秘書は呆然とし、ほとんど耳を疑った。
ためらいがちに「え?」と声をもらす。
「下がれ」司は嫌そうに彼を一瞥すると、二本の指を揃えて軽く振った。
秘書は「はい」と言いかけて、咄嗟に本筋を思い出した。
「御堂様、三菱UFJ銀行アジア太平洋地域総裁の高杉蓮様がお見えです。大会議室でお待ちです」
「会おう」
司は表情を読めず、コーヒーを一口含むと金縁眼鏡をかけ、淡々と言った。
企業がどんなに巨大でも銀行融資は必要で、双方は対等な共生関係だ。
司が秘書を伴い応接室に入ると、一人の男が水墨画の前で鑑賞している姿が目に入った。
口元をゆるめて、司は足を進めた。
高杉蓮は足音に振り返った。
対照的な気質の二人の男の視線が交差すると、同時に社交辞令の笑みを浮かべて握手を交わした。
「御堂様、お見かけします」
「同姓同名かと思いましたが、まさか高杉さんとは」
「御堂様に覚えていただけて光栄です」
光栄と言いながら、その口調は冷たく距離を感じさせた。
「確かに印象深いですな」司は意味深長に微笑んだ。
二人が腰を下ろし、御堂財閥が年明けに始動するプロジェクトについて協議した。
この取引には三菱UFJ銀行から百億円の融資が必要で、今日の議題は金利問題だった。
「旧知の仲ですから率直に言います――金利をあと2%下げてください」司は足を組み、単刀直入に切り出した。
「御堂様は『旧知』とおっしゃいますが、2%も下げれば、帰社と同時に辞表を書く羽目になりますよ」高杉蓮は軽く笑った。
「大げさな。三菱UFJが蓮さんをクビにするなら、御堂財閥はいつでも歓迎します。終身雇用をお約束しましょう」
司が机に手首を乗せ、指で軽くリズムを刻むと、薬指の結婚指輪が照明にきらめいた。
「何せ蓮さんには『義兄』とお呼びしなければならない仲ですから、我々は家族同然です」
高杉蓮は当然その指輪に気づき、冗談めかして真面目な口調で言った。
「1%が私の限界です。御堂様が受け入れられないなら、この『義兄』もご辞退いたします。私が日本を離れることになった日には、必ず汐音を連れて行きますから」
司の目つきが鋭く研ぎ澄まされた。
「蓮さんは本当に私の弱点を心得ていますね。汐音を離すなんてできませんよ」とやがて彼は笑みを浮かべて言った。
「1%で結構です。ただし私が譲歩した以上、蓮さんにも多少のサービスをいただきましょうか――」と渋々承知するふりをして続けた。
「我々は謎霧テックの技術が必要ですが、彼らは協力的ではありません。同社が御行から多額の融資を受けていると聞いています。橋渡しをお願いできませんか?」
「尽力いたします」高杉蓮がうなずいた。
後方で記録を取っていた二人の秘書は、ここでほっと息をついた。
二人は終始談笑し合い互いに譲歩していたが、傍目には次第に張り詰める空気が伝わってきた。
特に二人が口々に「汐音」の名を出す様は、これがビジネス交渉なのか、私情を絡めた駆け引きなのか見分けがつかないほどだった。
契約はすぐにまとまり、法務がその場で書類を作成し、双方が署名した。
司の署名は奔放で、彼自身のように自由闊達だった。
「折角蓮さんとご一緒です。今夜、食事でも?汐音も呼びます」
高杉蓮の筆跡は落ち着いて端正で、丁重に辞退した。
「御堂様のお心遣いありがとうございます。しかし今夜は既に予定が。次回は私がご招待いたします」
「そうですか。では、また今度」元より司は社交辞令を述べたに過ぎなかった。
高杉蓮が御堂財閥を後にし、車に乗る前にそびえ立つビルを振り返った。
「今夜空いてる?」
車内でスマートフォンを取り出すと、汐音へLINEを送った。
「あるよ。どうしたの?」
丁度暇だった汐音はすぐに返信した。
「同僚の歓迎会があるんだけど、ご飯ついでに来ない?こっちは家族同伴が普通で、一人で行くのは少し気まずくて」
「いいよ。ドレスコードある?」
ここまで言われれば汐音は断れない。
「いや、屋上ガーデンのバイキングだけど。何時まで?病院まで迎えに行く」汐音は退勤時間を送信した。
しかし定刻になっても追加患者が二人残っており、終了は三十分も遅れた。
急いで駆け下りると、向かいでクラクションを鳴らす高杉蓮の車が見えた。
後部座席に乗ろうとしたが、運転席に高杉蓮が座っているのに気づき、助手席のドアを開けた。
「ごめん兄ちゃん、追加患者が来ちゃって」と説明した。
「構わないよ」高杉蓮は言った。
「シートベルトして」
汐音がうつむいてベルトを留める間、高杉蓮は彼女の両手を一瞥した。
何の指輪もない清らかな手だった。
彼の目元が柔らかくなった。
「近いから、十分で着くよ」
「じゃあ化粧直すね」
「ああ、慎重に運転する」
三菱UFJ銀行の本社はロンドンにあり、世界有数の金融機関として60カ国以上に支店を構える。
高杉蓮は三十歳でアジア太平洋地域総裁の座に就いた金融界の新星だった。
汐音は高杉蓮の実父の家族事情を詳しく知らなかったが、彼の現在の地位を見れば、引き取られた後で十分な教育を受けたのだろう。
ガーデンレストランに到着し、高杉蓮と汐音が現れると、すぐに冗談が飛んだ。
「Seretaが遅刻したわけだ、こんなに可愛い子を連れてくるとはね」
「私の退勤が遅れたんです。彼のせいじゃありません」
汐音は高杉蓮の同僚間での印象を気にして慌てて説明した。
「わあ、気の利いたお嬢さんだ。待てよSereta、彼女は恋人?それとも妹?」幹部ばかりの場は和やかで、皆英語名で呼び合っていた。
「妹です」高杉蓮が言った。
だぶっとしたシャツを着た若い男性が即座にスマホを取り出した。「そっか、それならLINE交換しよう」
汐音は断りにくく、仕方なくスマホを出した。
銀行エリートたちは汐音の内向的な性格を見抜き、からかう興味が湧いた。
「おいくつ?」
「お仕事は?」
「彼氏はいるの?」
内向的な性格の汐音はこの騒ぎに面食らった。
「汐音、こっちへ」高杉蓮が適宜助け舟を出した。
汐音は子供の頃のようにすぐ蓮の背後に隠れた。
「諦めろよ、Seretaの妹は彼の宝物だ。お前に狙わせるか?」
一同が哄笑し、若者に言った。
「何でダメなんだ?営業部一のイケメンエリートは俺だろ?」
若者は意に介さなかった。
「前からお前の番じゃなかったのに、Seretaがいる今更なおさらだ」皆が野次った。
「妹ちゃん、俺と君の兄どっちがかっこいい?」
彼は諦めきれず、汐音に詰め寄った。