御堂司が彼女の鎖骨を歯で軽く噛みながら言った。
「集中しろ」
執拗に鳴り響く着信音。
御堂司はイライラと立ち上がり、床に落ちたスーツから携帯を取り出し、通話に出た。
「用件は」
「…司! 心ちゃんが倒れたの! 呼んでも起きないの!雪村明里の泣きじゃくる声がはっきりと聞こえた。
「落ち着いて。すぐに救急車を聖路加国際病院に呼ぼう。僕もすぐに向かうから。怖がらないで、僕がいる」御堂司は表情を一変させ、素早く身支度を始めた。
声には落ち着かせるような響きがあった。
「わ、わかった…もしもし、119ですか…」雪村明里はすすり泣いていた。
御堂司は携帯を握りしめ、足早に外へと向かった。
「…御堂司…」
御堂汐音が口を開いた。
だが司には聞こえていないようだった。
玄関の開閉音。
司はそうして去って行った。
別の女のもとへ。
御堂汐音はソファに乱れた服をまとったまま横たわっていた。
汐音は呆然とした。
次の瞬間、凍りつくような寒さが背筋を走る。
情事を仕掛けたのも司。
身を引いたのも司。
汐音は体を丸めた。
泣くと思ったのに、涙は出なかった。
ゆっくりと起き上がり、階段を上る。
浴室の鏡の前で、自分を見つめた。
セーターは肩までずれ、ブラは外れている。
まるで暴行を受けた後のようだ。
ただ消費されただけ。
汐音は口元を歪めると、服を脱ぎ、洗濯かごに放り込んで、シャワールームへ入った。
出てきた時、執事が寝室の入り口に立っていた。
言いかけてはやめた様子だ。
「何か?」御堂汐音が尋ねた。
「…奥様、お電話です。病院からです」
執事が携帯を差し出した。その目には同情の色があった。
「ご用件は」御堂汐音は折り返した。
「御堂先生、術後再発の患者さんがおります。小田部長から至急お越しいただくようにとのことです」
「承知しました」どうせ眠れそうにない。
汐音は手術が好きだった。
長時間立ち続け、集中し、体力を限界まで使うあの感覚が。
聖路加国際病院に駆けつけると、見慣れた姿があった。
御堂司と、雪村明里。
汐音は歩みを緩めた。
「御堂先生」小田部長が手を振った。
司と雪村明里が同時に汐音を見た。
眉をひそめる司と、 ぽかんとする明里。
「小田部長、術後再発ですか?」御堂汐音は平静な面持ちで歩み寄った。
「一年前に当院で弁置換術を受けた患者さんです。突然の失神で、超音波検査では感染性心内膜炎が確認され、再手術が必要です。三尖弁の分野では御堂先生がご専門ですので、ご家族に紹介しました」小田部長が画像を手渡した。
「感染は深刻です。疣腫を除去し、弁を再置換する必要があります。昨年、ご家族は信頼できないとして担当医の交代を求められました。なんで今回は…」御堂汐音は聞きながら、雪村明里を見た。
その目は静かで、冷たかった。
「…だめ! 彼女なんて信じられない! 娘を助けてくれるなんて信じられない!」小田部長の腕を掴み、「お願いです、医者を変えてください! 心を助けてください、まだ三歳なんです!」雪村明里は涙で潤んだ目で訴えた。
「雪村さん、お子さんを助けたいからこそ御堂先生を…」小田部長はなだめるように言った。
御堂汐音は俯いて画像を見つめ、周囲の声は耳に入らなかった。
馬鹿げている。
一時間前、自分の上にいた男が、今は別の女と、そして彼らの子供を連れて、自分に治療を懇願している。
そして自分は、その女に医術を疑われるのを聞かねばならない。
汐音は思わず、苦笑いを浮かべてしまった。
「小田部長が御堂先生を推すのなら、信じよう。」
御堂司が汐音のその笑みを見て、雪村明里の訴えを無視した。
雪村明里は哀れっぽく首を振った。
「彼女はそういう真似はしない」御堂司はただ言った。
手術で細工はしない、という意味か?
御堂汐音は終始、司と目を合わせようとはしなかった。
雪村明里は泣きながら司の胸にもたれかかった。
御堂汐音はさっと体をかわした。
御堂司はその動作をしっかり見据え、無表情で手術同意書に署名を終えると、「御堂先生、よろしくお願いします」と御堂汐音に言った。
御堂汐音は無言で手術室へと入っていった。
手洗いをしながら、「御堂先生、私は信じていますよ。でもお願いです、くれぐれも慎重にお願いします。あの男は御堂家の御曹司、患者は彼の娘さんです。もしものことがあれば、病院が大変な目に会います」と小田部長が低い声で言った。
「どの患者さんに対しても、私は全力を尽くします。手術台の上では、どの命も平等です」汐音が言った。
手術は四時間に及んだ。
成功だった。
御堂汐音が手術室を出ると、外で待っていた司と雪村明里がすぐに顔を上げた。
「手術は成功しました。患者さんはICUで経過観察後、安定次第一般病棟へ移ります。詳しい事はスタッフが案内致します。」
雪村明里の涙がとめどなく流れ落ちる。
泣き崩れるその姿は、見る者を切なくさせた。