汐音が雪丸を抱いて寝室に戻ると、きちんと叱って、物をかじる悪癖を正してやろうと思った。
しかし雪丸は察したように、もふもふの前足を汐音の肩に乗せ、ピンクの小さな舌をべろんと出し、潤んだ瞳で哀れっぽく見上げてきた。
「ごめんなさい」と言わんばかりの従順な態度だ。
「まったく…」汐音は呆れたようにため息をつき、結局叱るのが忍びなくて、うつむいて丸々とした頭にキスをした。
「次はダメよ」
そう言うと雪丸を寝かせ、自分は着替えを手に浴室へ向かった。
浴室のドアが閉まるやいなや、主人寝室の扉がそっと開かれた。
司は部屋着のポケットに手を入れ、悠然と入ってきた。
ベッドでうずくまっていた雪丸がすぐに耳を立て、嬉しそうに飛び降りると、くるくると彼の足元を回り始めた。
「よくやった」司はしゃがみ込み、ポケットから高級ペットフードの缶を取り出した。
「ご褒美だ」輸入牛肉のラベルが光っている。
雪丸はしっぽを激しく振りながら、予想外のごちそうにありついた。
汐音が風呂から出てくると、雪丸がベッドの上で仰向けになり、丸々としたお腹をぷっくりと膨らませていた。
まるで空気を入れすぎた小さなボールのようだ。
「今日うんちしてないの?」汐音は怪しみながら、ふにふにしたお腹をぽんと突いた。
雪丸は「ウーウー」と甘える声をあげ、ひっくり返って撫でてほしいとお腹を見せた。
汐音は仕方なくお腹をさすり、夜中に粗相しないか心配になり、クローゼットから古いタオルを取り出して敷いた。
「ベッドでしたら明日のおやつはなしだからね」と厳しい口調で警告すると、雪丸は無邪気にまばたきし、熱心に彼女の手を舐めてきた。
翌朝の食卓には、目玉焼きとベーコンの香りが漂っていた。
汐音は司の機嫌が特に良いことに気づいた。
口元に消え入りそうな笑みを浮かべ、コーヒーを飲む動作さえ普段より優雅に見える。
「見飽きたか?」司が突然見上げると、琥珀色の瞳が朝日の中で悪戯っぽく輝いた。
「俺の肉体に目がないのは分かってるが、真昼間からあからさまなのは控えろ」
「契約を履行するつもりはあるの?」と汐音は呆れたように白目をむき、本題を切り出した。
「最近仕事が忙しくて体が追いついてないんだ」司はだらりと椅子にもたれ、長い指でテーブルを軽く叩いた。
二十七でダメになる?うちの病院の泌尿器科の田中先生は腕がいいわよ。予約してあげようか?」汐音は冷たく笑った。
「ご心配には及ばん」司はゆっくりとナプキンで口元をぬぐった。「今朝、奥さんが特別に鶏肉の味噌汁を温めてくれた。味は今一つだが、奥様のベッドでの幸せを思えば、仕方なく完飲したよ」
「私の味噌汁を飲んだの?」汐音が箸を置いた。
蓮が家の家政婦に頼んで作らせたものだぞ!
司は優雅に立ち上がり、田中夫人から渡されたスーツの上着を受け取ると、のんびりとボタンを留めた。
「奥様も滋養が必要か?でも妊活中なら葉酸を摂るべきだな」司は汐音の耳元に身をかがめて囁き、温かい息をかけた。「薬局で買ってやる、償いということで」
そう言い残すと、颯爽と去っていき、汐音は司の背中を睨みつけた。
さらに腹が立ったのは、出勤の支度をしている時、リビングのテーブルの上の花瓶が消えていたことだ。
高杉蓮がくれたブルーローズはどこへ?
「田中夫人!」汐音が声を張り上げた。「ここに置いた青い花瓶は?」
田中夫人は手をもみながら台所から現れ、気まずそうな表情を浮かべながら、「あの…若様が今朝おっしゃるには…雪丸が昨日客用浴室で…その…用を足して…綺麗にはしたものの、花に匂いが移っているかと…それで…」と答えた。
「それで?」汐音は目を細めた。
「それで若様が花瓶を浴室の…便器タンクの上に置かれたのです…消臭効果があるとおっしゃって…」田中夫人の声は次第に小さくなった。
「……」
この幼稚園児が!
…
金曜午後の聖路加国際病院心臓外科外来で、汐音は水を飲む暇もないほど忙しかった。
診察室外の長椅子は患者で埋まり、汐音の前のカルテは山積みになっている。
看護師が30分前にくれた水はすっかり冷めていたが、引き出しの携帯は鳴り続けていた。
ようやく一人の患者を診終え、次の呼び出しの合間を見て携帯を確認した。
画面には二十件以上の未読メッセージが表示されており、すべて司からの「終わったか?」だった。
さらに驚いたことに、確認している数秒の間にまた同じ内容のメッセージが四、五件連続で届き、返信がない限り止めない勢いだ。
「頭おかしい?」汐音は白目をむく衝動を抑え、素早く文字を打った。
携帯のバイブレーションはようやく止まった。
しばらくして司が一見真面目そうなメッセージを送ってきた。
【誰かさん、一昨日の夜10時40分、二階の書斎で俺に約束したこと、覚えてるか?】
時間と場所が分単位で、まるで犯人尋問のようだ。
【覚えてるよ。だから何?】汐音は深く息を吸った。
【「だから今病院の入口にいる。温泉旅館へ送る】
【「明日の約束じゃなかったの?】
【今夜のうちに準備を整えれば、明日お客様が来た時にサービス満点の御堂様ご夫妻を目にできる。機嫌よく契約にサインしてくれるだろう?全部君のためにやってるんだぞ?よくも俺を罵るな。善意が仇で返るとはこのことだ】と司は当然のように返信した。
汐音は彼の屁理屈に笑いをこらえきれなかったが、診察室外にはまだ十数人の患者が待っている。
構っている暇はない。
「前もって言わなかったくせに。それに今も患者がいるの」
「あとどのくらい?」
「少なくとも30分」これを送ると、汐音はすぐに携帯をサイレントにし、引き出しに放り込んで次の患者を呼んだ。
色あせた作業服を着た中年の男性が、白髪の老人を支えて入ってきた。
汐音はこの親子を覚えていた。
前に検査に来た時、聴診器で明らかな心雑音を聞いたことがある。
「先生、報告書は全部ここに…」中年男性は疲れた声で、一連の検査結果をテーブルに置いた。
汐音は心エコーと心電図の報告書を素早く読み、次第に眉をひそめて、「リウマチ性心臓病ですね。僧帽弁の重度閉鎖不全に心不全、頻発性心室性期外収縮を伴っている…状態は深刻で、弁形成手術が必要かもしれません」と説明した。
「手術?」中年男性の顔が一瞬で青ざめた。「前に来た時、鈴木先生は薬で抑えられると言ってたじゃないか!」
「鈴木先生の診断は当時の病状に基づくものです。今は弁の病変が進行し、薬では効果的にコントロールできません。手術を検討する必要があります」汐音は電子カルテを開いた。
「そ、それじゃ…手術代はいくらかかるんだ?」男は洗いざらした服の裾を握りしめた。
汐音は彼らの身なりを見て、なるべく穏やかな口調で説明した。
「国民健康保険の加入者なら、大部分が保険適用されます。自己負担はこの範囲です」汐音は紙に数字を書いた。
「ただし術中大出血で輸血が必要になった場合、費用が増える可能性があります」
「どうしてこうなったんだ…」男の声は突然激しくなり、声を張り上げた
。「前の医者は薬で大丈夫って言った!薬代で五万円近く使ったのに、今度は手術だって?薬で体を壊してから手術させる、病院の策略か!」
「健一、そう言うな…先生の話を最後まで…」
老人が震える手で息子の腕を掴んだ。
「何を!」健一という男は父親の手を振り払い、汐音を指さして罵った。
「お前たち医者は吸血鬼だ!まず薬で金を巻き上げ、今度は手術で騙そうってのか!手術が失敗したらまた金を取るつもりだろう!」
診察室の空気が一瞬で凍りついた。
「お客様、落ち着いてください。治療方針に疑問があるなら、鈴木先生を呼んでカンファレンスしましょうか」汐音は深く息を吸い、専門的な態度を保った。
「また組んで騙そうってのか!」健一が突然テーブルを叩きつけ、モニターが揺れた。
「じゃあはっきり言え!この手術をすれば父は治るのか?絶対に治ると保証しろ!さもなきゃお前ら、わざと手術を失敗させてまた金を騙し取るつもりだろうが!」
汐音はもはや話す気も失せた。
「医療安全対策室、至急…」卓上の電話を取ると言った。
この一言が健一の怒りに火をつけた。
「呼ぶのか?人を呼んで脅すのか?いいや、そんなの通じない!父はこの病院で診てもらうほど悪化していく!責任を取ってもらうぞ!」健一は電話線を掴み、乱暴に引きちぎった。