高橋慎也は会議室を出て、ようやく若原知也からのメッセージに気づいた。前回の会話は、二年ほど前のあの喧嘩の日で途切れていた。なぜ喧嘩したんだっけ? 時が経ちすぎて、はっきりとは覚えていない。ただ、そのあと若原が海外に行ったことだけは記憶に残っている。
社長椅子に腰かけながら、慎也は学生時代を思い出していた。高橋家と若原家は隣同士。母親同士が親友で、慎也と知也は幼なじみ。ずっと仲が良かった。ところが、小林玲奈がきっかけで二人の間にわだかまりができた。お決まりの三角関係だ。
オフィスのドアが開いた。
「慎也兄。」
大口幸作が、へつらうような笑顔で入ってきた。
慎也が顔を上げる。「用か?」
「さっき、俺に電話くれた?」
幸作が近づく。
慎也がうなずく。
幸作はにやにやしながら言った。「玲奈さんのこと? 礼なんていいよ。弟として当然のことだし。」
慎也は眉をひそめた。「小林玲奈がどうした? 彼女の何の話だ?」
幸作は呆気に取られた。「え? 関係ないわけないでしょ? 慎也兄、そんなのひどいよ。」
「何が言いたいんだ? はっきり説明しろ。」
「昨日の夜、兄貴が酔っ払ってたから、俺が玲奈さんに来てもらったんだよ。それなのに兄貴は、あっさり…」
慎也が遮った。「今、何て言った?」
幸作は呆れたように言い返した。「あっさり切り捨てるって言ったんだよ。」
「その前の言葉だ。」
幸作が繰り返した。
慎也の驚いた様子を見て、幸作は探るように言った。「…まさか、覚えてないのか? 慎也兄。」
「本当に彼女だったのか?」
幸作が力強くうなずいた。「もちろんだよ。通話記録が残ってるからな!」 そう言うと、携帯を取り出し、昨夜の玲奈との通話記録を慎也に示した。
慎也は時刻を見た。夜の九時。…夢じゃなかった。本当に玲奈だったんだ。やはり彼女は俺のことを気にかけている。慎也の口元に、得意げな笑みが浮かんだ。
幸作が目の前で手を振る。「慎也兄、大丈夫か?」
慎也は目をそらし、淡々と言った。「よくやったな。」
幸作はぽかんとした。いつも自分をこき下ろす従兄が、褒めるだって? 「慎也兄…憑かれちゃったのか?」
慎也は嫌そうな顔で言った。「つまらん。外では『慎也兄』なんて呼ぶな。」
幸作はほっと一息ついた。この口調、この目つき。これがいつもの従兄だ。
「昼休みにわざわざ来た用って何だ?」 慎也が問いかけた。
幸作は本題を思い出し、またしても媚び笑いを浮かべた。「あ、そうそう。慎也兄、弟の頼みを聞いてくれよ。お願い!」
慎也は幸作の様子を一瞥した。「親父かお袋、仕送り止めたのか?」
「いや…」
「じゃあ何だ?」
「…金を貸してほしいんだ。」 幸作はもごもごと言った。
「いくらだ?」
「大した額じゃないよ。二百万。」
慎也が眉をひそめた。「そんな大金、何に使う? 賭博か?」
「そんなわけないだろ! ギャンブルなんてしないよ。」
慎也は何も言わず、じっと幸作を見つめた。幸作はたちまち萎縮した。従兄の前では何も隠せない。
「明日、高橋家のオークションがあるだろ? 俺、彼女ができたから、彼女にジュエリーを落札して贈りたいんだ。」 幸作は白状した。
「彼女? お前、来年大学受験だろうが? 早すぎるんじゃないか?」
「まだ付き合ってないんだ! 試験が終わってから告白するつもりだよ。」 幸作は慌てて手を振った。
慎也は舌打ちした。「随分と気前がいいな。」
幸作は皮肉とも取らず、にやにやしながら言った。「好きなんだから、当然いいもの贈りたいよ。じゃなきゃ、他の男に取られちゃうかも…」
「本当に情けない。」 慎也は呆れたように言った。
「慎也兄、頼むよ!」
「分かった。後で経理に俺の個人の口座から振り込ませる。」
幸作は顔を輝かせた。「ありがとう、慎也兄! じゃあ学校に戻るよ! 明日のこと、忘れないでくれよな!」
「さっさと帰れ。」
目的を果たした幸作は、ご機嫌で去っていった。
慎也は背もたれに寄りかかり、幸作の言葉を反芻していた。小林玲奈はやはり俺のことを気にかけている。…まあいい。彼女の方が折れたのだ。これからおとなしくしていれば、何を狙っていようと構わない。金には困らん。欲しがるならやればいい。そう考えを整理すると、慎也の気分はずいぶんと晴れやかになった。
彼は携帯を取り上げ、佐藤拓真の番号を探してダイヤルした。電話がつながると、慎也は早速切り出した。「拓真、お前、昔どうやって彼女をなだめてたんだ?」
佐藤拓真は即座にキレた。「はあ? 俺がいつ彼女なんか作ったってんだ?」
慎也はのんびりと言った。「ああ、忘れてた。お前、独り身だったな。」
佐藤拓真:「…高橋、わざと嫌味言ってんのか?」
「嫌味なんて言ってない。ただ聞いてるだけだ。」 慎也はタバコに火をつけた。
「お前、数えきれないほど彼女いたのに分からんのか? その今の小娘と喧嘩でもして、なだめたいわけか?」 拓真は不機嫌そうだ。
「違う。」
「じゃあ誰をなだめるんだ? おいおい、まさかまた新しいの作ったんじゃないだろうな?」
「作ってない。」
「じゃあ誰だって言うんだ?」
「分かりきってるだろ。小林玲奈に決まってる。」 慎也はイライラした口調で言った。
拓真の向こうからは、しばらく声がなかった。
「どうした? どうやってなだめるんだ?」 慎也が催促した。
しばらくしてようやく拓真は我に返り、あっさりと言った。「ああ、玲奈か。あのしつこい女になだめる必要なんてあるか? 適当に何か買ってやればいいだけだろ?」
「何を買うんだ?」
「昔買ってやったもの、今も同じものを買えばいいんだよ。」 拓真の口調はうんざりしていた。
慎也は言葉に詰まった。…確かに、彼は玲奈に何も買ってやったことがなかった。
『ケチで最低な男』。
伊藤幸太の言葉が突然頭に浮かんだ。
…ちっ。俺がケチなわけないだろ。
彼の沈黙を不審に思ったのか、拓真が探るように言った。「…まさか、一度も買ったことないんじゃないだろうな?」
慎也は苛立ちを込めて言った。「何を買うんだよ! 彼女が何を好きかも知らねえんだからな!」
「おいおいおい、高橋の御曹司。そりゃあ、女も目を覚ますってもんだよな。」 拓真は嘲笑した。
「どういう意味だ?」
「どういう意味って? 例えば藤原美咲、あの女にはブランド品を山ほど送ってただろう? なのに玲奈にはここまでケチで、しかもいつも金目当てだの何だの言ってたのか? はあ、ケチならケチで、これからは連絡するなよ。」
「余計な口はしまっておけ。」 慎也は吐き捨てるように言った。
拓真が笑った。「冗談だよ。安心しろよ。玲奈はお前にべったりなんだから、なだめる必要なんてない。二日もすれば、またべたべたとすり寄ってくるさ。そうなるまで待ってりゃいいんだよ。」
その言葉を聞いて、慎也の顔に得意げな笑みが広がった。「…そうだな。あの女は俺から離れられないんだ。そうじゃなきゃ、昨夜わざわざ俺の世話に来たりしないよな。」