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婚約破棄?結構ですわ。でも慰謝料は請求いたします
婚約破棄?結構ですわ。でも慰謝料は請求いたします
ゆる
異世界恋愛ロマファン
2025年07月09日
公開日
6,973字
連載中
婚約破棄?結構ですわ。でも慰謝料は請求いたします

第1話 公爵令嬢と第三王子

 王都は真夏の陽光を受けてきらきらと輝いていた。広大な石畳の通りには、多くの馬車や人々の往来があり、活気に満ちた喧噪があふれている。ここは大国アルフィリアの首都ルメリア。巨大な城壁に囲まれた都市には、王城と多くの貴族の邸宅が立ち並び、夜ごとに開催される舞踏会や饗宴が人々の話題をさらっていた。


 そんな王都の中心から少し離れた場所に、荘厳な建物が並ぶ“貴族街”がある。その一角にそびえ立つのが、公爵オルステッド家の屋敷だ。淡いクリーム色の壁と、滑らかな大理石でできた玄関柱。広大な庭園には白いバラが見事に咲き乱れ、庭師たちの手入れの行き届いた芝生が続く。客を迎えるために十分すぎるほどの豪奢さを誇っていた。


 その公爵家の令嬢こそが、アナスタシア・オルステッドである。アナスタシアはまだ十八歳の若さにもかかわらず、整った容姿と知性、そして貴族としての高い教養を兼ね備えた才媛だった。長い銀糸のような髪を後ろで緩やかにまとめ、青灰色の瞳はどこか涼しげでありながら強い意志を宿している。王宮の華やかな社交界でもたびたび噂になるほど、その美貌と立ち振る舞いは際立っていた。


 そして、彼女には特別な立場があった。国王の第三王子アレン・トリスフィアとの婚約者――。今から二年前、当時まだ十六歳だったアナスタシアと十九歳だったアレンが、王家と公爵家の利害の一致、そして“将来性”を見据えた両家の合意により正式に婚約を結んだのである。


 第三王子アレンは、王位継承権こそ上から二人を飛び越えられるほど強くはないが、その端正な容姿と、音楽や詩文の才覚から王宮内では人気が高かった。特に女性たちからは、その儚げな風貌と貴公子然とした振る舞いが称えられ、よく “白百合の王子” とあだ名されることもある。ただし、政治的手腕や軍事的な素質はあまり期待されておらず、周囲からは「王宮の花」「優雅なだけの王子」と揶揄されることもあった。


 アナスタシアとの婚約が決まったとき、王都の人々は「才色兼備の公爵令嬢と優雅で美しい第三王子。なんてお似合いの二人なのだろう」と盛んに噂した。しかし、一部の貴族たちは「アレン王子は政治力に欠ける」「いずれアナスタシアが苦労することになるのでは」と案じてもいた。だが、当のアナスタシアはそのような声を気に留めることなく、王家に嫁ぐための準備を淡々と進めてきたのだ。


 ――もっとも、アナスタシア自身が「アレン王子に心底惚れ込んでいるか」と問われれば、それは微妙だった。貴族の娘にとって婚約や結婚は、家同士の利益や国政に関わる重要な問題であり、恋愛感情よりも義務や責任が優先されることが多い。アナスタシアもまた、“公爵令嬢としての当然の務め”と割り切る部分があった。しかし、彼女は決して不満を口にすることはなく、婚約者としてアレンを支え、いつか自分なりに愛情を育んでいければ――そう思っていたのである。


 ところが、ここ数ヶ月。アレンの態度は目に見えて冷淡になり、アナスタシアとの会話も徐々に減っていた。かつては少なくとも礼節をわきまえ、優しい笑顔で挨拶を交わしてくれたのに、いつの間にか彼は彼女から目を背け、話しかけてもそっけない返事しか返さない。何かがおかしい――そう感じたアナスタシアは、公爵家の情報網を使ってアレンの行動をこっそり調べさせることにしたのである。


 調査を始めてほどなくして、アナスタシアは驚愕の事実を知る。アレン王子は、アナスタシアとの婚約が正式に結ばれるよりも前から、ある没落貴族の令嬢カリーナと密かに深い仲になっていたらしい。そして今もなお、カリーナと会合を重ね、何やら不審な動きを見せているというのだ。


 その報告を受け取ったとき、アナスタシアは静かに息をついた。すぐさま憤りを爆発させるでもなく、涙を流すでもなく、ただ心に冷たい確信が生まれたように感じた。――なるほど。アレンが最近やたらと避けるようになったのは、この女が影で糸を引いているのか。それとも、自分から離れていこうとする気持ちに正直になったのか。


 貴族同士の政略結婚であれば、夫となる者に愛人がいることなど珍しくはないかもしれない。だが、婚約期間中から隠れて他の女性と関係を深め、正当な理由もなく婚約を破棄しようとしているのであれば、それは公爵家を愚弄する行為であり、許容できるものではない。しかも相手は没落貴族の娘。かつての資産や領地を失い、王都で閑職に甘んじているような家の令嬢である。そのような女性を、もし正式に“王子の婚約者”とするなどという話になれば、国内の貴族社会全体にも動揺が走るだろう。さらには、オルステッド公爵家が大きく面目を潰される可能性もある。


 アナスタシアは、慎重かつ冷静な性格だった。感情に任せてアレンを問い詰めるより先に、自分が今後どう立ち回れば最善策となるかを考えた。

(このままでは、婚約破棄は避けられないかもしれない。でも、だからといって受け身のままというわけにはいきませんわ)


 そう自らを奮い立たせたアナスタシアは、さらに情報を集めさせる。アレンとカリーナがどのようなやり取りをし、どんな計画を立てているのか。王宮の近衛兵や侍女たちに聞き込みをし、アレンが怪しげな書類を作成しているという噂や、カリーナが頻繁に街の宝石店を訪れていることなどを突き止める。


 やがて浮かび上がってきたのは、アレンが密かに画策している可能性のある一つの“計画”だった。――要は、婚約破棄をアナスタシアの“落ち度”に見せかけることで、公爵家に責任を押し付けようとしている、というものである。実際、最近アナスタシアの周囲ではよからぬ噂が流れ始めていた。

「公爵令嬢は王子に飽きて別の男を求めているらしい」

「彼女のわがままがひどく、第三王子をこき使っている」

「莫大な嫁入り道具を要求して王家を困らせている」

 いずれもアナスタシアが全く身に覚えのない噂ばかりだったが、これらの根回しが進めば、やがては“アナスタシアが悪女だったためにアレン王子が逃げ出した”という形で婚約破棄に持ち込むことができる。そうなれば、公爵家側は多大な恥をかき、逆にアレンは同情を買いながらカリーナとの再婚約をこぎつけるのだろう。


 その浅はかな画策に、アナスタシアは心底呆れた。

(王家の威厳を利用するだけ利用し、しかも私を悪者に仕立て上げるだなんて。アレン様、あなたはご自分が何をしているのか、わかっておられないのですね。少なくとも、公爵家を相手にそんな真似をすれば、どのような反撃を受けるかも想像できていないようで……)


 しかし、怒りや悲しみよりも先に、アナスタシアの胸には冷たい決意が広がっていく。そもそも、王宮の人間であるアレンが公爵家を侮るということは、すなわち王国全体の貴族社会を揺るがす事態にも発展しかねない。アナスタシアは、そのような“国家の危機管理”の観点からも、ただ黙っているわけにはいかなかった。


 アナスタシアは父である公爵と相談の上、ひとつの方策を決める。先んじて、“アレンとの婚約破棄”を国王陛下に申し入れるのだ。第三王子との婚約破棄などという重大な案件は、当然ながら国王の許可が必要となる。もし勝手に手順を踏まず行おうものなら、両家の問題としてだけでは済まない。国王に許可を求め、正当な理由を示し、そして正式な書状によって受理してもらえれば、公爵家は何ら不利な立場に立たされることはない。


 だが、“第三王子”との婚約破棄は国家的にも大きな意味を持つ。果たして国王陛下が安易に認めるだろうか――そう考える者もいた。実の息子の失態を認めてしまうことになるからだ。にもかかわらず、国王は苦々しげな面持ちでありながらも、アナスタシアの説得と提示された証拠の数々により、最終的に破棄を承諾せざるを得なかったのである。


 決め手となったのは、アレンとカリーナが取り交わしていた手紙の存在だった。そこには、明らかにアレンがアナスタシアの悪評を流し、自分は被害者を装うことで婚約を破棄しようと計画していたことを示す記述があったのだ。王家の面目に関わることゆえ、国王自身もひとまず事態を収拾する道を選んだのだろう。


 そうしてアナスタシアは、第三王子から“一方的に破棄される”という形を避けることに成功する。むしろ、公爵家の娘として正当な手続きを踏んだうえでの正式な破棄という形が整ったのだ。さらにアナスタシアは、アレンに対する慰謝料の請求を通達する。ここまでされれば、たとえアレンが何を言おうとも、公爵家の名誉は守られるし、逆にアレンの評判は地に落ちるだろう。

(本来ならば、何らかの懲罰を求めても良かったのですが。ま、これで十分でしょう。アレン様とカリーナ様には、勝手にお好きなようにしていただくのが一番ですわ)


 そんな決断を下してから数日後。アナスタシアは例の如く、庭先に出て朝の散策を楽しんでいた。公爵家の庭園は美しく整えられ、季節の花々が絶えず咲き乱れている。今の時期は白いバラが見頃で、アナスタシアはその花弁を指先でそっと撫でながら、ゆっくりとした足取りで奥へと進んだ。


 すると、屋敷の侍女長が急いでアナスタシアのもとに駆け寄ってくる。

「お嬢様、第三王子殿下がお見えになりました。今玄関ホールでお待ちです」

「……なるほど。いよいよですわね」


 アナスタシアは静かに頷くと、姿見で身だしなみを整え、深呼吸を一つ。ここ数ヶ月の苦労と、それに伴う思いが胸をよぎる。しかし、今この瞬間、彼女はむしろ落ち着いていた。最も気高く、そして冷静に振る舞う自信があったからだ。


 玄関ホールに足を進めると、そこには金色の刺繍が施された服をまとい、長い金の髪を背中で束ねたアレン王子の姿があった。かつては優雅な佇まいに多くの女性が魅了されたが、今のアレンの面差しには焦燥と苛立ちが混じり、どこか冴えない雰囲気が漂っている。


「アナスタシア。話がある」

 アレンは声を低め、意味ありげな目つきでアナスタシアを見つめた。

「かしこまりました。では客間へどうぞ」

 アナスタシアは穏やかに微笑みながら、彼を奥の応接室へと案内する。侍女たちが茶器を運び入れ、席を整える中、二人は部屋の奥にあるソファに向き合って座った。


 アレンは短く息をつくと、おもむろに口を開く。

「私は、君との婚約を破棄することにした。……理由は言わなくてもわかるだろう?」

 突き刺すような視線。かつての穏やかで気品ある笑顔は見る影もない。だが、アレンの瞳にはどこか焦りが混在しているようにもアナスタシアには思えた。

(自分が優位だと思っているんですのね。そんな顔をして、いったい何を言い出すのやら)


 アナスタシアは、あえて平然とした態度を崩さない。微笑を浮かべながら、そっと紅茶のカップをテーブルに置き、アレンに向き直った。

「わかりました。ですが、それには及びません。……すでにあなたの婚約は破棄されておりますので」

 その言葉に、アレンは思わず瞬きを繰り返した。

「……何を言っている?」

「私、先日、国王陛下に婚約破棄の申し出をいたしましたの。もちろん、陛下も了承済みですわ。ですので、あなたのその宣言は今更不要かと」


 アレンの顔から、さっと血の気が引いていくのがはっきりとわかる。アナスタシアは悪びれる様子もなく、淡々と言葉を続けた。

「あなたが私と婚約を結ぶ以前から、没落貴族のカリーナ様と深い関係にあったこと。さらに、最近に至るまでその関係を継続させていながら、公爵家と正式に婚約を結んだ事実。そうした不誠実な行動を、陛下にすべてお伝えしましたわ。もちろん、証拠も揃えてあります」

「お、俺がそんな……」


 動揺で声が上ずるアレンに、アナスタシアは微笑を深める。

「しかも、あなたはその事実を隠したまま、私に悪評を流して婚約破棄を狙っていたとか。……そちらの方も、もう陛下がお耳に入れられています。何か反論があるようでしたら、直接陛下に言いに行くとよろしいのではないかしら?」


 アレンは何度か口を開きかけるが、言葉にならないらしい。彼の表情には明らかな焦りが浮かんでいた。

「な……なんのつもりだ。カリーナと俺が会っていたのは……その……確かに昔からの知り合いではあるが、それ以上ではない……」

「まあ、そういう言い訳をなさるのであれば、それでも結構。ですが、この書簡をご覧になったらどうかしら?」


 アナスタシアは淡々とした調子で、小さな紙切れを取り出す。そこには、アレンがカリーナとの密会で交わしたとされる会話の断片や、アナスタシアを貶める計略に関する要点が、複数の証言とともに書き留められていた。もちろん、これは公爵家が独自に得た情報をまとめたもので、公の場に提出すればアレンにとって圧倒的に不利な状況を作り出すことができる代物だ。


「……っ」

 アレンが明らかに狼狽する。しかし、それでも彼は王子としてのプライドなのか、必死に言い返そうとする。

「だ、だが、婚約を破棄するのは俺のほうだ。俺が王子である以上、公爵家がどれほど偉いとはいえ、勝手に決めるなど許されないだろう!」

 声を荒げるアレンに、アナスタシアはむしろ呆れたように視線をそらした。

「あなたはまだ、その立場を理解していないのですね。……国王陛下がすでに認めてくださった、と申しましたでしょう。王家の権威が絶対であるこの国においては、国王陛下の裁可が最上でございますわ。それとも、あなたは実の父君の決定に楯突くおつもり?」

「……」


 アレンは言葉に詰まる。彼がどれほど自尊心を振りかざそうとも、すでに国王が裁可を下しているのであれば、それを覆すことは困難を極めるだろう。そもそも、自身の行動が公爵家のみならず、他の貴族や側近からも疑問視される事態となっているのだ。


 追い打ちをかけるように、アナスタシアは続ける。

「ですので、どうぞご安心くださいませ。私はもうあなたの婚約者ではございませんわ。カリーナ様とご婚約なさるなり、ご結婚なさるなり、ご自由になさってください。……ただし、公爵家は正当に慰謝料を請求させていただきますので、その点はお忘れなく。国王陛下のご命令とあらば、支払いを拒否することもできないでしょう」


 その言葉を聞くや否や、アレンは歯噛みするように顔をしかめる。一方で、アナスタシアは冷たく、しかしどこか優雅に微笑んでいた。

「以上が、私の伝えたいことです。……では、もうお帰りになられてはいかがですか? 私にはまだやるべきことがたくさんありますので」


 かつては王宮の社交界で「理想のカップル」と謳われた二人。しかし今、その優雅な空間には、重苦しい沈黙が流れる。アレンは何か言い返そうと必死に言葉を探すが、うまく声にならない。アナスタシアのほうは、既に興味を失っているかのように視線をそらし、まるでつまらぬ客を早々に退散させるかのような態度だった。


「……くそっ」

 低く呟いて立ち上がるアレン。彼は荒々しい足取りで応接室を後にし、その背後を侍女たちが遠巻きに見つめる。

 玄関先まで来たアレンは、なおも未練がましい表情を浮かべ、くるりと振り返った。まるで何か言おうとしているようにも見えるが、結局言葉にならず、ドアを力任せに閉めて馬車へと乗り込む。勢いよく馬車を走らせて屋敷を後にした。


 その足音も馬車の轟音も、すべてが公爵家の敷地から去っていくのを感じながら、アナスタシアは静かに息をつく。

(……これでいい。これ以上、王子に振り回されることもない)


 裏切られた悲しみや怒りがまったくなかったわけではない。しかし、アナスタシアは、かつての“婚約者”にそこまで心を砕いていなかったのだと気づく。政治的な繋がりで成立した婚約。本人同士の愛情が深まる前に、こんな形で破局を迎えた。だからこそ、胸の痛みは意外なほど薄い。むしろ、アレンの卑劣な企みと、それに加担するカリーナの存在を思えば、早めに関係を断ち切れたことはむしろ幸いだろう。


 アナスタシアはゆっくりと応接室に戻り、残された紅茶の湯気を眺める。

「お嬢様、いかがでしたか……?」

 控えていた侍女長が心配そうに声をかける。

「特に何も。……ただ、もう私たちには関係のない方ですよ。どうぞ、少し休めるように手配をお願いします。あの方のために立ちっぱなしだった皆様がお気の毒ですもの」


 アナスタシアはそう言うと、立ち上がって窓の外を見やる。朝の強い日差しが差し込む庭園には、先ほどと変わらない穏やかな時間が流れている。

(この先、あの方がどうなろうと、私は知らないわ。没落貴族の娘カリーナ様とどう転ぼうが、私には関係のないこと。第三王子であるからといって、好き勝手にできる時代はもう終わり――)


 そう考えた途端、アナスタシアの唇にわずかな笑みが浮かんだ。再び咲き誇るバラの香りがかすかに届いてくる。まるで、すべてが新たに始まることを告げるかのようだ。


 しかし、まだアナスタシアは知らない。数ヶ月後、彼女のもとに再びアレンが現れ、あり得ない提案――「再婚約」を求めてくるという未来を。

 けれど今は、そんな未来予想など考えもしなかった。アナスタシアは“公爵令嬢”として、そして一人の女性として、自ら選び取った結果に確かな手応えを感じ、静かな満足を覚えていた。




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