嵐は陽葵を見つめ、ふいに微笑んだ。
「陽葵、君は自分が思っているよりずっと優しいよ。」
陽葵は顔を上げて彼を見た。
「優しさは悪いことじゃない。」
嵐の声は淡々としていたが、しっかりしていた。
「間違っているのは、その優しさを利用する人間だ。」
陽葵はしばらく黙っていたが、やがて大きくため息をついた。
「今回だけよ。もしまた彼女が私を傷つけたら、絶対に許さない。」
嵐はしばらく陽葵をじっと見つめ、また微笑んだ。
「本当に君って……」
手を伸ばし、彼女の頬をつまんだ。困ったような、でもどこか甘えるような声で言う。
「分かったよ、君の言う通りにする。」
陽葵は自分の頬を揉みながら、今さらながら気づいた。
最近、嵐がやたらと彼女に触れてくることに。
友達同士にしては、少し距離が近すぎる気がした。
彼女は嵐を見つめた。
「どうかした?」
嵐が尋ねる。
陽葵は言いかけて、彼が自分のことを好きなのか聞きたいと思いながらも、自意識過剰だったらどうしようと不安になった。
「その……」
頬をさすっている陽葵を見て、嵐は彼女の心の動きを察した。
「嫌だった?」
陽葵は首を振る。
「ただ、ちょっと不思議に思って……最近、嵐が私に優しすぎるから。」
嵐は再び微笑み、彼女の頬をつまんだ。陽葵が驚いた顔をしているのを見て、話をすり替える。
「友達だろう?友達同士、助け合うのは当たり前じゃない?もし俺が怪我したら、陽葵も俺のことを世話してくれるよね?」
陽葵はうなずいた。
「もちろん!」
「だったら問題ないよ。友達同士ってこんなもんだよ。すぐ慣れるさ。」
こんなものなのだろうか?
陽葵はこれまで友達がいなかった。
最初に灰崎と付き合い始めた時も、彼は冷たかったし、その後ひょんなことから恋人になり、結婚した。
だから、友達同士の距離感がよく分からない。考えすぎなのかもしれない。
陽葵は少し微笑み、心のモヤモヤも少し晴れた気がした。
窓の外では、雨がしとしとと降り続いている。まるで世界が白く染まるかのように。
もしかしたら、人の心もこの雨のようなものかもしれない。
一見冷たくても、やがては消えていく。
彼女は玲子にもう一度チャンスを与えようと思った。
彼女がやり直して、もう間違いを繰り返さないことを願って。
「弱い人は痛みから逃げる。」
嵐は戻ってきて、毛布を陽葵の肩にかけた。
「でも君は、それを受け止めて、許すことさえできる。それはずっと難しいよ。」
彼は優しく彼女の髪を撫でた。
「もう寝よう。今夜は雷が鳴るかもしれないから、ここで一緒にいるよ。明日はスフレを作る。」
嵐は部屋から布団を持ち出し、床に敷いた。
陽葵が突然叫んだ。
「どうした?」
嵐が慌てて訊く。
「右手に触れた?痛い?見せて。」
陽葵が骨折した腕に触れたかと思ったのだ。
「違う違う、アオイが!」
隣の604号室。
アオイは窓辺の桔梗の花を噛みちぎっていた。
パパは私を愛している。
ママは私を愛している。
パパは私を愛している、ママは私を愛している。
ママは私を愛している……
最後の花びらが落ちた。
「やった! ママが私を愛してる!」
でもすぐに気分は沈んでしまう。
パパはもう何日も帰っていないし、ママもどこかに行ってしまった。
アオイはひとりぼっちで可哀想。
そんなことを考えていると、ドアが開き、大きな影が立っていた。顔は見えない。
アオイはゆっくり振り向き、毛を逆立てた。
「どこの化け物だ、うちの部屋から出ていけ!」
化け物に飛びかかろうとしたが、首根っこをつかまれて空中に持ち上げられた。その目は見覚えのあるもの。
パパだ!
嵐はアオイを抱えてドアを閉め、603号室に入った。
アオイは部屋に入るなり、陽葵に飛びつこうとする。
ママ、ママ。久しぶり、ふわふわでいい匂いのママ!
短い足を踏み出した瞬間、また体が宙に浮く。
二度も首根っこをつかまれた運命。
嵐の目が警告する。
近づくな!
男の嫉妬心は本当に恐ろしい。
陽葵は右手がけがしているのでアオイを抱けず、代わりにおやつや猫じゃらしで遊んであげる。
時刻は十時を回り、部屋の明かりが消えた。
陽葵はベッドに横になり、隣の床で横たわる嵐を見つめた。
彼は仰向けで、手はお腹の上。寝姿まで優雅だった。
彼女はその姿を見つめながら、安堵の中で眠りに落ちていった。
静かな呼吸が響く。
暗闇の中で、嵐は目を開ける。
彼は体を横向きにし、陽葵を見つめる。その心の奥の欲望を隠しながら。
午前二時十七分。
最初の稲妻が夜空を裂いた瞬間、陽葵はぱっと目を開けた。
カーテンの隙間から差し込む青白い光が、部屋を明るくしたり暗くしたりする。
思わず布団の端を握りしめ、指が白くなる。
三秒後、轟音の雷鳴が響き渡り、建物全体が揺れるようだった。
陽葵は急いで布団にくるまり、体を小さく縮めた。
暗闇の中、嵐が静かに近づき、震える陽葵に手を伸ばす。
「きゃっ!」
陽葵は叫び、相手の顔が分かった瞬間、本能的に飛びついた。
嵐は両腕を広げて彼女を受け止め、けがした右腕を気遣う。
震える陽葵をしっかりと抱き寄せ、彼女を胸に引き寄せた。
ベッドの上で嵐は座り、陽葵はその膝の上。彼のぬくもりを感じながら、腕の中で少しずつ落ち着いていく。
彼の存在が全身を包み込み、陽葵の頬はほんのり赤くなった。
あの出来事以来、雷が怖くなった。
これまでは布団の中で一人で耐えてきた。
以前、灰崎蒼空と一緒だった時も、たまに彼が家にいると近づこうとしたが、灰崎は一度も抱きしめて慰めてくれたことはなかった。
「ちょっとだけ、こうしててもいい?」
陽葵は顔を彼の肩にうずめて小さくつぶやいた。腕はしっかりと嵐の首に回している。
嵐は低く笑い、その振動が体を通して伝わる。
彼は膝をベッドに乗せ、陽葵を抱いたまま柔らかな布団に沈み込んだ。
二度目の雷鳴が響いたとき、嵐の手が彼女の背中にそっと添えられた。
彼は陽葵の耳元で囁き、手のひらで緊張した背筋をゆっくりと撫でおろす。
「俺の指を数えて。」
小指が最初にそっと触れる。
陽葵は深呼吸した。
薬指が二度目を打つ。
窓の外の激しい雨が遠ざかっていく。
中指が三度目に触れた時、彼女は自分が彼の左胸に寄り添っていることに気づいた。
服越しに伝わる規則正しい鼓動が、どんな子守唄よりも心地よい。
「子供の頃、」
陽葵は突然口を開き、声が彼のパジャマの胸元にこもる。
「クッキーを盗み食いして、院長に物置に閉じ込められたの。」
無意識に指先を握りしめる。
「その日も雷が鳴ってた。」
その時七歳だった陽葵は、物置に閉じ込められ、助けを求めても誰も来なかった。
稲光が窓を貫いたとき、壁に映る影が恐ろしく歪んだ。
それ以来、雷が怖くなったのだった。