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第六話


蒼空は呆然と立ち尽くし、恵美の言葉の意味を掴もうとしたが、二人はすでにVIP専用通路へと入ってしまった。


彼には理解できなかった。これまでずっと、自分が必死で働いた。

彼女は一体何を犠牲したのだろうか?

せいぜい早起きして朝ご飯を作り、洗濯をするくらい。ほかに何がある?


陽葵の暮らしは、多くの人が羨むほど恵まれているはずだ。

外で何人か愛人を作ったくらいで、どの男だってそんなものだろう!

離婚しようと言ったわけでもないのに、彼女はまるで自分がすべて正しいかのように振る舞い、苦労を共にしたことを盾にして、調子に乗って反抗的な態度まで取る。

さらにカイル夫人の前で自分の評判を落とすなんて。

もし会社と海外の資本との取引で問題が起きたら、絶対に陽葵を許さない——。


カイル夫妻を見送った後、

蒼空は車を走らせて別荘へ戻った。玄関のドアを開けた途端、花瓶が真っ直ぐ頭めがけて飛んできた。

避ける間もなく、頭に直撃。熱い血がごうごうと額から流れ落ちる。

視界が赤く染まる中、華恋の怯えた顔が見えた。


——病院。


ベッドに横たわり、天井をぼんやり見つめる蒼空。その耳に華恋のしゃくりあげる泣き声が響く。

こめかみを何針も縫われ、激しい頭痛に襲われているというのに、休みたくても華恋の泣き声で眠れやしない。ついに苛立ちを露わにした。


「もう泣くなよ! 別に死んだわけじゃないだろ」

「私が悪いの……。怒っちゃって、そんなつもりじゃなかったのに。どうして避けなかったのよ……」


蒼空は苦笑したくなった。

彼女は食事会に乗り込んで場を台無しにし、カイル夫妻を怒らせたのに、怒りもせず家に帰すだけにした。それなのに、花瓶を投げつけてくるとは!

幸い小さな花瓶だったからよかったものの、大きかったら大怪我どころか死んでいたかもしれない。そのときは、きっと「どうして避けなかったの」なんて文句を言われていたに違いない。

眉をしかめたくても、少しでも動かせば傷口が痛み、思わず息を呑む。


「痛むの?大丈夫?」

華恋はおろおろするばかりで、泣くことしかできない。

蒼空はうんざりしていた。

陽葵は、こんなふうにただ泣くだけの女じゃなかった。

彼女は手際よく手当てをし、怒った顔で「ちゃんと自分を大切にしなかったら、もう知らないからね」と脅かす。

けれど、次にまた怪我をしても、やっぱり心配して薬を塗ってくれる。

わかっていた。彼女は本当に自分を気にかけてくれていたのだ。

思い出してはいけない。思い出すほど、華恋の泣き声がますます耳障りに感じられた。


その後数日、蒼空の姿は見えなかった。


陽葵の生活は、再び平和に戻る。

一ヶ月も家に引きこもっていた陽葵は、さすがに限界だった。

このままでは世間から取り残されてしまう。

もう家にこもっているわけにはいかない。仕事を見つけなければ。


そう決めるとすぐ、彼女は東京中を歩き回った。

いくつかの事務職は、応募条件が合わず断念。

六本木まで来たのは、すでに午後三時を回っていた。

とある「エンジェルナンバー3」というバーの前で、歌手募集の貼り紙を見つける。

待遇も悪くない。

歌手——それなら自分にぴったりだ。


陽葵が店内に入ると、すでに多くの応募者がステージ下に座り、出番を待っていた。

彼女も空いている席に腰を下ろす。

しばらくして、ヒールの音がパチンパチンと響き渡る。

皆の視線が一斉に向けられると、そこにはひときわ目を引く美しい女性が現れた。

体のラインを際立たせるタイトなロングドレス、無造作にまとめた長い髪。フチなしの片眼鏡に、揺れるシルバーチェーンが、整った横顔をかすめていく。

まるで、あの有名な推理アニメに出てくる女性の敵役そのものだ。


「みなさん、こんにちは。こちらのバーのマネージャー、不二子です」

その艶やかな声は場のほとんどの者を虜にした。

陽葵も思わず惹き込まれる。彼女は美しいものが好きなのだ——どんなものでも。


「それでは、始めましょう」


次々と試し歌いが進み、やがて陽葵の番がやってきた。

彼女が選んだのは、力強いロック。

見た目からは想像できない選曲だった。

その可憐な容姿なら、もっと優しいラブソングが似合うはず。

だが、陽葵が歌い始めた瞬間、全員が息を呑んだ。

重厚かつハスキーで、圧倒的なパワーがこもった声。その迫力に心を揺さぶられる。

自然と体がリズムに乗り、思わず踊り出す者も現れるほど。

抑えきれない何かが、会場に満ちていた。


不二子は片手で頬杖をつき、指先で椅子の肘掛けをリズムに合わせて軽く叩く。その瞳には明らかな興味と好意が浮かぶ。

——さて、あの二人はどう感じているのだろうか。


二階の奥まったVIPルームの窓辺には、二人の男が立っていた。


「いや、最近の女の子は凄いな」

花澤啓が隣の友人に目をやる。

薄暗い照明の下、端正な横顔がすべてを圧倒していた。

どこから見ても完璧な美貌に加え、圧倒的な地位と家柄。

神は彼にすべてを与えたというのか。

花澤啓自身も中性的な美貌で有名だが、彼の隣ではまるで霞んでしまう。

羨ましいやら、妬ましいやら。


「嵐、どう思う?」

成宮嵐は、その声と、舞台上の女性に見覚えがあった。

まさか、彼女がここで歌手のオーディションを受けているとは——。

灰崎のやつ、何をしているんだ……。


不二子が選出リストを持ってやってきた。

「こちらが今回選ばれた方々です。ご確認を」


花澤啓は不二子の腰に手を回し、彼女の香りを吸い込むように鼻を近づける。

すぐに不二子にあっさりと突き放される。


「まったく、冷たいなあ」と冗談を言いながら、啓はリストを手に取り、嵐の隣に腰かけた。

「一条陽葵——。歌も名前もいいじゃないか」

「どう思う?」

隣にいる成宮嵐に尋ねる。

成宮嵐は静かにうなずいた。


——


陽葵は採用され、大喜びで自分にご褒美を買い込んだ。

帰宅途中、隣の部屋に誰かが引っ越してきているのを見かけた。

しばらく空き部屋だったが、どうやら新しい住人が入るらしい。

どんな人が越してくるのだろう?

夜は軽くお酒を飲みながら配信を始める。

気分が高揚し、ノリのいい曲を立て続けに歌い、テンションが上がるとダンスまで披露。

配信は大いに盛り上がった。


そして新しい配信時間も発表した。午後2時から4時に変更。

5時からはバーで歌い、8時に仕事が終わる。

社会人の一部はこの時間に不満を漏らしたが、陽葵は「仕方ない」としか言えなかった。


視聴者をなだめていると、「あなたの後ろに」からギフト爆撃が始まる。

通知が絶え間なく流れる。

「あなたの後ろに」が“二尾の狐”を100個プレゼント。

【また!】

【世の中金持ちが多いんだ、私が一人増えても問題ないでしょ!】

さらに1000個ものギフトが贈られ、視聴者たちも圧倒されてしまう。


だが、陽葵は嬉しくはなかった。

かつてはお金が必要で、必死に稼ごうとした。

けれど、灰崎グループが軌道に乗ってからは、そんなにお金を必要としなくなり、配信も減った。

たまに気が向いたときに数曲歌うくらいで、視聴者にギフトを催促したこともなかった。



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