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第37話

汐音は思わず高杉蓮を見やった。


蓮は相変わらずスーツ姿で、ネクタイは外しているもののワイシャツのボタンは最上段まできっちり留められている。


少年時代と変わらず、端正で控えめな気質を保っていた。


海外育ちで外資系企業に勤めながらも、蓮には「君子玉の如し」という温かな潤いがあり、言い換えれば「和風エリート」と呼ぶべき存在だった。


「もちろん、兄さんの方がカッコいいわ」汐音は微笑んで答えた。


高杉蓮の口元がほんのり緩んだ。


一方、若い男性は胸を押さえて同僚に寄りかかりながら「胸が張り裂けそうだ、マジで」と嘆いた。


庭園で賑わう人々は誰も気づかなかった。


ガラス戸の内側で、とっくに立ち尽くしている人影があることに。


「……御堂様?」


「何をご覧になって?」


隣にいた取引先が怪訝そうに尋ねた。


司は高杉蓮の背後に自然と隠れるように立つ女を見つめ、口元に冷たい笑いを浮かべて踵を返した。


懇親会が終わったのは深夜近くだった。


一滴も酒を口にしなかった高杉蓮は、自らハンドルを握り汐音を鎌倉の別邸まで送った。


「お腹いっぱいになったか?」

車が門前に停まると、蓮が尋ねた。


「食べ過ぎたぐらい」汐音はこくこく頷いた。


話しながら食べているうちに、つい食べ過ぎてしまったのだ。


「足りないかと思って、おばさんに味噌汁を作らせておいた。お腹いっぱいなら明日温めて飲め」高杉蓮が保温容器を差し出した。


「自分で作ったの?」そこまで気を遣われているとは思わなかった汐音は容器を受け取りながら訊いた。


「そんな暇がないよ」高杉蓮は苦笑した。「おばさんが作ってくれたんだ」


「そっか。今の兄さんは金融界の人気者だものね」


「花束がある。お前へのものだ」高杉蓮が後部座席を指さした。


汐音ははっとした。


「花束、あいつが贈らないなら、俺が贈る」彼の声は優しかった。


「……」


それは蓮の詮索をかわすための嘘で、自分でも忘れかけていた。


なのに蓮は覚えていた。


花束と保温容器を抱えて玄関に入ると、雪丸がすぐに駆け寄ってきて足元をくるくる回った。


汐音は笑いながら頭を撫で、花びんに花を活けた。


高杉蓮が贈ったのは天然のブルーローズで、市販の染色品とは違う。


どの花も鮮やかに咲き誇り、茎の曲がり具合が優美だ。


汐音は丁寧に茎を整え、見事な生け込みに仕上げてテーブルに飾った。


ブルーローズは照明に照らされ、見ているだけで心が明るくなる輝きを放っていた。


汐音が鑑賞していると、ふと振り返った先の二階階段に司が静かに立っているのに気づいた。


「お帰りなさい?」といつから見ていたのか分からない。突然の帰宅に彼女は心底驚いた。


「どこに行っていた?」司の視線が花束から汐音の顔へ移った。

口調は淡々としている。


濃灰色の部屋着を着た司が、高みから見下ろすように立っている様は、まるで乗り越えられない壁のようだった。


彼の口調に違和感を覚えた汐音は「食事に行ってたけど、何か?」と返した。


「よくもそんなことが言えるな」司は二階へ歩き出した。


「こっちに来い」


訳が分からないまま汐音は後を追い、雪丸も足元でくるくる回った。


「お前の飼い犬の大傑作だ。さあ、どう償うつもりだ?」

司は書斎のドアを押し開け、扉枠に寄りかかりながら顎をしゃくった。


汐音が不思議そうに中へ入ると、たちまち目を見開いた。


床一面に細かく引き裂かれた紙切れが散乱している。


「雪丸がやったの?」


汐音が雪丸を飼ってからずっと、おとなしい性格で一度も悪さをしたことがない。


田中夫人も「犬は飼い主に似る」と言って、いじめられても吠えない温厚さを褒めてくれたほどだ。


「雪丸がやるわけない」汐音の第一声は疑いだった。


司は冷笑を一つ漏らし、紙切れを拾い上げると明らかな歯型を指さした。


「こいつが噛まなきゃ、俺が噛んだとでも言うのか?」


「……」


汐音が紙片を受け取り詳しく見ると、確かに歯形だった。


彼女はしゃがみ込んで雪丸の歯型と照合したが、完全に一致した。


もはや弁解の余地はなかった。


「これが何か分かっているのか?」司は追い打ちをかける。


汐音が紙を広げると、銀行の融資契約書だった。


「……」


ビジネスに詳しくなくとも、この書類の重要性は理解できる。


頭がくらくらし、雪丸を叱りたい気持ちを抑えながら弱々しく言い訳した。


「大事な書類なんだから、ちゃんと片付けておけばよかったのに」


「被害者に落ち度があると?」司は嘲笑した。


「そういう意味じゃなくて…」汐音は声を潜めた。


「でもそんな大事なものを出しっぱなしにするのも、あなたの責任じゃない?」


雪丸は足が短いため、せいぜいソファまでしか飛び乗れない。


机の上に置いてあれば届かないはずだ。


彼の前科を思い出し、汐音は濡れ衣ではないかと疑い始めた。


「つまり、責任を取る気はないと?」疑わしい眼差しを感じた司は目を細めた。


責任を取らなければ、死ぬまでこの件を蒸し返されると汐音は分かっていた。


意地悪なこの男は雪丸に仕返しすらしかねない。


「どう責任を取ればいいの? 書き直してあげようか?」汐音は折れた。


「お前が書いた契約書に法的効力があるのか? あるなら今後は全てお前に書かせてやる」と司は皮肉たっぷりに言った。


司のこういう嫌味な態度が一番嫌いだった。


「この人に再サインしてもらえばいいんじゃない?」

汐音が紙片を拾い集めると、署名欄が噛み千切られて名前が判読できなかった。


「手術後に同意書を遡ってサインできると思うか?」と司の嘲笑は続く。


「結局、どうすればいいって言うのよ?」ダメもとで汐音は直接訊いた。


司が汐音を頭のてっぺんから足の先まで舐めるように見るので、身の毛もよだつ思いだった。


何か無理難題を吹っかけられるのではと危惧した。


「土曜日、一日秘書として同行しろ。取引先に再サインしてもらうためにな」だが意外にも彼は言った。


「具体的な時間は? 予定を調整しないと」一体これがどう償いになるのか? 汐音は腑に落ちなかったが断ることもできず。


「御堂先生は大変忙しい人だと重々承知だ。今週の土曜日だ、温泉旅館で会うことになっている」と司の口元がわずかに緩んだが、すぐに元に戻った。

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