個室に入ると、陽葵はシンプルなTシャツにジーンズ姿で、長い髪も無造作にお団子にまとめ、化粧もしていないようだった。
その様子を見て、華恋は一瞬だけ自分に自信を持ったが、松下の言葉を聞いた途端、自分がまるで道化のように思えてしまった。
蒼空もまた、顔に泥を塗られたような気分だった。
「さっさと出ていけ!」
華恋は悔しさでいっぱいだった。離婚したのは事実なのに、彼の婚約者は自分なのに、なぜ陽葵の前でこんな屈辱を受けなければならないのか。
絶対に引き下がらない。
蒼空の手を振りほどき、陽葵の隣に堂々と座ると、あえて親切そうな声で話しかけた。
「体調はどう?流産は大ごとよ。きちんと養生しないと、将来子供が産めなくなるかもしれないわよ。」
陽葵は鋭い視線を送り返した。
「ご心配には及びません、宮崎さん。」
「ねえ、蒼空があなたの流産を見て見ぬふりしたからって、責めないであげて。そもそも、最初にあなたと結婚したのだって、仕方なくよ。彼が酒に酔ったときにうまくやったから、灰崎家の奥さんになれただけでしょ?」
宮崎の言葉はどんどん辛辣になっていく。
ついに陽葵も怒りを抑えきれなかった。
「私が酒に酔った彼をたぶらかしたって、蒼空が言ったの?」
蒼空は視線をそらした。
陽葵は呆れたように笑った。
あれは、彼女が灰崎を助けて三か月経った頃のことだった。彼の怪我はすっかり治ったが、毎日覇気がなく、酒浸りの日々を送っていた。
仕事から帰ると、床に倒れている彼のそばにいくつも酒瓶が転がっていた。
彼を起こそうとしたが、彼の体は重く、支えきれずに一緒に倒れてしまった。
こんなことは一度や二度ではなかったので、陽葵は気にも留めず、体を起こして部屋を片付けようとした。
だが、腕をついた瞬間、蒼空に強く引き寄せられ、再び彼の胸に倒れこんで…そのまま、すべてが始まってしまった――。
確かに、あの時は彼のことが少し好きだった。だからこそ、家に連れ帰って世話をしたし、一度の過ちも許してしまった。
でも、あくまで彼が求めてきたのだ。
華恋の前で自分を悪者にして、すべての責任を自分に押し付けるなんて許せない。
恵美は怒りで震える陽葵の手の甲をそっと叩き、微笑んだ。
「誰でも知ってることだけど、本当に酔っぱらった男には、そんなことできないのよ。」
つまり、灰崎がその気にならなければ、誰も無理やりそういうことはできないということだ。
華恋は驚いて蒼空を見つめ、蒼空は秘密を暴かれたような苛立ちを感じていた。
しかも、それを言ったのがケイル夫人なので、怒りの矛先を向けることもできない。
結局、すべてを陽葵のせいにしたくなった。
今まで気づかなかったが、陽葵はこんなに計算高い女だったのか。ケイル夫人まで味方につけるなんて。
「灰崎さん、今日は食事には向かないようですね。」ケイルが口を開いた。
その言葉に、蒼空は我に返った。ケイルはA国の某企業の重役で、会社の取引先を決める絶大な権限を持っている。
国際資本と繋がるには、ケイルの機嫌を損ねてはいけない。
蒼空は華恋の腕を掴み、無理やり外へ引っ張り出した。
二人が出ていくと、恵美は陽葵の手をしっかりと握った。
「彼、本当にあなたが流産したのを見て見ぬふりしたの?」
子どものことを思い出し、陽葵は少し悲しげにうなずいた。
「出血が多くて、手術台で死にかけました。それで、彼への気持ちも完全に冷めました。」
あっさりと語る陽葵の姿に、恵美は深く共感した。
なぜなら、陽葵の身に起きたことは、恵美自身も経験したことだった。子どもを失い、夫に裏切られ、二重のショックで一時は壊れかけた。
けれど、時間が経つうちに、男は本質的に信用できないものだと割り切れるようになった。
特に金や権力のある男にとって、女は財産に付随するただの飾りのようなもの。
今日はこちら、明日はあちらと、結局いつまでも残っていられる人だけが勝者になる。
本当はそのことを陽葵に伝えたかったが、ケイルが同席しているため、静かに頭を撫でて慰めることしかできなかった。
素直でちょっと不器用なこの子が愛おしくてたまらなかった。
かつて、ケイルがJ国に来た時、トップ財閥の成宮家と取引を持とうとしていた。
その噂を聞きつけた蒼空は、企画書を持ってケイルが所属する国際金融資本に連絡したが、灰崎グループは規模が小さく、ケイルに会うことすらできなかった。
そんな蒼空の思いを知った陽葵が、恵美に何度も頭を下げてひたすら尽くし、一か月かけてやっと恵美の心を動かした。
恵美が陽葵の頼みを聞き入れ、ケイルに取りなしてくれたおかげで、灰崎グループは小さなプロジェクトを任されることになった。
その案件がきっかけで、灰崎グループはJ国で地位を築き、成長してきたのだ。
つまり、陽葵がいなければ、今の灰崎グループの成功はなかったと言ってもいい。
そんな苦労を重ねてきた陽葵が、恋愛で傷ついたからといって、せっかくの幸せを簡単に手放してしまうのはもったいない。
「あさっり離婚だなんて、そんな簡単に許すべきじゃなかった。」
離婚は男への罰ではなく、ご褒美だ。
傷つけられた女が何もかも失い、男は何事もなかったかのように自由を手にする。
それでいいの?
本当の復讐は、男の力や地位を利用して自分を強くし、男を踏みにじって生きていくことだ。
陽葵は恵美の言いたいことを察した。
「離婚は私から切り出したことですし、彼とも話し合って決めたことです。ですので、これからは彼とは赤の他人です。」
ちょうどその時、蒼空が戻ってきた。
陽葵の「赤の他人」という言葉が、耳に飛び込んできた。
なぜか胸の奥がざわつき、何か大切なものを失うような痛みが走った。
本当に、陽葵は自分を離れるつもりなのか?
こんなにも強く心を決めているのか?
蒼空は苛立ってネクタイをほどき、目の前の酒を一気に飲み干した。
どうしてだ。
勝手に俺を助けて、結婚したいと言い出して、今度は別れたいと言えばさっさと去っていく。
別れるなら、こっちから振ってやるのが筋じゃないか!
ケイルは陽葵を見て、穏やかに笑いながら言った。
「恵美はあなたのことを気に入っています。今後は友人として付き合っていくのもいいでしょう。」
恵美は陽葵の手を取り、うなずいた。
「そうよ。もしよかったら、今日このまま私とA国へ行かない?リフレッシュできるわ。」
陽葵は微笑んで断った。
「お気持ちだけで十分です。いつか機会があれば、A国に遊びに行きます。」
恵美はうなずき、鋭い視線を向けている蒼空をちらりと見て、陽葵にそっと言った。
「もう行きなさい。」
陽葵は深く感謝して、恵美の手を強く握った。
「お元気で。」
恵美は微笑みながら見送った。
陽葵が立ち上がって出て行こうとした時、蒼空は思わず手を伸ばしかけた。
「灰崎さん」とケイルがタイミングよく声をかけて引き止めた。
「そろそろ、今後の仕事についてお話ししましょう。」
確かに、今日はケイル氏の送別会だが、来年以降の取引をまとめることの方が大事だ。
だが蒼空の心は、ずっとどこか上の空だった。
ケイルはその様子に気づき、話を切り上げて空港へ向かうことにした。
別れ際、恵美は思わず蒼空に声をかけた。
「灰崎さんの奥様は、灰崎さんのためにたくさんのものを犠牲にしてきたのです。本当に愛していないのなら、もう彼女の人生に関わらないであげてください」