蒼空は呆然と立ち尽くし、恵美の言葉の意味を掴もうとしたが、二人はすでにVIP専用通路へと入ってしまった。
彼には理解できなかった。これまでずっと、自分が必死で働いた。
彼女は一体何を犠牲したのだろうか?
せいぜい早起きして朝ご飯を作り、洗濯をするくらい。ほかに何がある?
陽葵の暮らしは、多くの人が羨むほど恵まれているはずだ。
外で何人か愛人を作ったくらいで、どの男だってそんなものだろう!
離婚しようと言ったわけでもないのに、彼女はまるで自分がすべて正しいかのように振る舞い、苦労を共にしたことを盾にして、調子に乗って反抗的な態度まで取る。
さらにカイル夫人の前で自分の評判を落とすなんて。
もし会社と海外の資本との取引で問題が起きたら、絶対に陽葵を許さない——。
カイル夫妻を見送った後、
蒼空は車を走らせて別荘へ戻った。玄関のドアを開けた途端、花瓶が真っ直ぐ頭めがけて飛んできた。
避ける間もなく、頭に直撃。熱い血がごうごうと額から流れ落ちる。
視界が赤く染まる中、華恋の怯えた顔が見えた。
——病院。
ベッドに横たわり、天井をぼんやり見つめる蒼空。その耳に華恋のしゃくりあげる泣き声が響く。
こめかみを何針も縫われ、激しい頭痛に襲われているというのに、休みたくても華恋の泣き声で眠れやしない。ついに苛立ちを露わにした。
「もう泣くなよ! 別に死んだわけじゃないだろ」
「私が悪いの……。怒っちゃって、そんなつもりじゃなかったのに。どうして避けなかったのよ……」
蒼空は苦笑したくなった。
彼女は食事会に乗り込んで場を台無しにし、カイル夫妻を怒らせたのに、怒りもせず家に帰すだけにした。それなのに、花瓶を投げつけてくるとは!
幸い小さな花瓶だったからよかったものの、大きかったら大怪我どころか死んでいたかもしれない。そのときは、きっと「どうして避けなかったの」なんて文句を言われていたに違いない。
眉をしかめたくても、少しでも動かせば傷口が痛み、思わず息を呑む。
「痛むの?大丈夫?」
華恋はおろおろするばかりで、泣くことしかできない。
蒼空はうんざりしていた。
陽葵は、こんなふうにただ泣くだけの女じゃなかった。
彼女は手際よく手当てをし、怒った顔で「ちゃんと自分を大切にしなかったら、もう知らないからね」と脅かす。
けれど、次にまた怪我をしても、やっぱり心配して薬を塗ってくれる。
わかっていた。彼女は本当に自分を気にかけてくれていたのだ。
思い出してはいけない。思い出すほど、華恋の泣き声がますます耳障りに感じられた。
その後数日、蒼空の姿は見えなかった。
陽葵の生活は、再び平和に戻る。
一ヶ月も家に引きこもっていた陽葵は、さすがに限界だった。
このままでは世間から取り残されてしまう。
もう家にこもっているわけにはいかない。仕事を見つけなければ。
そう決めるとすぐ、彼女は東京中を歩き回った。
いくつかの事務職は、応募条件が合わず断念。
六本木まで来たのは、すでに午後三時を回っていた。
とある「エンジェルナンバー3」というバーの前で、歌手募集の貼り紙を見つける。
待遇も悪くない。
歌手——それなら自分にぴったりだ。
陽葵が店内に入ると、すでに多くの応募者がステージ下に座り、出番を待っていた。
彼女も空いている席に腰を下ろす。
しばらくして、ヒールの音がパチンパチンと響き渡る。
皆の視線が一斉に向けられると、そこにはひときわ目を引く美しい女性が現れた。
体のラインを際立たせるタイトなロングドレス、無造作にまとめた長い髪。フチなしの片眼鏡に、揺れるシルバーチェーンが、整った横顔をかすめていく。
まるで、あの有名な推理アニメに出てくる女性の敵役そのものだ。
「みなさん、こんにちは。こちらのバーのマネージャー、不二子です」
その艶やかな声は場のほとんどの者を虜にした。
陽葵も思わず惹き込まれる。彼女は美しいものが好きなのだ——どんなものでも。
「それでは、始めましょう」
次々と試し歌いが進み、やがて陽葵の番がやってきた。
彼女が選んだのは、力強いロック。
見た目からは想像できない選曲だった。
その可憐な容姿なら、もっと優しいラブソングが似合うはず。
だが、陽葵が歌い始めた瞬間、全員が息を呑んだ。
重厚かつハスキーで、圧倒的なパワーがこもった声。その迫力に心を揺さぶられる。
自然と体がリズムに乗り、思わず踊り出す者も現れるほど。
抑えきれない何かが、会場に満ちていた。
不二子は片手で頬杖をつき、指先で椅子の肘掛けをリズムに合わせて軽く叩く。その瞳には明らかな興味と好意が浮かぶ。
——さて、あの二人はどう感じているのだろうか。
二階の奥まったVIPルームの窓辺には、二人の男が立っていた。
「いや、最近の女の子は凄いな」
花澤啓が隣の友人に目をやる。
薄暗い照明の下、端正な横顔がすべてを圧倒していた。
どこから見ても完璧な美貌に加え、圧倒的な地位と家柄。
神は彼にすべてを与えたというのか。
花澤啓自身も中性的な美貌で有名だが、彼の隣ではまるで霞んでしまう。
羨ましいやら、妬ましいやら。
「嵐、どう思う?」
成宮嵐は、その声と、舞台上の女性に見覚えがあった。
まさか、彼女がここで歌手のオーディションを受けているとは——。
灰崎のやつ、何をしているんだ……。
不二子が選出リストを持ってやってきた。
「こちらが今回選ばれた方々です。ご確認を」
花澤啓は不二子の腰に手を回し、彼女の香りを吸い込むように鼻を近づける。
すぐに不二子にあっさりと突き放される。
「まったく、冷たいなあ」と冗談を言いながら、啓はリストを手に取り、嵐の隣に腰かけた。
「一条陽葵——。歌も名前もいいじゃないか」
「どう思う?」
隣にいる成宮嵐に尋ねる。
成宮嵐は静かにうなずいた。
——
陽葵は採用され、大喜びで自分にご褒美を買い込んだ。
帰宅途中、隣の部屋に誰かが引っ越してきているのを見かけた。
しばらく空き部屋だったが、どうやら新しい住人が入るらしい。
どんな人が越してくるのだろう?
夜は軽くお酒を飲みながら配信を始める。
気分が高揚し、ノリのいい曲を立て続けに歌い、テンションが上がるとダンスまで披露。
配信は大いに盛り上がった。
そして新しい配信時間も発表した。午後2時から4時に変更。
5時からはバーで歌い、8時に仕事が終わる。
社会人の一部はこの時間に不満を漏らしたが、陽葵は「仕方ない」としか言えなかった。
視聴者をなだめていると、「あなたの後ろに」からギフト爆撃が始まる。
通知が絶え間なく流れる。
「あなたの後ろに」が“二尾の狐”を100個プレゼント。
【また!】
【世の中金持ちが多いんだ、私が一人増えても問題ないでしょ!】
さらに1000個ものギフトが贈られ、視聴者たちも圧倒されてしまう。
だが、陽葵は嬉しくはなかった。
かつてはお金が必要で、必死に稼ごうとした。
けれど、灰崎グループが軌道に乗ってからは、そんなにお金を必要としなくなり、配信も減った。
たまに気が向いたときに数曲歌うくらいで、視聴者にギフトを催促したこともなかった。