1話 我が家の家計は火の車

 グエンドリンはソファにうずくまり、頭を抱えていた。

 当然だ。人が窮地に陥っているときに、女そっくりのロボットが機械らしい規則正しさで歩き回っているのを眺めるのは精神衛生上いいとは言えない。

 ゆっくりと一歩一歩。安定した歩幅は、二足歩行型ロボットが最も安定する歩幅だと機械工学学者がはじき出した数値だ。

 そのとき、開発チームの人間心理学者は、人造人間が二本足で歩き回ると人間の神経を逆なでする可能性があると指摘しなかったらしい。


 絶対にそうだ。そうに決まっている。


「どこか具合が悪いのですか? グエン」


 ロボットがくるりと振り向いて口を開いた。

 グエンはため息を付きそうになるのをこらえ、のろのろと頭を上げた。


「君が部屋をウロウロすると、僕のイラツキ神経が刺激されるんだ、人造人間君」


「私の事はゾラックとお呼びいただく約束でしたよね?」


 ゾラックは妙に人間臭い仕草で肩をすくめた。人造人間特有のつやのない真っ白の髪が肩のあたりで揺れる。

ゾラック――正式名称アイザック&ユーリ社製二足歩行型人造人間XYQ384シリーズはミルクチョコレート色の肌と白い髪が特徴の汎用室内事務ロボットだ。

 その顔は悲壮感などこれっぽっちも感じさせない。それもそのはず、一流のデザイナーと精神科医が丁重にデザインしたからだ。


「僕は君とそんな約束はしていない」


「だめだめ、そんな反論は無意味です。おじい様が私をあなたに譲渡した際の設定変更項目に、私の呼称名が含まれていたはずですよ」


 ゾラックはヒト型ロボット開発史の最高傑作である『人間ってなんでこんなに下等なの?』とでもいうような笑みを浮かべた。

 人工知能に馬鹿にされて喜ぶマゾ野郎が潜在的顧客にいると、I&Y社は信じていたのだろうか。だとしたら、マーケティングは徹底的に間違っている。

 グエンは歯を喰いしばってから、最初に思いついた悪態を飲みこんだ。

 このままでは非生物相手に倫理的不道徳な発言をしてしまいそうだ。

 人造人間には対して敬意を持って接する。軍生活で叩き込まれた鉄則の一つだ。なぜなら、部隊の人間はけっして仲間を裏切らないが、機械は裏切るから。突然壊れるとかなんとかして。

 それにゾラックは祖父の形見の一つだった。それだけでグエンには、ゾラックに対して礼儀正しく振舞う必要が感じられた。

 それはお前の感傷的な錯覚だと脳みその奥で知性が叫んでいたとしても。と、グエンは心の中で付け足した。


「そうだったね、ゾラックくん。頼むから、部屋を、うろつくのを、やめて、ソファーに座っていただけませんか? 君に座る機能がついているならの話だけど」


「その言葉を待っていました」


 ゾラックは真面目腐った調子で頷くと、完璧に計算された動きでソファに座り足を組んだ。


「さて、どちらが切り出しますか?」


 グエンが鼻を鳴らすとゾラックは手に持っていた書類を差し出して厳かに口を開いた。


「ご存知の通り、我が家の家計は火の車です」

 人の可聴域内で最も精神をリラックスさせるよう慎重に計算された合成音声だったが、グエンの心理状態にはいっさい効き目がなかった。


「再確認をありがとう」


「もしかしたらご存知なかったのかと思いまして。それか、忘れたふりをしているとか」


「君はいつだって正しい。人造人間君」


「グエン……」


「ゾラックくん」


 グエンは書類の束をすくい上げると、ぐっと息を飲んで数列を一瞥するという憂鬱な作業を開始した。それは一瞬で終わった。脳が拒否したともいう。


「僕は数学の学位は持っていないけど、自分が破滅寸前だということは理解できる」


「その通りです」


 グエンは痛むこめかみを揉みながら、もう一度数列を追った。今度は流し読みではなく、自分があと一息で借金まみれになるのが十分に理解できるほどしっかりと。

 一流の公認会計士が見なくても理解できる。誰がどう見ても赤字だった。

 おかしい。なにかが間違っている。

 俺はこの二年間で七人の人間を殺して、一人の男と人造人間一体が生活するのには申し分ない収入があったはずだ。だが、それも『忌々しい日常生活に必要なあれやこれや』で少しずつ目減りし、あと二ヶ月で綺麗さっぱりなくなるようだった。


 つまり、いますぐ行動を起さなければならない。

 迅速に・的確に・容赦なく。

 グエンは特殊部隊第一規則に則って口を開いた。


「一つセーフハウスをカット。使用率と今後の必要性をはじき出して、一番低いやつだ」


 ゾラックは頷いて手元の『やることリスト』に書き始めた。

 ちくしょう。なんで、高性能の事務用ロボットが手書きでメモを取っているんだ? 電力がもったいないとか?


「光学迷彩の装備を売ろう」


「いい案です」


「ついでに防弾装備一式も、この前雨に濡れて駄目になったやつ」


「不良品を売り飛ばすのですか?」


「マニアが買うだろう」


 グエンはさらりと言った。


「僕がこの先、潜水道具を使う可能性は?」


「仕事の内容によりけりです」


「潜水道具は全て処分」


「了解」


「偽のID認証キットもカット。維持費が馬鹿にならない」


「その調子」


「軍服と勲章を売っちまおう。どさくさにまぎれて持ってきたやつが眠っているはずだ」


「それは三年前にやりました」


 そうだった。

 グエンは眉をしかめて舌打ちした。

 一切合財は退役、というより退院したその日に古着屋に売ってしまったのだ。

 あの時は、今まで着ていた軍服を手放すのにそれなりに抵抗があったはずだ。それがどうだ? 今ではさっさと売ってしまえってもんだ。まったく。


「なにか案があるか? つまり、金策ということ。こんな時こそI&Y社製のご立派な人工知能使うべきじゃないのか?」


「あなたの大事なチョコレートコレクションが三十七箱がありますよ」


 グエンはぼんやりと顔を上げた。

 たしかに退役後にチョコレートに猛烈にハマり、片っ端から取り寄せていた。


「私の記憶が正しければ、あのチョコレートの山は三年間本邸の一部屋を占領しています」


「思い出させてくれてありがとう」


「あの部屋の温度を維持するために年間いくらかかっているか知っていますか?」


「いや、聞きたくない。もちろん処分だ。少なくとも千粒は食べたし」


「よかった。実はあなたのチョコレートに対する異常な執着心を心配していたのです。これはあなたの幼少期の出来事と関係あると思いますか?」


「僕の心理分析はやめてくれ」


「了解。チョコレートはさっさと寄付で」


「売ったら?」


 ぼそりとグエンは呟いた。

 かき集めたチョコレートコレクションをタダで手放すのは惜しい。たとえしみったれだと思われても。実際そうだが。


「賞味期限ギリギリのチョコレートを? 確かにまだ食べられますけど、カカオは成型後二十時間で風味が落ちるとかなんとかのたまっていたはずです。そんなチョコレートを売る? あなたは悪魔ですか」


「僕は金の亡者」


「かわいそうに」ゾラックが残念そうに頭をふる。


「私を困らせるために、窮地に陥ることはないんですよ」


「大丈夫だって。なんとかやっていけるさ」


 グエンは眉を上げるゾラックを無視して、ぐったりとソファにもたれかかった。


「ともかく、俺は金がなくても大丈夫なのだ。元々大金持ちでもなかったし。それに最後の最後には君を売っぱらうって手もある」


  ゾラックは真面目腐った調子でまた首を振った。


「なにか喋れよ。君が作られた意味を思い出せ。人間を愉快な気分にしたい機能がついているんだろ?」


「誰にメンテナンス代を払ってもらっているのか思い出したもので」


 ゾラックは澄まして言うと、グエンを一瞥した。


「おかしいですね。まだ私の小言が必要ですか? 十分ではなく? 仕事を探すのはどうでしょう。世界中で誰かが誰かを殺したがっているはずですよ」


 グエンはため息をつくと、最後の砦であるバスルームに逃げ込んだ。

 ここまではあのゾラックも追ってはこれまい。あいつは生活防水以上の防水機能がないはずだ。

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