目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第二話


言い終えると、陽葵は一度も振り返らず、まっすぐに去った。


蒼空はその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。


胸の奥で、妙な苛立ちが渦巻く。


あんなに晴れやかな顔で、何を笑っているんだ。

離婚して、そんなに嬉しいのか?

そんなはずはない。きっと平気なふりをしているだけだ。内心はどれほど辛いことか。


どこまで我慢できるのか見ものだ。

どうせそのうち、泣きながら戻ってきて復縁を頼むんだろう。


蒼空は鼻で笑うと、さっさと車に乗り込んだ。


陽葵は、ほとんど何も持たずに家を出た。

この別荘は、会社が軌道に乗り始めた頃に蒼空が購入した、二人の最初の家だった。

当時は何もなくて、彼女はそれまで住んでいたアパートの荷物をすべて運び込んだ。

蒼空の収入が増えるにつれ、昔のものはほとんど片付けられてしまった。

今、彼女が持ち出せるのは、せいぜい昔の服くらいだ。


陽葵は手慣れた様子でパスワードを入力した。


「ピピッ、パスワードが違います。」


もう一度入力しても、やはりエラー。


そこで気づいた。蒼空がパスワードを変えた。


陽葵は頭上の監視カメラを見上げた。

「パスワードを教えて。私は自分の荷物を取りに来ただけ。」


蒼空の声がインターホン越しに響く。

「君の荷物?この家に君のものなんてあったか?ここにあるものは全部、俺が買ったものだ。」


「ただの古い服よ。」

彼女は感情を押し殺して言った。


「ああ、あのボロ服のことか。もう処分させたよ。邪魔だったからな。」


陽葵は指をぎゅっと握りしめ、何とも言えない気持ちになった。


それらの服に値打ちはなかったけれど、大切だったのは、当時の思い出だ。


生活が辛い時期、春夏秋冬、同じ服を着続け、ある日道端で誰かが不要になった服を捨てているのを見て、陽葵は許可をもらって、その中からまだ使えそうなものを選び、蒼空に渡した。

彼は最初は気に入らなかったが、陽葵はなだめるために自分も同じように服をあさって着てみせた。


やがて生活が豊かになり、蒼空は彼女に高価なものを次々と買い与えたが、あの頃の温もりは二度と戻らなかった。


蒼空の言う通りだ。いらないものは捨ててしまえばいい。

未練なんて、持つべきじゃない――


晴れていた空が、突然曇り始めた。

雷が鳴り響き、雨粒が顔に打ちつける。


蒼空は監視カメラのモニターを持ったまま、画面の中で陽葵が嵐の中へと歩み去る姿を見つめていた。強風が彼女の細い背中を叩きつけ、今にも吹き飛ばされそうだ。


自業自得だ。灰崎家の妻として大人しくしていればよかったものを、どうしてわざわざ俺に逆らう。

痛い目でも見ないと、この家の主が誰なのか分からせられないね。


彼はすでに彼女のカードを全て止めていた。

もしも陽葵が謝りにこなければ、絶対に戻すつもりはない。


だが、蒼空は考えもしなかった。

陽葵が本気で自分のもとを離れるとは――


彼はそのまま享楽に身を沈めた。

ラスベガスで一晩に何億も賭け、美しい女性たちと贅沢な日々を過ごし、クルーズや世界旅行、宮崎華恋と情熱的な時間を重ねていった。


時折、陽葵のことを思い出しても、心の中で嘲笑うだけだった。せっかくの生活を捨てて、強がるなんて。


そうして、知らぬ間に一ヶ月近くが過ぎた。


二人は再び東京に戻ってきた。


この頃、宮崎華恋は蒼空の様子がどこかおかしいと感じていた。

いつもなら彼は彼女の体を求めてやまないのに、ここ数日、ほとんど触れてくれない。どんなに誘っても、たまに応じてもあっさりと終わってしまう。


今日も彼女は、蒼空がバルコニーでタバコをくゆらせ、眉間にしわを寄せているのを見かけた。


「会社で何か問題でもあったの?」

真っ赤な指先で、後ろから彼の肩に手を伸ばし、挑発する。


蒼空はその手をつかむ。

「やめろ。」


華恋は不満げに拳で彼を軽く叩いた。

「もう、どうしたのよ。最近全然相手してくれないじゃない。」


「ちょっと忙しいんだ。」

男はイライラした様子だった。


「ねぇ、まさか陽葵のこと考えてるんじゃないでしょうね?」


まさか。

思い出すとすれば、今ごろどれだけみじめな暮らしをしているか、離れたら何もできないだろう、ということくらいだ。


「考えてない。」


「それならいいのよ。あなたのために、あの男の元で辛い思いもしてきたし、いろいろな人脈も紹介したわ。あなたがこの四年でここまで来られたのは、全部私のおかげよ。もし裏切ったら、絶対許さないから。」


蒼空は彼女をちらりと見た。

この数年、様々な人が提携話を持ちかけてきたが、それは灰崎グループの成長性を評価してのことだと思っていた。

だが華恋に真相を明かされ、彼女が背後で自分のために動いていたと知った。


「馬鹿なこと言うな。俺がどれだけ君を大事にしてるか、分かってるだろ?」

蒼空はタバコを置き、彼女を抱き上げた。

「この小悪魔め、そのうち俺を骨抜きにする気か。」


華恋は彼の首に腕を回した。

「全部奪い尽くして、他の女のことなんて考えさせないんだから。」


熱を帯びた空気が、部屋中に満ちていく。


もう少しで二人の時間が始まろうとしたとき、突然、電話の着信音が鳴り響いた。


華恋は彼の手を押さえて、甘えるように見上げる。


「取引先からだ。」

蒼空は電話を持ってバルコニーに出ると、再びタバコを手にした。


「こんにちは、カイルさん。」

流暢な英語で応じる。


「明日、妻と一緒に帰国します。出発前に、灰崎さんご夫妻とぜひ食事をしたいのですが。」


陽葵と食事?面白い。

ふと気づけば、陽葵が去ってからもうすぐ一ヶ月になる。


この間、彼女からは一切連絡もなく、まるでこの世に存在しないかのようだ。

意地が強い女だ。全てのカードを止めたのに、お金もないはず、どうやって暮らしているんだろう。


陽葵のことを考えると、言い知れぬ苛立ちが湧き上がるが、その理由は自分でも分からない。


「灰崎さん、聞こえていますか?」


はっとして、すぐに返事をした。

「ええ、カイルさん。ぜひご一緒しましょう。」


華恋はドアのそばで会話を聞いていた。英語は苦手だが、「食事」という単語くらいは分かった。

取引先との食事だと察して、彼女はドレスルームへ向かった。


陽葵が出て行った後、華恋はこの家に引っ越し、陽葵の持ち物をすべて処分してしまった。

今クローゼットに並ぶのは、蒼空が新しく用意した最高級ブランドの服やアクセサリーばかりだ。


今日こそ華やかに登場して、灰崎家の新しい妻は自分だと世間に知らしめてやる――

そう準備を進めている間に、蒼空はすでに身支度を終え、アシスタントに陽葵の住まいを調べさせて、そちらへ向かった。


陽葵の新しい住まいは、東京の外れにある古びた団地だった。


八十年代の建物で、六階建て。エレベーターはなく、階段を上るしかない。

廊下には埃とクモの巣が張り巡らされ、不要品が山積みされていて、ただでさえ狭い通路がさらに窮屈に感じられる。


蒼空はハンカチで口元を覆い、身をすぼめて歩いた。周囲の汚れに少しでも触れないように。


陽葵がこんな場所に住んでいるとは。俺と別れて、随分と落ちぶれたものだ。今ごろ後悔しているだろう。

自分の姿を見れば、きっと感動して泣いてすがりついてくるはずだ。


蒼空は顎を上げて、アシスタントにドアをノックするよう指示した。


中から明るい女性の声が響く。


「はーい!」


扉が開くと、陽葵が現れた。周囲の環境とはまるで不釣り合いな蒼空の姿を見て、彼女は動じることなく、冷たく距離を置いた声で問いかけた。


「何の用?」



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?