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第三話


期待していた反応が見られず、蒼空は苛立ちを隠せなかった。


彼はドアの前に立つ人物をじろりと見やる。


レモンイエローのラフな部屋着に、元気なシニヨン。晴れやかな笑顔で、雰囲気も自分と一緒にいた時より何倍も明るい。


ますます気分が悪くなる。


なぜ彼女は自分と別れて、こんなに楽しそうに暮らしているんだ?

自分と一緒にいた時は、そんなに不幸せだったのか?


どれほど幸せなのか、見せてもらおうじゃないか。


蒼空は陽葵を押しのけて、勝手に部屋へ入った。


1LDKの間取りで広くはない。身長187センチの蒼空が立つと、リビングの大部分が彼で埋まってしまう。


リビングの中央には四角いテーブル。その上には食べかけのインスタントラーメンと、周囲にはお菓子の袋が散らかっている。


これが…?


狭くて質素で、しかも汚れた小さな部屋。

本当に、こんな生活が豪邸や高級車より幸せだというのか?


ふん。そんなこと、蒼空は信じない。


苦しかったあの時期を思い出すだけで、今でも耐えられないのに。

ましてや、彼女は女性だ。


どうせ、こんなふうにしているのも自分に見せるための演技だろう。

きっと、本当に捨てられるのが怖くて、わざと可哀想なふりをしているに違いない。


女のこういう駆け引きは、何度も見てきた。

まあ、そこまで必死なら、チャンスをやらないこともない。


「今ここで謝れば、今までのことは水に流してやる。ただし、別荘にあったお前の荷物は全部処分したからな。これから俺を満足させれば、また新しいものを買ってやってもいい。」


蒼空は陽葵の姿を横目で見た。


今度こそ、感激して泣き出すはずだ。今までの女たちには、こんな待遇は一度もなかった。


陽葵は大きな目でじっと彼を見つめた。


……この人、頭がおかしいんじゃない?


わざわざ自分のところへ来るだけでも不思議なのに、訳の分からないことを言い出している。


誰が、今の生活が不幸だと言った?

誰が、あなたのところに戻りたいと言った?


離婚してから、自分の好きなように生きられる。

食事の心配も、家事も、彼の世話もいらない。


飲み過ぎていないか、体調を崩していないか、そんなこと考える必要もない。


食べたい時に食べ、寝たい時に寝る。思いのままにだらけられる。

これ以上、幸せなことなんてない!


「灰崎さん、念のため言っておきますけど、私たちはもう離婚しています。あなたと完全に終わったと何度も伝えました。なぜ急にここに現れたのかわかりませんが、これが最初で最後になることを願います。どうぞ、今すぐ帰ってください。」


「一条陽葵……」

フルネームを呼ぶのは、それだけ怒っている証拠だ。


だが陽葵は一切気にせず、強引に彼を部屋の外へ押し出し、目の前でバタンと大きな音を立ててドアを閉めた。


舞い上がった埃が、蒼空の高級スーツに降りかかる。


ぴたりと閉じられたドアを見つめ、蒼空の顔が歪む。

彼女が、こんな態度を取るなんて。


くそっ、一条陽葵……

認めたくはないが、確かに彼女は自分の関心を引くことに成功した。


今すぐもう一度ドアを蹴破って、彼女を引きずり出してやりたい気分だった。


傍らで見ていた秘書は、怒り心頭の社長を見ながら、心の中で呟いた。

——本当に社長をここまで怒らせられるのは、陽葵さんだけだろうな……


だが蒼空の登場も、陽葵の心を乱すことはなかった。


彼女にとって蒼空は、もはやどうでもいい他人。


愛していた時は全力で尽くし、愛が冷めたら一切未練は残さない。


ラーメンを食べ終え、部屋を片付ける。


そして、可愛いキツネのお面をつけて配信を始めた。


蒼空が最も苦しんでいた数年は、ネット配信が大きく成長した時期でもあった。


二人で生きていくため、陽葵はこっそり配信アカウントを作り、歌配信を始めたのだ。


学生時代から歌を学んでいた彼女は、その多彩な声色を武器に、三年で数多の配信者の中から頭角を現し、トップ配信者となった。


今やフォロワーは百万人を超える。


キツネのお面をつけているため、リスナーたちは彼女を“小狐”と呼んでいる。


配信開始と同時に、ファンが一斉に集まってくる。


【小狐が来た!】


【小狐、「スーパーカー」(サイト内で贈れるギフトのひとつ」を贈るから「MY ALL」を歌ってほしい!】


ランキング1位のファンは、リクエストができる。


だが、スーパーカーのギフトは一瞬で消え、すぐに99本の「ロケット花火(同じくギフトのひとつ)」に押しのけられた。


画面いっぱいに特効演出が溢れ、配信ルームのトップで何度も流れる。


「変身できる九尾さんが“二尾の狐”に99本のロケット花火をプレゼント!」


“二尾の狐”は陽葵の配信名だ。


陽葵は立ち上がり、お辞儀して感謝する。

「変身できる九尾さん、99本のロケット花火ありがとうございます。リクエスト曲はありますか?」


【変身できる九尾:歌はいいから、マスクを外して顔を見せてくれたら、さらに10組のロケットをプレゼントするよ!】


コメント欄が一気に盛り上がる。


【マスクを外して!】


【顔を見たい!】


皆が彼女にマスクを外すよう求めている。


配信している間、何度もファンから顔を見せてほしいと言われてきた。


だが、陽葵はいつも無視してきた。そのうち、アンチから「ファンを無視している」「ブサイクだから顔を見せない」などと言われるようになった。


それでも、陽葵は一切反応しない。


配信で顔を隠していたのは、当時の蒼空のプライドを気遣ってのことだった。

彼が自分の稼ぎを使うのを嫌がると思っていたからだ。


後に彼が社長になり、彼女は社長夫人となった。

その立場ではますます素顔を晒せなかった。


そして今、自由の身になったけれど、マスク越しの生活にすっかり慣れてしまった。


彼女が何も言わないうちに、今度は「ロケット花火」が「「カーニバル」(一番高価なギフト)」に押しのけられる。


「カーニバル」ギフトが途切れることなく、5分間も続いた。


好奇心旺盛なリスナーが数を数え続け、終わった時には——


【1000個!1000個の「カーニバル」、300万円だよ!】


【新参さんかな?この「カーニバル」を贈ってる人は“あなたの後ろに”って人で、小狐のランキング1位なんだ。配信が始まるたび最初の5分間は必ず「カーニバル」を贈ってるよ】


【すごすぎて土下座したい】


【いやいや、俺は土下座じゃなくて“あなたの後ろに”さんの子になりたい】


陽葵がランキングを見ると、1位にはいつものアイコンがあった。


真っ黒な背景に、少し長めの髪の後ろ姿。


“あなたの後ろに”は、3年前の配信開始以来、ずっと彼女を見守ってくれているファンだ。


コメントもほとんどせず、他のファンのようにリクエストを求めることもない。


ただ静かに配信を見て、時折「カーニバル」を贈ってくれる。


配信を始めたばかりの頃、収入のほとんどがこの“あなたの後ろに”からのものだった。


彼女はそのお金で自分と蒼空の生活費を賄い、さらにある程度の資金を匿名で灰崎グループに投資した。それが彼の起業資金の第一号だった。


今や蒼空と別れたが、“あなたの後ろに”は今も変わらず見守ってくれている。


ふと思い立ち、陽葵は言った。

「“あなたの後ろに”さん、今日は特別に歌を贈ります。曲名は『あなたの後ろに』。」


音楽が流れ始める。


陽葵は目を閉じ、歌に身を委ねた。


柔らかな歌声がマスク越しに配信を通り抜け、聴く者すべての心に染み渡る。

不安を静め、心を優しく包み込む。


配信ルームはこれまでにない静けさに包まれ、誰もが余韻に浸り、魂が洗われるような感覚に酔いしれた。


歌が終わると、画面にはたくさんのギフトが溢れる——

だが、やはり一番目立つのは“あなたの後ろに”からの「カーニバル」だった。



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