深夜まで配信を続け、視聴者たちに手を振って別れを告げた陽葵は、配信を切り、立ち上がって軽く体をほぐした。
窓の外には、月明かりが静かに広がっている。
あの晩、灰崎家を後にしたあと、雨に濡れたせいで高熱を出し、ホテルで三日間寝込んでいた。ようやく熱が下がり目を覚ますと、すぐに新しい住まいを探し始めた。
この場所を選んだのは、どこか心が落ち着く静けさを感じたからだ。
しかも、ここから見える星空は本当に美しい。都心で暮らしていた数年間、こんなにきれいな星空を見たのは久しぶりだった。
ここでは、心も体も自由でいられる——。
大きくあくびをして、シャワーを浴び、ベッドに潜り込む。抱き枕をぎゅっと抱きしめ、虫やカエルの鳴き声を子守唄に、すぐに深い眠りに落ちた。
翌朝七時には目が覚めた。それは長年、蒼空のために身についた習慣だ。
蒼空は早くから出勤することが多く、体を壊さないようにと毎日朝食を作っていた。そのうち自然と、早起きが体に染みついてしまったのだ。
もう一か月も離れて暮らしているのに、この習慣はなかなか抜けない。
陽葵も、無理に変えようとは思わなかった。
朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、活気あふれる街を走り、好きなものを買い込む。そんな朝は一日中いい気分で過ごせる。
マンションの下にある花屋の前を通りかかると、入り口に並べられたキキョウの花がひときわ鮮やかに咲いていた。
思わず一束と、花瓶も一緒に買ってしまう。窓際に飾って、太陽と風を感じながら過ごそう—そんなことを考えていた。
だが、店の入り口に立つ蒼空の姿を見た途端、その穏やかな気持ちは一気に消え去ってしまった。
仕立ての良いスーツに身を包み、手にはエルメスの紙袋。厳しい表情で立っている。
……どうしてまたここに?
昨日、あれほどはっきりと言ったのに、彼には伝わっていなかったのだろうか。
陽葵は眉をひそめ、どうして自分を振ったくせに、まだこうして現れるのか理解できなかった。
せっかく新しい生活に慣れてきたのに、もう誰にも邪魔されたくない——それが本音だった。
蒼空も、歩いてくる陽葵に気づいた。
彼は無言で紙袋を差し出し、目線をそらしながら一言。
「これ。」
だが、陽葵はそのまま彼の前を通り過ぎ、部屋のドアを開けて中に入った。
まただ、昨日は問い詰められ、今日は無視か!
以前の陽葵は素直で従順で、彼に逆らうことなどなかったのに、今の彼女はまるで人が変わったようだ。
イライラした蒼空は、紙袋を床に叩きつけ、陽葵の腕を強く引き寄せた。
「いい加減にしろ、一条陽葵、もう三度目だ。いい気になるな!」
見下すような目つきで、怒りを露わにする。
「もう十分譲歩した。君はカイル夫妻に言い含めて、俺を呼び出したんだろう?結局、俺に来てほしかっただけじゃないか。後悔しても知らないぞ。」
会社のためなら自分から頭を下げることもできるが、彼女のこの態度だけは絶対に許せなかった。
陽葵は冷ややかに蒼空を見つめた。
以前なら、彼に責められると怯えて、自分に全ての非があると思い込んでいた。でも今は違う。もう、ただただ煩わしいだけだった。
それに、いつ自分がカイル夫妻に?
呆れるしかない。彼の自己中心的な思い込みにも、自分がかつてこんな人を愛していたことにも。
陽葵は静かに蒼空の手を振りほどいた。
その目には、もはや何の感情も浮かんでいない。
「食事でしょ?分かった、行くわ。でもちゃんとカイル夫妻には伝えておく。私と灰崎蒼空はもう離婚して、何の関係もないって。これからはあなたのことも、私には一切関係ない。」
蒼空は拳を握りしめた。「これからは一切関係ない」——その言葉が、どうしようもなく胸に刺さる。
ぶつけどころのない感情が、彼を苦しめる。
それなのに、陽葵はまるで自分が勝者かのようにふるまう。何も持たず、離婚して落ちぶれた彼女が、なぜ自分にそういう態度を取れるのか。
本来、誇り高くあるべきなのは自分のはずだ。
「今日言ったこと、忘れるな!」
二人は険悪な空気のまま、それぞれ去っていった。
――
昼、蒼空が手配したホテルの個室にて。
陽葵は約束通り現れた。
カイルは五十代半ばの恰幅のいい男性で、流暢なロンドン英語を話し、穏やかな笑顔を浮かべている。
その隣にいる黒髪の女性が、カイル夫人の松下恵美で、日本人だ。
「陽葵さん、来てくれてありがとう。こっちに座って」と恵美が陽葵の手を取り、隣に座らせた。
「久しぶりね、元気にしてた?」
「ご心配いただきありがとうございます。おかげさまで元気にしています。」
二人は和やかに手を重ね合う。
だがその時。
「遅れてごめんなさい」と、そこへドアが開いて現れたのは、宮崎華恋だった。
派手なシルバーのマーメイドドレスが、彼女の豊満な体を強調している。ダイヤモンドネックレスは目を奪うほどで、耳元のダイヤのピアスもまた、あまりに大きく、耳たぶが痛くならないのかと心配になるほどだ。まるで、自分の富を見せびらかすための装いだ。
陽葵は思わず小さく笑みをこぼした。その一瞬の微笑みが、蒼空には平手打ちよりも堪えた。
「何しに来た!」
蒼空はすぐに立ち上がり、華恋を止めようとする。
華恋はそれをかわして中に入ろうとする。
「私はあなたの婚約者よ。来てはダメなの?」
恵美の隣に座る陽葵を見る。
昨夜から華恋は、蒼空が食事に連れて行ってくれるのを楽しみにしていた。けれど帰宅した彼は、「今日は陽葵と食事する」と怒ったように言った。
離婚した女性がまだ灰崎家の妻の座にいることが許せず、今日は自分の存在を示すためにやって来たのだ。
「カイルさん、恵美さん、はじめまして。私は蒼空の婚約者、宮崎華恋と申します。」
蒼空は彼女の手をつかみ、低い声で「帰れ」と言うが、華恋は振り払う。
「嫌よ。」
二人はその場で揉め続ける。
恵美は陽葵の手を取り、不思議そうに尋ねた。
「陽葵さん、灰崎さんとは……」
カイルも視線を向けてくる。
「ちょうどお伝えしようと思っていました」と、陽葵は穏やかに微笑み、目の前で言い合う二人を見ながら続けた。
「私と灰崎さんはすでに離婚しています。今、彼の婚約者は宮崎さんです。」
恵美はすぐに察した。宮崎華恋が蒼空と陽葵の間に割り込んだのだと。
カイルは国際的な投資会社の重役で、周囲には様々な女性が寄ってくる。恵美は、こうしたトラブルメーカーが大嫌いだ。
華恋が蒼空と陽葵の仲を壊したと知り、彼女への好感は一気に失せ、蒼空にも冷ややかな思いを抱く。
恵美は陽葵のTシャツを見ながら、はっきりと言った。
「今日は家族だけの集まりなんだから、こういうラフな服装が一番なのよ。むしろ、誰かさんみたいに派手に着飾って、注目を集めようとする方が不自然じゃない?」
陽葵は一瞬驚き、恵美の意味ありげな視線に、小さく微笑んだ。
華恋の顔色がさっと青ざめる。
彼女は陽葵より目立とうと、特注のドレスを着てきたのだ。ラスベガスで蒼空が贈ったダイヤモンドのセットに、6カラットのピアスまでつけて——。