言い終えると、陽葵は一度も振り返らず、まっすぐに去った。
蒼空はその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
胸の奥で、妙な苛立ちが渦巻く。
あんなに晴れやかな顔で、何を笑っているんだ。
離婚して、そんなに嬉しいのか?
そんなはずはない。きっと平気なふりをしているだけだ。内心はどれほど辛いことか。
どこまで我慢できるのか見ものだ。
どうせそのうち、泣きながら戻ってきて復縁を頼むんだろう。
蒼空は鼻で笑うと、さっさと車に乗り込んだ。
陽葵は、ほとんど何も持たずに家を出た。
この別荘は、会社が軌道に乗り始めた頃に蒼空が購入した、二人の最初の家だった。
当時は何もなくて、彼女はそれまで住んでいたアパートの荷物をすべて運び込んだ。
蒼空の収入が増えるにつれ、昔のものはほとんど片付けられてしまった。
今、彼女が持ち出せるのは、せいぜい昔の服くらいだ。
陽葵は手慣れた様子でパスワードを入力した。
「ピピッ、パスワードが違います。」
もう一度入力しても、やはりエラー。
そこで気づいた。蒼空がパスワードを変えた。
陽葵は頭上の監視カメラを見上げた。
「パスワードを教えて。私は自分の荷物を取りに来ただけ。」
蒼空の声がインターホン越しに響く。
「君の荷物?この家に君のものなんてあったか?ここにあるものは全部、俺が買ったものだ。」
「ただの古い服よ。」
彼女は感情を押し殺して言った。
「ああ、あのボロ服のことか。もう処分させたよ。邪魔だったからな。」
陽葵は指をぎゅっと握りしめ、何とも言えない気持ちになった。
それらの服に値打ちはなかったけれど、大切だったのは、当時の思い出だ。
生活が辛い時期、春夏秋冬、同じ服を着続け、ある日道端で誰かが不要になった服を捨てているのを見て、陽葵は許可をもらって、その中からまだ使えそうなものを選び、蒼空に渡した。
彼は最初は気に入らなかったが、陽葵はなだめるために自分も同じように服をあさって着てみせた。
やがて生活が豊かになり、蒼空は彼女に高価なものを次々と買い与えたが、あの頃の温もりは二度と戻らなかった。
蒼空の言う通りだ。いらないものは捨ててしまえばいい。
未練なんて、持つべきじゃない――
晴れていた空が、突然曇り始めた。
雷が鳴り響き、雨粒が顔に打ちつける。
蒼空は監視カメラのモニターを持ったまま、画面の中で陽葵が嵐の中へと歩み去る姿を見つめていた。強風が彼女の細い背中を叩きつけ、今にも吹き飛ばされそうだ。
自業自得だ。灰崎家の妻として大人しくしていればよかったものを、どうしてわざわざ俺に逆らう。
痛い目でも見ないと、この家の主が誰なのか分からせられないね。
彼はすでに彼女のカードを全て止めていた。
もしも陽葵が謝りにこなければ、絶対に戻すつもりはない。
だが、蒼空は考えもしなかった。
陽葵が本気で自分のもとを離れるとは――
彼はそのまま享楽に身を沈めた。
ラスベガスで一晩に何億も賭け、美しい女性たちと贅沢な日々を過ごし、クルーズや世界旅行、宮崎華恋と情熱的な時間を重ねていった。
時折、陽葵のことを思い出しても、心の中で嘲笑うだけだった。せっかくの生活を捨てて、強がるなんて。
そうして、知らぬ間に一ヶ月近くが過ぎた。
二人は再び東京に戻ってきた。
この頃、宮崎華恋は蒼空の様子がどこかおかしいと感じていた。
いつもなら彼は彼女の体を求めてやまないのに、ここ数日、ほとんど触れてくれない。どんなに誘っても、たまに応じてもあっさりと終わってしまう。
今日も彼女は、蒼空がバルコニーでタバコをくゆらせ、眉間にしわを寄せているのを見かけた。
「会社で何か問題でもあったの?」
真っ赤な指先で、後ろから彼の肩に手を伸ばし、挑発する。
蒼空はその手をつかむ。
「やめろ。」
華恋は不満げに拳で彼を軽く叩いた。
「もう、どうしたのよ。最近全然相手してくれないじゃない。」
「ちょっと忙しいんだ。」
男はイライラした様子だった。
「ねぇ、まさか陽葵のこと考えてるんじゃないでしょうね?」
まさか。
思い出すとすれば、今ごろどれだけみじめな暮らしをしているか、離れたら何もできないだろう、ということくらいだ。
「考えてない。」
「それならいいのよ。あなたのために、あの男の元で辛い思いもしてきたし、いろいろな人脈も紹介したわ。あなたがこの四年でここまで来られたのは、全部私のおかげよ。もし裏切ったら、絶対許さないから。」
蒼空は彼女をちらりと見た。
この数年、様々な人が提携話を持ちかけてきたが、それは灰崎グループの成長性を評価してのことだと思っていた。
だが華恋に真相を明かされ、彼女が背後で自分のために動いていたと知った。
「馬鹿なこと言うな。俺がどれだけ君を大事にしてるか、分かってるだろ?」
蒼空はタバコを置き、彼女を抱き上げた。
「この小悪魔め、そのうち俺を骨抜きにする気か。」
華恋は彼の首に腕を回した。
「全部奪い尽くして、他の女のことなんて考えさせないんだから。」
熱を帯びた空気が、部屋中に満ちていく。
もう少しで二人の時間が始まろうとしたとき、突然、電話の着信音が鳴り響いた。
華恋は彼の手を押さえて、甘えるように見上げる。
「取引先からだ。」
蒼空は電話を持ってバルコニーに出ると、再びタバコを手にした。
「こんにちは、カイルさん。」
流暢な英語で応じる。
「明日、妻と一緒に帰国します。出発前に、灰崎さんご夫妻とぜひ食事をしたいのですが。」
陽葵と食事?面白い。
ふと気づけば、陽葵が去ってからもうすぐ一ヶ月になる。
この間、彼女からは一切連絡もなく、まるでこの世に存在しないかのようだ。
意地が強い女だ。全てのカードを止めたのに、お金もないはず、どうやって暮らしているんだろう。
陽葵のことを考えると、言い知れぬ苛立ちが湧き上がるが、その理由は自分でも分からない。
「灰崎さん、聞こえていますか?」
はっとして、すぐに返事をした。
「ええ、カイルさん。ぜひご一緒しましょう。」
華恋はドアのそばで会話を聞いていた。英語は苦手だが、「食事」という単語くらいは分かった。
取引先との食事だと察して、彼女はドレスルームへ向かった。
陽葵が出て行った後、華恋はこの家に引っ越し、陽葵の持ち物をすべて処分してしまった。
今クローゼットに並ぶのは、蒼空が新しく用意した最高級ブランドの服やアクセサリーばかりだ。
今日こそ華やかに登場して、灰崎家の新しい妻は自分だと世間に知らしめてやる――
そう準備を進めている間に、蒼空はすでに身支度を終え、アシスタントに陽葵の住まいを調べさせて、そちらへ向かった。
陽葵の新しい住まいは、東京の外れにある古びた団地だった。
八十年代の建物で、六階建て。エレベーターはなく、階段を上るしかない。
廊下には埃とクモの巣が張り巡らされ、不要品が山積みされていて、ただでさえ狭い通路がさらに窮屈に感じられる。
蒼空はハンカチで口元を覆い、身をすぼめて歩いた。周囲の汚れに少しでも触れないように。
陽葵がこんな場所に住んでいるとは。俺と別れて、随分と落ちぶれたものだ。今ごろ後悔しているだろう。
自分の姿を見れば、きっと感動して泣いてすがりついてくるはずだ。
蒼空は顎を上げて、アシスタントにドアをノックするよう指示した。
中から明るい女性の声が響く。
「はーい!」
扉が開くと、陽葵が現れた。周囲の環境とはまるで不釣り合いな蒼空の姿を見て、彼女は動じることなく、冷たく距離を置いた声で問いかけた。
「何の用?」