陽葵は背を向けて店を出た。スニーカーがこぼれたコーヒーを踏みつけ、べたつく感触が、この汚れた友情を思い出させた。
どうしても、人を見る目がないのかもしれない。
前にはどうしようもない灰崎蒼空、今度は冷たい友達、松本玲子。
自分に何か問題があるのだろうか。
でなければ、どうして人ごみの中で一番最低な相手ばかり見つけてしまうのだろう。
この友情は、ほんの短い間しか続かなかった。
けれど、陽葵が心を込めて接した分、受けた傷も大きかった。
陽葵がカフェを出るまで、玲子は一度も顔を上げなかった。
何も言い訳せず、ただじっと濡れた彫像のように立ち尽くしていた。
ガラスのドアを押し開けると、冷たい風が雨と共に顔を叩く。
陽葵は思わず首をすくめた。
二歩踏み出したところで、誰かに呼び止められた。
「陽葵?」
振り返ると、嵐が少し離れた場所に立っていた。
手には上品なケーキの箱、もう一方の手で黒い傘を差している。
黒いシャツ姿が背を引き締め、無造作な髪が顔にかかり、どこかセクシーで、心地よさそうだった。
嵐は微笑み、数歩で近づいてきた。
「偶然だね。ちょうど買い物に来たところだったんだ。」
ケーキの箱を揺らしながら言う。
「まさか君に会うとは思わなかったよ。」
彼は傘を陽葵の頭上に傾け、雨から守ってくれた。
陽葵は無理に笑顔を作り、軽くうなずいた。
「うん、私も今出たばかり。」
嵐は彼女の様子にすぐ気づき、眉をひそめた。
「どうした?顔色が悪いよ。」
言葉を探して口を開きかけたが、胸が詰まって何も言えなかった。結局、首を横に振る。
「大丈夫、ちょっと疲れてるだけ。」
嵐はそれ以上何も聞かず、そっと肩を叩いた。
「じゃあ、一緒に帰ろう。」
陽葵は小さくうなずいて、彼と並んで家へ向かった。
その瞬間、嵐がふと後ろを振り返る。
カフェの大きな窓の向こうで、玲子がじっとこちらを見ていた。
嵐と玲子の視線が一瞬合い、玲子はびくりと肩を揺らした。
まるで火傷でもしたかのように顔を背け、すぐに店内へ姿を消した。
嵐は目を細め、口元に不思議な笑みを浮かべた。
家に帰ると、陽葵は何も言わずソファに座り、左手の指で無意識にマフラーをいじっていた。
嵐はケーキの箱をテーブルに置き、向かいに座った。片肘をつき、優しい声で問いかける。
「ね教えて。誰かに嫌なことされた?」
陽葵は指を噛みながら、誰かに話を聞いてほしい気持ちを抑えきれなかった。
自分だけでは答えが出せないことがあって、誰かに答えを求めたかった。
「玲子。」
小さく呟く。
嵐は眉を上げた。
「どうしたんだ?」
「友達だと思ってたのに、ネットで私の悪口を書いてたの。どうして?私、何か悪いことしたのかな?」
「本当は不二子さんが私にもっと歌わせたかったの。でも玲子の家が大変だって知って、時間を譲ったの。玲子に多く歌わせて、プレゼントもお金も多くもらえるようにって。」
「おばあちゃんが入院してお金がない時、私が貸したし、揉め事があった時も、玲子が傷つかないように私が前に立った。それなのに、私がそうしたのは自分の優しさを見せつけて、玲子を引き立て役にしただけだって言われたの。」
「それに……」
嵐のことを言いかけて、陽葵は口を閉じた。
玲子の恋心を話題にしたくなかった。
女の子同士の気持ちは、大切に守りたいと思った。
でも、それが玲子が陽葵を責める口実の一つになってしまった。
嵐は、陽葵が言いかけて飲み込んだことに気づいた。
「松本が、君が彼女の恋に応援するって。」
陽葵は目を見開いた。
「玲子が、嵐のこと好きだって言ったから、私に『告白してもいい?』って聞いたの。」
「君はどう答えた?」
「何も言えなかったよ。玲子が告白したいなら、止める権利なんて私にはないから。」
言い終えると、嵐がじっと自分を見つめていることに気づいた。
陽葵は唇をかみしめた。自分と玲子の会話に、何か問題があっただろうか。
玲子が嵐を好きなら、止める理由なんてない。
友達だからこそ、応援すべきじゃないか。
自分には止める立場なんてない。ただの友達なのだから――
でも、嵐に見つめられていると、なぜか罪悪感が湧いてくる。
まるで、自分が何か悪いことをしたような、おかしな気持ちになるのだった。
しばらくして、嵐はため息をついた。
この話を今、深く追及すれば、彼女はきっと傷ついてしまう。
もう少し、待つしかない。
「つまり、陽葵は松本と絶交したのか?」
陽葵はうなずき、心にあった疑問を口にした。
「どうして、玲子はあんなに極端に考えてしまうんだろう?」
陽葵は深く息を吸い、ようやく胸に溜めていた言葉を吐き出した。
嵐はすぐに答えなかった。
どんな言葉も、今は空虚に響いてしまう。
陽葵は二十四歳、大人だ。
ただ慰めの言葉や、ありきたりな励ましではなく、話を聞いてくれる相手が必要なのだ。
嵐は静かに彼女の手を取り、冷たい指先を優しく包み込んだ。
陽葵の目元に、少しずつ悲しみの色が広がる。
「玲子は、私にとって初めての友達だった。」
玲子のことを、本当に大切に思っていた。
陽葵がそう告げると、嵐は唇を引き結んだ。
嵐は立ち上がり、スイーツの袋からマンゴーケーキを取り出した。
それから温かいココアを入れ、ストローを差して戻ってくる。
ココアを陽葵の前に置き、スプーンですくったケーキを彼女の口元に差し出した。
「甘いものを食べると、気分が少し楽になるんだって、科学者が言ってたよ。」
陽葵は口を開け、甘いマンゴーケーキが口の中で溶けていく。ココアを一口飲むと、チョコレートの甘さがケーキと混ざり合い、まるで味覚の救いのようだった。
嵐は隣に座り、リモコンでテレビをつけて、バラエティ番組にチャンネルを合わせた。
「もう考えなくていい」
無意味な言葉は言わない。ただ、行動で伝える。
「俺のそばで少し休んでいいんだよ」と。
テレビの中では、芸人たちが相撲の着ぐるみで転げ回っている。
二人は畳に座り、陽葵は笑いながら涙を拭き、ケーキを食べる。
夜が更けて、番組が終わった頃。
陽葵は小さな声で尋ねた。
「私って、弱すぎるかな?」
嵐は窓を閉めていて、振り返って彼女を見る。
「じゃあ、玲子に仕返ししたい?」
陽葵は戸惑った。
玲子に裏切られたことは悔しい。
でも、それ以上に、利用されていると知りながら、強く責めることもできない自分が悔しかった。
玲子も、自分も、似ている。二人とも、子供の頃から親がいなくて、幸せとは言えなかった。
違うのは、玲子にはおばあちゃんがいたけど、自分には誰もいない。
親のいない子どもがどんなに大変か、陽葵は人一倍よく知っている。だからこそ、玲子に共感できた。
玲子に傷つけられたことが、なかなか割り切れなかった。
でも、本当に、最初から最後まで、陽葵は玲子を責めようなんて考えていなかった――