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第35話

「田中夫人からのお尋ねです。あなたの夕食を用意すべきか迷っていると。作りすぎると無駄になるし、少なすぎれば追加するのも面倒だそうで」汐音は淡々と言った。


「直接電話すればいいだろうに。御堂様の携帯を伝言係にするなんて、勿体ない話だ」司の興味は一気に冷めた。


「では本人に連絡させます」嫌味を聞き流した汐音は言った。


そう告げて電話を切った。


司が反応する間もなく、受話器には早くも発信音が響く。


舌打ち一つ。


昨日は『一緒にいると寿命が縮む』とまで言いおいて、今日は一言の慰めもくれない。


かつては優しく水のようだった汐音が、今や火薬庫のように些細なことで爆発する。


「奥様、若様はご主人様に呼ばれて仕事の報告に伺い、今夜は戻らないと。どうぞお早めにお休みくださいと」数分後、田中夫人が戻ってきた。

本当に仕事か何かか、汐音は気にしなかった。約束を破るのは初めてではない。結婚式の時、彼は誓った。


「生涯、汐音だけを愛す。この愛が終わるのは死の時のみだと」と。


今思えば、あれこそが最大の嘘だった。


「雪丸!」

呼べば駆け寄ってくる子犬の方が、今の汐音にとってはよほど愛しい。


「ご飯よ~」


しっぽをブンブン振りながら駆けてきた雪丸は、勢い余って汐音の足にぶつかり、舌を出して上目遣いで笑った。


抱き上げた汐音がぺちりと頬を寄せる。


……


清水茶寮。


宗一郎は友人と会うついでに、場所を変えるのが面倒だからと韓国出張の報告を息子に命じた。


個室に入った司はスーツをソファに放り投げ、紫檀の丸椅子にだらりと腰を下ろした。


振り出された紅茶を一気に飲み干す様は、和服姿の茶芸師の目に無作法に映った。


礼儀作法を知らぬわけではない。


気を配れば誰よりも貴公子然とできるが、彼は生来の気ままさで自分を縛ることを嫌った。


「そんなに眠いのか?」


湯呑みを置くと背もたれに寄りかかり、眠そうに目を細めた。


宗一郎が一瞥する。


「五日間で二十四時間も眠れてないんですよ。試してみます?」

司はだるげに答えた。


さらに昨夜もろくに寝ていない。


「仕事を遂行せよとは命じたが、睡眠時間を犠牲にとは言っていない。そんなに急いで戻ったのは、三歳児の誕生日のためか?」

茶芸師を退出させた宗一郎が低い声で言う。


「どれだけの監視を私の周りに配置しているんですか?何でもお見通しですねと」司が顔を上げる。


「一人前になって御堂財閥を継ぐ時が来れば分かる。たとえ監視者を配置しなくても、あなたの一挙手一動は私の目から逃れないということを」宗一郎は悠々と答えた。


「はいはい。三十年前なら、御堂様の名を聞いて震え上がらぬ者などいなかったと」司は嗤いた。


「だが情報網は更新した方がいい。戻ったのは誕生日のためじゃありません」司は欠伸を噛み殺し、切れ長の目に血走った光が浮かぶ。


「では何のためだ?」宗一郎が眉を上げる。


「呼び出さなければ、御堂様はもうお爺様になってたかもしれませんよ」司は含み笑いを浮かべた。

「?」


つまり、仕事を圧縮して戻ったのは、女と子を作るためだと?


その言葉に宗一郎の不満は増した。


明里との間にもう子がいるのに、さらに産む気か?


「汐音が離婚を望んでいる件、母さんも了承した。続けられぬなら潔く別れよ。汐音をいじめるのは止めろ」宗一郎は眉をひそめて厳しく言った。

「母上はこのところ頭痛に悩まされている。お前たちのことで日夜気をもんでいるからだ。心臓も弱い。これ以上母上を苦しめるなら、決して許さぬ!」


長々と説教している間、司は一言も返さない。


よく見ると、その小僧は顎杖をついたまま、とっくに眠りに落ちていた。


「……」


宗一郎は「小僧が!」と怒鳴ったものの、結局起こさず、従業員に上着を掛けさせるように指示し、秘書には「目を覚ましたら送り届けろ。疲労運転させるな」と命じた。


社長を見送った秘書が個室に戻ると、司は手羽先を頬張りながら「なかなか美味しいな」とコメントしていた。


「……お起きだったんですか?」


「ジージーの話は耳障りなことばかりだ。聞く価値なし」

司はだるそうに言った。


「……」


その後一週間、司は鎌倉の別邸に戻らなかった。


汐音は出張なのか、それとも別の用事なのか分からない。


普段なら詮索しないが、彼女の排卵期が訪れていた。


妊娠の確率が高いこの時期に、一刻も早く子を授かり、この「借金」を清算したかった。


なぜ司の意のままに子を産むのか?


逃げ出さないのか?


第一に、司が手放さなければ、彼女に逃げ切れるはずがない。

身分を隠し、友達とも縁を切るつもりはなかった。


第二に、宗一郎と御堂涼子が心から娘のように可愛がってくれた。


これからも二人の世話をし、傍にいたい。


だから汐音は円満な別れを望んでいた。


子を授かることでそれが叶うなら、値打ちはあると思った。


何より多額の慰謝料も得られる。


だが司が帰宅しなければ、どうやって妊娠すればいい?


もう時間を無駄にしたくない。


やむなく汐音は再び司に電話をかけた。


「司、今どこ?」


御堂財閥で契約書に目を通していた司は、ペンを走らせながら茶化した。


「驚いたな、御堂先生が自ら電話をくれるとは。君の着信を見る度、襟を正してから出るんだぞ」


「最近どこに行ってたの?」汐音は堪えて聞き返した。


「心配してくれているの?秘書に一分単位のスケジュールを送らせるよ」ペンをくるくる回しながら司が口元を緩める。


「日々の行動はどうでもいい。また一週間も帰ってこないけど、契約書はタダの紙ですか?」汐音は怒りを抑えて言った。


「契約書に罰則条項を明記しなかった君が悪い。罰則のない契約なんて、気分次第だ」司は軽く笑い、開き直って言った。

「……」


汐音は確かにそこまで考慮しておらず、言葉に詰まった。


「どうした?寂しいのか?」荒い息遣いを聞き取り、司は伏し目がちに呟いた。

「今は排卵期なの。早く妊娠して、この件を終わらせたい。それでいいでしょう?」彼から離れたいと急かすような口調だった。


「ああ、いいさ。だが道具扱いされるのが気に入らん。だから今は興味なし。次回だな」と司は嘲笑した。


そう言い残して電話を切った。


「最低!」と汐音は思わず呟いた。


ペンを置き、司は背もたれに深く沈み込んだ。


「何か方法は……」

コーヒーを運んできた秘書に突然尋ねた。


「とおっしゃいますと?」


「ゴム以外に、男が妊娠を避ける手段は?薬を飲むとか?」と司は考え込むように言った。

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