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第23話

御堂司が彼女の鎖骨を歯で軽く噛みながら言った。


「集中しろ」


執拗に鳴り響く着信音。


御堂司はイライラと立ち上がり、床に落ちたスーツから携帯を取り出し、通話に出た。


「用件は」


「…司! 心ちゃんが倒れたの! 呼んでも起きないの!雪村明里の泣きじゃくる声がはっきりと聞こえた。


「落ち着いて。すぐに救急車を聖路加国際病院に呼ぼう。僕もすぐに向かうから。怖がらないで、僕がいる」御堂司は表情を一変させ、素早く身支度を始めた。

声には落ち着かせるような響きがあった。


「わ、わかった…もしもし、119ですか…」雪村明里はすすり泣いていた。


御堂司は携帯を握りしめ、足早に外へと向かった。


「…御堂司…」


御堂汐音が口を開いた。

だが司には聞こえていないようだった。

玄関の開閉音。

司はそうして去って行った。


別の女のもとへ。


御堂汐音はソファに乱れた服をまとったまま横たわっていた。


汐音は呆然とした。


次の瞬間、凍りつくような寒さが背筋を走る。


情事を仕掛けたのも司。


身を引いたのも司。

汐音は体を丸めた。


泣くと思ったのに、涙は出なかった。


ゆっくりと起き上がり、階段を上る。


浴室の鏡の前で、自分を見つめた。


セーターは肩までずれ、ブラは外れている。


まるで暴行を受けた後のようだ。


ただ消費されただけ。


汐音は口元を歪めると、服を脱ぎ、洗濯かごに放り込んで、シャワールームへ入った。


出てきた時、執事が寝室の入り口に立っていた。


言いかけてはやめた様子だ。


「何か?」御堂汐音が尋ねた。


「…奥様、お電話です。病院からです」

執事が携帯を差し出した。その目には同情の色があった。

「ご用件は」御堂汐音は折り返した。

「御堂先生、術後再発の患者さんがおります。小田部長から至急お越しいただくようにとのことです」


「承知しました」どうせ眠れそうにない。

汐音は手術が好きだった。

長時間立ち続け、集中し、体力を限界まで使うあの感覚が。

聖路加国際病院に駆けつけると、見慣れた姿があった。


御堂司と、雪村明里。


汐音は歩みを緩めた。


「御堂先生」小田部長が手を振った。


司と雪村明里が同時に汐音を見た。


眉をひそめる司と、 ぽかんとする明里。


「小田部長、術後再発ですか?」御堂汐音は平静な面持ちで歩み寄った。


「一年前に当院で弁置換術を受けた患者さんです。突然の失神で、超音波検査では感染性心内膜炎が確認され、再手術が必要です。三尖弁の分野では御堂先生がご専門ですので、ご家族に紹介しました」小田部長が画像を手渡した。


「感染は深刻です。疣腫を除去し、弁を再置換する必要があります。昨年、ご家族は信頼できないとして担当医の交代を求められました。なんで今回は…」御堂汐音は聞きながら、雪村明里を見た。


その目は静かで、冷たかった。


「…だめ! 彼女なんて信じられない! 娘を助けてくれるなんて信じられない!」小田部長の腕を掴み、「お願いです、医者を変えてください! 心を助けてください、まだ三歳なんです!」雪村明里は涙で潤んだ目で訴えた。

「雪村さん、お子さんを助けたいからこそ御堂先生を…」小田部長はなだめるように言った。


御堂汐音は俯いて画像を見つめ、周囲の声は耳に入らなかった。


馬鹿げている。


一時間前、自分の上にいた男が、今は別の女と、そして彼らの子供を連れて、自分に治療を懇願している。


そして自分は、その女に医術を疑われるのを聞かねばならない。


汐音は思わず、苦笑いを浮かべてしまった。


「小田部長が御堂先生を推すのなら、信じよう。」

御堂司が汐音のその笑みを見て、雪村明里の訴えを無視した。


雪村明里は哀れっぽく首を振った。


「彼女はそういう真似はしない」御堂司はただ言った。

手術で細工はしない、という意味か?


御堂汐音は終始、司と目を合わせようとはしなかった。


雪村明里は泣きながら司の胸にもたれかかった。


御堂汐音はさっと体をかわした。


御堂司はその動作をしっかり見据え、無表情で手術同意書に署名を終えると、「御堂先生、よろしくお願いします」と御堂汐音に言った。


御堂汐音は無言で手術室へと入っていった。


手洗いをしながら、「御堂先生、私は信じていますよ。でもお願いです、くれぐれも慎重にお願いします。あの男は御堂家の御曹司、患者は彼の娘さんです。もしものことがあれば、病院が大変な目に会います」と小田部長が低い声で言った。


「どの患者さんに対しても、私は全力を尽くします。手術台の上では、どの命も平等です」汐音が言った。


手術は四時間に及んだ。


成功だった。


御堂汐音が手術室を出ると、外で待っていた司と雪村明里がすぐに顔を上げた。


「手術は成功しました。患者さんはICUで経過観察後、安定次第一般病棟へ移ります。詳しい事はスタッフが案内致します。」


雪村明里の涙がとめどなく流れ落ちる。


泣き崩れるその姿は、見る者を切なくさせた。


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