2025年7月5日。
その日、日本列島には朝から不穏な空気が流れていた。
異変は静かに、しかし確実に広がっていた。
起点は“情報”だった。
SNS、動画配信、匿名掲示板、ニュースアプリ──人々が日常的に触れるあらゆる場所に、「今日、何かが起きる」という言葉が散りばめられていた。
「7月5日、日本沈没」
「本日、大規模地震が発生予定」
「とある霊能者の予言、最後の日が今日だってさ」
「南海トラフと富士山噴火が連動するらしい」
信じる者は少なかった。だが、無視できるほどの小さな火種でもなかった。
ネットの海は“噂”と“笑い”と“恐怖”が入り混じり、誰もが一度は目にする程度には拡散していた。
興味本位で検索し、読み飛ばし、忘れていく人もいれば、真に受けて備蓄を始める者もいた。
一方で、そんな騒ぎを傍観しながら──ある者はこう呟いた。
「みんなで一斉に死ねるなら、まだいいよな。一人だけ生き残るとか、詰みすぎでしょ」
この国の人々は、時に過剰なまでに冷静で、時に驚くほど軽やかに絶望を口にする。
そんな国民性が、この“現実と虚構の境目が崩れる日”を、より一層奇妙なものにしていった。
事件が起こったのは、土曜の午後。
ほんの少し、気温が下がりかけたタイミングだった。
最初の異変は、テレビの速報だった。
ニュース番組が突然の特報を告げた。
画面には、国会議事堂と財務省庁が交互に映し出されていた。
建物そのものは、確かに見慣れた姿のままだった。
しかし、その空間は、どこかおかしかった。
黒い靄が立ちこめ、屋根の上には淡く揺れる異様な影。
そしてなにより、画面の片隅に、くっきりとした文字列が浮かんでいた。
「ダンジョン:難易度SSS級 未踏破」
現実のニュース映像にしては、あまりに唐突で、あまりに作り込まれた“表記”だった。
人々は目を疑い、スタジオのキャスターも口を濁した。
「これは……何かの悪戯でしょうか?テロップの不具合……?」
だが、直後に現場リポーターとの中継が繋がり、状況は一変する。
「こちらのスタッフによれば、この表示は、肉眼では確認できません。
しかし、カメラ越しの映像には、確かにこの“ダンジョン”の表記が映るとのことです」
スタジオが、静まり返った。
観ている者たちも、息を呑んだ。
つまりこの異常は、物理的な現象ではなく、何か“視えない力”による干渉だというのか。
──それが「ダンジョン」だと?
もはや、冗談では済まされなかった。
各局が緊急報道体制へと移行し、専門家や自衛隊OB、宗教家まで呼ばれて討論が始まった。
しかし、誰一人として明確な答えを出すことはできなかった。
やがて、政府が非常事態を宣言し、自衛隊が現場に展開する。
建物の周囲には戦車、ドローン、無人偵察機が配備され、現代兵器による対応が開始された。
だが──
何も、通じなかった。
ドローンが空中から接近しようとすると、突如として映像が乱れ、次のフレームでは機体が“消えて”いた。
建物に踏み入った特殊部隊は、通信を残す間もなく沈黙。
中にいた国会議員、官僚、職員たちの安否は、今もなお不明である。
外観に変化はない。ただし、内部は完全に隔絶された空間。
誰も、何も、戻ってこなかった。
これを「ダンジョン」と呼ばずして、なんと呼べばよいのか。
ネットは、すぐさま反応した。
正気と狂気、現実とネタが入り混じる空間──それが現代の情報網である。
「国会、ガチで異世界化」
「SSS級ってどこのなろうだよ」
「ついにラノベのターンきたか」
「これもうハンター待つしかないやつやん」
書き込みは冗談半分、期待半分。
動画投稿サイトには、現場周辺の映像や考察動画、VTuberの反応切り抜きが大量にアップされ、視聴回数は爆発的に伸びた。
街頭では、テレビに映る「ダンジョン:SSS級未踏破」の文字に目を奪われる通行人が立ち止まり、スマホをかざして撮影を始める。
専門家は口をそろえて言った。
「これは、これまでの常識では説明できない」
その言葉が、本当に意味するもの──
それは、この世界が“変わってしまった”という現実である。
もはや、この現象をただのバグや妄言として笑い飛ばす者はいなかった。
人々は知った。これは夢ではなく、終わりでもない。
始まりだ、と。
やがて、最初の「都市ダンジョン」は東京だけではなく、各地へと拡がっていくことになる。
鹿児島、札幌、大阪、名古屋──そして世界中で。
だが、それはまた別の話である。
この日を境に、人類の歴史は、未知との“攻略戦”に突入することになる。
鍵を握るのは、誰か。
選ばれるのは、どこにでもいる、ただの一人の市民かもしれない。
まだ、誰も知らない。