「おめでとうございます。ご懐妊です。」
妊娠……だって?
灰崎陽葵(はいざき・ひまり)は信じられない思いで検査結果を見つめ、小さな胎芽に目を潤ませた。
四年——。ついに彼との子どもを授かったのだ。
一刻も早く夫・灰崎蒼空(はいざき・そら)にこの知らせを伝えたくて、家へと急いだ。
しかし、邸宅のドアを開けた瞬間、陽葵は立ち尽くした。
真っ赤なハイヒールが派手に玄関に転がっている。それは、この家に“侵入者”がいることを物語っていた。
靴、バッグ、服、アクセサリー……玄関から二階へと続く道に、無遠慮に広げられている。
一歩進むごとに、胸が締め付けられる。
二階の寝室のドアは半開き。
高ぶった女性の吐息と、男のあからさまな甘い囁きが、陽葵の耳を打つ。
「ねぇ、奥さんに見つかっても平気なの?」
男は嘲笑するように言った。
「見つかったって構わないさ。もともと君の“代わり”だったんだから」
陽葵はよろめき、手に持っていたバッグを落とした。
その音に反応し、二人は同時に振り返る。
長年連れ添った夫婦のような息の合い方で、まるで自分こそがこの家の“部外者”のようだった。
そして、その女の顔は陽葵にとってよく知ったものだった。
宮崎華恋(みやざき・かれん)——
灰崎蒼空の初恋の人。
四年前、灰崎家が海外の資本に狙われ、一夜にして破産した。
初恋の華恋は、すぐさま裏社会の権力者と結婚。
その男は蒼空を襲い、蒼空は命を危険に晒すほどの重傷を負った。
あの日、通りすがりだった陽葵が彼を助け、献身的に看病した。
酔った勢いで、彼は陽葵の初めてを奪い、その夜、指輪代わりのプルタブでプロポーズした。
「必ず家を再興し、君を幸せにする」と誓ったのだ。
結婚式も指輪もない。ただ一枚の婚姻届だけで、陽葵は彼の妻になった。
家業再建は想像を絶する苦労だった。
資金を集めるため、真夏の炎天下で着ぐるみ姿でチラシを配り、冷たい水も我慢した。
露店を出せば管理人に追い回され、食べるのは割引の見切り品、着るのは人からもらった古着。
そんな苦しい日々を二人で乗り越えた。
会社が軌道に乗ると、蒼空の付き合いも増え、陽葵は彼に付き添い、世話を焼いた。
二人きりの時間は少なかったが、まだ先は長いと信じていた。
半年前、蒼空はついに灰崎家を再興し、名門財閥の若き当主として東京で名を轟かせた。
ようやく二人で光の中に出られたと思ったのに、陽葵が掴んだ幸せは、彼によって一瞬で壊されたのだった。
ドアのわずかな隙間から真実が漏れ出し、もう自分を騙す余地もない。
二人は何の恥じらいもなくベッドに座り、互いに抱き合っていた。
「蒼空、説明して」
陽葵は震える声で問い詰めた。
華恋が蒼空に煙草を差し出す。
彼は低い声で、まるで他人事のように言った。
「見ての通りだよ。俺たちは元に戻ったんだ」
何を言っているの?相手は既婚者なのに。
「彼女は結婚してるでしょ!」
蒼空は勝ち誇ったように微笑んだ。
「修羅門の組織は俺が潰した」
修羅門——華恋の夫が率いていた組織。
つまり、華恋のために組織を潰し、彼女を取り戻したのだ。
ずっと華恋が忘れられなかったの?
あの時、何もかも失った彼を華恋が捨てたのに、それでも愛し続けていたの?
「じゃあ、私は……?」
陽葵は震えながら問いかけた。
蒼空は何も言わず、冷笑を浮かべた。
陽葵は悟った。自分はただの“代わり”だったのだと。
四年間の支えも、共にした苦労も、全てが彼にとっては意味のないことだった。
ただ一人で感動し、ただ一人で尽くしてきただけ——。
陽葵の心は崩壊した。
こんな仕打ちは許せない。
二人の間に割って入ろうとしたが、蒼空は容赦なく陽葵を突き飛ばした。
壁にぶつかって床に崩れ落ち、瞬間、下腹部に激しい痛みが走る。
華恋は蒼空の胸元をなぞりながら、わざとらしく声を上げる。
「冷たい人ね。ほら、奥さん、血を流してるわよ」
腿を伝って、真っ赤な血が床に広がっていく。
だめ、子ども……!
陽葵は震える体で必死に訴えた。
「お願い、病院に連れて行って。私、お腹に子どもがいるの……」
「子ども?」
蒼空は興味なさそうに陽葵を見下ろす。
「ちょうどよかった。どうせ役に立たない子どもなんて、いらないし」
その言葉に、陽葵の心は凍りついた。
蒼空はベッドにもたれ、裸の胸元には華恋の爪痕が残る。
影を落とす眉の下、冷たい目が陽葵を突き刺す。
かつて愛した人の姿なのに、もうまるで別人だった。
病院に運ばれた時、白いワンピースは血で染まり、陽葵は医師の白衣を掴んで必死に頼んだ。
「お願いします、どうか私の子どもを助けて……」
だが、その願いも空しく、子どもは帰らぬものとなった。
蒼空は、何もせず、我が子が消えていくのをただ見ていた。
これほどまでに冷酷な人だったとは。
さらに彼は、東京タワーで華恋に向けて一晩中花火を打ち上げ、愛を誓った。
誰もが二人を祝福する中、陽葵は病室のベッドで、涙を流し続けていた。
四年間の全てが、この瞬間、終わりを迎えた。
「離婚しょう」
翌朝、陽葵は用意していた離婚届を蒼空の前に置いた。
蒼空は眉をひそめ、苛立ちを隠せない。
陽葵が自分に離婚を突きつけるなんて、あり得ない——そう思っている。
自分を深く愛し、どこまでも従順だった女が、たった一度の裏切りと子どもを失ったくらいで、離婚を言い出すなんて。
自分は今や灰崎グループの当主。愛人がいても不思議じゃない。
子どもだって、また作ればいい。離婚の一言で自分を動かせると思っているのか?
彼はソファにふんぞり返り、軽蔑の色を隠さない。
「いいだろう。財産分与なしで出て行け」
「分かったわ。」
陽葵は即座に答え、蒼空はさらに不快そうに顔をしかめた。
「後悔するなよ」
陽葵はもう彼を見上げたりしない。
そこにあるのは、かつての愛ではなく、静かな決意だけだった。
「後悔なんて、しないよ」
その態度に、蒼空は苛立ちを隠せなかった。
まるでゴミでも捨てるかのような、あっさりとした別れ方だった。
その日のうちに二人は離婚届を提出し、裁判所で正式に婚姻関係を解消した。
外に出ると、空には雲ひとつない青空が広がっていた。
長年背負ってきた重荷が一気に消え去り、体が宙に浮くような解放感に包まれる。
陽葵は離婚届を大切にしまい、四年愛し続けた男を振り返って、微笑んだ。
「さようなら、灰崎さん」
これからはもう、灰崎陽葵ではない。ただの陽葵、一条陽葵として、新しい一歩を踏み出すのだった。