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第93話

嵐は陽葵の視線を追って、炎の彫刻のようなスポーツカーを無表情に見つめた。

まるで無機質な石を眺めるかのような冷静なまなざしだった。


彼はすぐに視線を陽葵の顔へ戻し、彼女の目に浮かぶ純粋な憧れの輝きを捉えると、ふいに口を開いた。


「好きなのか?」


陽葵は一瞬きょとんとしたが、すぐにふわりと微笑んだ。

その笑顔は素直で、どこか愛らしい。


「うん、好きだよ。」


彼女は隠すことなく、あの鮮やかな赤い車に視線を残したままだった。


「綺麗なものって、誰だって好きでしょ?可愛い服とか、キラキラの宝石とか、可愛いお菓子とか。こういう、まるで芸術みたいな車も。」


彼女は軽やかに、まるで天気の話でもしているかのように続ける。「


素敵なものを眺めているだけで、気持ちが明るくなるじゃない?」


彼女が語るのは、美しさそのものへの賛美であり、所有欲ではなかった。


嵐は彼女の正直な笑顔をじっと見つめ、何も言わずにほんのわずかうなずいた。


彼の視線は再び逸れ、陽葵の頭越しに後ろのエンジェルナンバー3の閉ざされた扉へと向かった。何かを考えているようだった。


その頃、車の鍵をいじりながら得意げな彩子は、突然背筋に冷たいものを感じた。

まるで恐ろしい何かに見つめられているような感覚だった。


こんな気配を感じるのは、嵐に策略を巡らされるときだけ。

あの男、今度は何を考えているんだろう?


まさか、車を返せなんて言い出すつもりじゃないでしょうね!


そんなの絶対無理。

自分の手に入ったものは絶対に返さない――そう心の中で強く思った。


陽葵のSUVはその場に停めてあった。彼女は腕を怪我してしばらく運転しておらず、車にはうっすらと埃が積もっていた。


陽葵はようやく赤いフェラーリから視線を外し、自分のSUVへ目を向けた。


そっと右腕を動かしてみたが、ギプスの締め付けと鈍い痛みが彼女をため息にさせた。

横にいる無口だが頼りになる男性に、自然な口調で尋ねる。


「嵐、運転できる?」


「うん。」


嵐は短く答えた。


陽葵は少し身をかがめて、嵐が持っているバッグの中で鍵を探し始めた。


嵐は陽葵のふわふわした頭を見下ろし、少し体を寄せた。

彼女の柔らかい髪が彼の顔にかすかに触れる。


鼻先にガーデニアのいい香りが漂い、嵐は深く息を吸い込んだ。瞳が一瞬、揺れた。


「見つけた!」


陽葵は、ふわふわの小さなキツネのキーホルダーがついた車の鍵を取り出した。


顔を上げたとき、危うく嵐の顎にぶつかりそうになった。


彼女は不思議そうに嵐を見上げた。なんでこんなに近いんだろう?


嵐は何事もなかったように、ゆっくりと体を起こし、バッグを持ち上げた。


陽葵は気付いた。彼はバッグを下ろして、彼女が探しやすいようにしてくれたんだと。


自分を納得させる理由を見つけて、彼女は手首を軽く振った。


銀色のアーチが空中を描き、キーホルダーが小さく揺れながら飛んでいく。


「はい。」


陽葵の声は明るく、信頼を込めて。


「運転、お願いね。」


鍵の軌道は完璧で、嵐は手を伸ばすこともなく、わずかな動きだけで五本の指を開き、そのまま鍵をしっかりと受け止めた。


ひんやりとした金属の感触が体温に包まれ、ふわふわのキーホルダーが指先をやさしく撫でた。


嵐は鍵を握りしめ、無意識に小さなキツネのぬいぐるみを指先で弄びながら、陽葵の黒いSUVへと歩き出した。


ロックを解除し、助手席のドアを開ける。その動きは無駄がなかった。


「乗って。」


陽葵は車の前を回り、嵐がさりげなく支える手に助けられて助手席に座った。

嵐はドアを閉めてから運転席へ向かった。


エンジンが低く静かに唸り始めた。

隣の赤いフェラーリの目覚めの咆哮とは比べ物にならない静けさだ。


黒いSUVはゆっくりと駐車スペースを出て、夜の街を流れる光の川へと溶け込んでいく。向かう先は病院だ。


車内は静かで、エアコンの微かな音だけが響いている。


陽葵はシートに身を預けてスマホをいじり、好きな曲を流れ始める。


窓の外を流れるネオンの光を眺めながら、怪我した腕を膝にそっと置く。

本来なら悲しくて仕方ない夜のはずだった。

罠にはめられ、濡れ衣を着せられかけたのだから。


けれど、今の陽葵はとても幸せそうだった。

曲に合わせて、そっと口ずさむことさえできる。



嵐は運転に集中しながら、時折窓の外の光に照らされて、その横顔がやさしく見えた。


左手はハンドルに、右手はセンターコンソールの上に無造作に置かれている。

そのすぐそば、陽葵が膝に置いた左手との距離はわずか数センチ。


=====


玲子が病院に駆けつけたとき、強烈な消毒液の匂いが鼻を突いた。


救急室の外にはまだ赤いランプが灯っていたが、扉はすでに開いていた。


玲子は急いで駆け寄り、ちょうど主治医が疲れ切った顔でマスクを外して出てくるところだった。


「先生、おばあちゃんは……」


玲子は医師の袖を掴み、泣きそうな声で、目を真っ赤にして問いかけた。


医師は彼女のやつれた様子と、頼れる身内もなく病床のおばあちゃんだけが家族であることを思い出し、心の中でため息をついた。

少しだけやさしい口調で告げた。


「玲子さん、落ち着いて。おばあちゃん、なんとか持ちこたえました。」


玲子の涙ぐんだ表情が一瞬だけ固まり、その奥底に、ごくかすかな失望の色がよぎった。ほんの一瞬、錯覚のように。


すぐに彼女は目を伏せ、長いまつ毛が感情を隠す。

声はまだ嗚咽混じりだった。


「本当ですか?よかった……ありがとうございます。」


だが、その「よかった」がどこか乾いた響。


医師は玲子の境遇をよく知っている。

両親を亡くし、重病の祖母を一人で支えながら、クラブで働き、苦しい暮らしを送っている。


彼は玲子の細く青白い姿を見て、深い同情を覚えた。


「ただ、おばあちゃんの容態は厳しいです。」


医師は言葉を選びながら、玲子を治療室へと案内した。


「臓器の機能がかなり悪化しています。今回助かったのは奇跡に近い。でも、いつどうなるかわかりません。今も、とても苦しそうです。」


大きなガラス窓の向こうで、玲子はベッドに横たわる祖母の姿を見た。


かつて優しかった老人は、今や骨と皮ばかりに痩せ細り、まるで枯れ木のようだった。


灰色がかった顔に生気はなく、体中に無数のチューブが差し込まれている。


心電図のわずかな波形は、今にも消えそうな虫のように弱々しい。


病に蝕まれたその姿は、もはや人間らしさを失い、息ひとつさえ痛みに満ちていた。


玲子は静かに見つめていた。その顔に浮かぶ悲しみは、どこか作り物めいていた。


そう、本物ではなかった。なぜなら、祖母の病み衰えた体は、玲子の目にはもはやただの「重荷」としてしか映っていなかったからだ。


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