「ガロが、教主を捕らえた。そっちに行ってくる」
ガロから報告を受けたディアンが告げて、大広間の出口に足を向ける。
ディアンに頷くリディアは、周囲を見回す。
今は、砂礫が舞う部屋の中で、団員と捕らえた教団の者たちが、あちこちに散っていた。
「残党をさがせ!! 隠し部屋、隠し戸、仕掛けを見逃すな!」
ボウマンが叫んでいる。リディアは彼の背後から声をかける。
「ボウマン師。仕掛け専門の調査隊が来るまで、あまりいじらないほうが」
「では隠れている者がいたらどうするのだ!」
「それは、
「それはいいと言っただろう! それに、魔法の罠ぐらい見抜ける!」
今回の部隊は戦闘が目的の編成だから、建物の調査には向いていない。
それなのに、曰く有りげな建物を漁るのは危険すぎる。
リディアは慎重に行いたいが、ボウマンには通じない。
背後でディックが嘆息する。ボウマンにではなく、しつこく言うリディアに対してだろう。
ほっとけばいい、と言いたいのだろう。
納得いかない表情で黙るリディアも一息ついて、捕らえた教主の方に向かおうと背を向ける。
ここはボウマンに任せよう。
「――床下から、このようなものが見つかりましたが」
団員がボウマンに話しかける声。
思わず振り返り、足を止めたリディアは首を傾げる。
ボウマンが手に受け取ったのは、折り畳まれた銅板だ。
変色し緑青色の錆に包まれている。
釘で中央をいくつも貫かれており、さらに針金でグルグルと巻かれている。
用途が不明だ。魔力の残滓も見えないが、何故床下にこのようなものがあるのだろう。
「何だこれは」
ボウマンが釘を引き抜いて、床に捨てる。巻かれた針金も投げ捨てる。
(なにか、薄気味悪い。まるで執念のようなものを――)
「ちょっと待って!」
「おい! 止せ、触るな!」
リディアと、戸口のディアンの声が重なる。
けれど、その銅板は開かれていた。
顔を上げたボウマンのキョトンとした顔、その眼から突然紅い雫が垂れる。
(え!?)
大量の黒い蝿が、突然部屋に現れる。
「息を止めろっ! 下がれっ」
ディアンの声が響く。
皆が振り向き固まっていた。空中に黒い蝿が溢れ狂ったように飛び回る。
リディアは頭を貫くような激痛に、思わずしゃがみこんだ。
「わああああ――」
「何だこれは!」
誰かの魔法で風が起こされて蝿が吹き飛ばされる。
膝をついていたリディアは、頭を押さえる。
ズキン。ズキン。ズキン。
――割れそうに痛い。顔を押さえていた手を外すと、手の平には一面に赤いものがついていた。
(血……? なぜ?)
顔を拭うと、ぬるりとした感触。
鼻血か、いや、視界も赤い。耳に手を触れるとそこからも血がついていた。
鼻からも、目からも、耳からも、血が――流れている?
「呪詛板だ、貸せ!」
ディアンが叫んで、ボウマンの手から銅板を引き上げる。
「――テレサの腹から生まれし男ジョンを呪い給え。目から血を、鼻から血を、耳から血を、全身の穴から血を流し、死を与え給え。そしてこれを開封した者たちにも、同じように死を与え給え――クソ! 数百年前の呪詛だ」
ディアンが読み上げる声が、まるで違う世界のように反響して近くなったり遠くなったりする。
「早く、早く毒消しを」
「違う、治癒魔法だ!」
「リディア。ボウマンに治癒魔法を!」
顔を押さえてうずくまるディックが指をさすほうを見て、リディアは息を呑む。
そこには自らの血の海に沈むボウマンがいた。そばにいくと、土のような色の皮膚で、ピクピクと痙攣している。
迷わず治癒魔法を唱えるが、彼はピクリとも動かない。
――まだ死んでいない。
でもこれに必要なのは――蘇生魔法だろうか。
逡巡するリディアの肩を押さえるのはディアンだった。
彼もまた全身血まみれになりながら、口を歪めながら首を振る。
「毒でも、治癒魔法でも無理だ。呪いに魔法は効かない。呪いを解くしか――」
「でも、その方法は? 呪いを解く魔法なんて……知らない」
彼も口を閉ざす。彼の手から銅版が落ちる。
「方法は書いていない。術者はとうに死んでいる。それに――間に合わねぇよ」
「蘇生魔法を、蘇生をしてくれ!! ごほっ、リディア殿!! 」
壁際でヘイが血を吐きながら叫ぶ。蘇生魔法を唱えようとして、リディアは口を閉ざす。
(違う――。だって。死んでいない――誰も)
「リディア、こっちを向け。お前の体の流れを遅らせる。呪いの進行を遅らせる」
ディアンが、そう言い何かを詠唱し始める。
体の流れを遅らせる? それは、リディアの体内のめぐりを遅らせる魔法だ。
時間を止めることはできない。
けれど、血液の流れを、細胞の動きを、代謝を、神経の接続を遅らせる。
それは水と風と――ああ、一体どのくらいの魔法を絡めて行使するのか。
リディアにはその術式がまったくわからない。
(でも、それをしても、私だけ――)
詠唱しながら、ディアンは何度か咳き込む。
血を吐きながら、リディアだけに魔法をかける。自分でもなく、何故リディアなのだ。
(どうして、どうして――)
そうじゃない、けどそれしかない。
彼は助けようとしてくれている、リディアに望みを繋げようとしている。
でも皆が死んでしまう。――ディアンも死ぬだろう。
奥で、ディックが血の中に沈んでいる。大半の者があちこちで倒れる。
リディアは、震える手で銅板を拾い上げて上から下まで何度も見つめ直す。
それから、顔を上げてディアンを見つめ返す。
すると、彼は訝しげに見つめ返す。いつも感情の見えない目が、今は当惑している。
「リ……ディア?」
”――我が君よ、我ら人の体に命を与えしものよ。肉体の死を迎えし人間の、命の火を我にみせたまえ”
蘇生魔法の詠唱をしながら、目を閉じる。
――空間に全ての人間の生命の火を感じる。
これらは、肉体の死ではない、約束された死でない。
だから――生の魔法の管轄ではない。
去りゆく魂を肉体に留め、命の流れを引き寄せる蘇生魔法は効かない。
ただ空間に溢れているのは――いびつな呪い。黒い霧。それが命の上に被さっている。
(来なさい――こちらに)
「リディア、待て! 止めろ!」
ディアンの声が遠くで聞こえる。
彼の上に被る黒い呪いも、こちらに呼び寄せる。
去りゆく命の流れを引き寄せるかわりに、全ての呪いを呼び寄せる。
(黒い呪いよ。行き場をなくした怒りと悲しみ、黒い思いよ、こちらに来い)
蘇生魔法は、流れ行く命を自分に取り込んで、そして相手に戻す。
けれど今は、命ではなく空間に満ちた呪いによびかける。
やがて、彼らの命に混ざり取り付いていた黒い霧がこちらに流れてくる。
(そう、それでいい)
そして、リディアの中に呪いが流れ込む。
全身を巡る魔法の流れに呪いが混じり、そして――リディアは意識を失った。
――その日を堺に、世界から蘇生魔法は失われた。